第八十二話 灰鴉の檻
第八十二話 灰鴉の檻
ダリオ・ベルモンド子爵から封書が届いたのは、前回の商談から二日後の昼だった。
派手な赤い封蝋を割ると、中には短い文面と、簡単な地図が入っていた。
『日時は明後日の夜。場所は同封の地図を見ろ。お前は俺の同伴者兼商談相手だ。獣人の姉ちゃんは、お前付きの護衛として通す。会場で騒ぎを起こすな。俺の顔を潰すな。ドレスコードを守れ。嬢ちゃんは金を持ってる客に見える服を着てこい。護衛は黒でまとめろ。貧乏くせえ格好で来たら、門で帰す。――ダリオ・ベルモンド』
口は悪い。
けれど、必要なことは全部書いてある。
日時、場所、立場、服装、禁止事項。
あの男は雑に見えて、仕事の線引きだけははっきりしている。
俺は封書を机に置き、地図へ視線を落とした。
会場はグレイヴ商会の本店ではなかった。
リズベルの中心から少し外れた場所にある、古い石造りの倉庫兼展示場。
表向きは、貴族向けの調度品や希少素材を保管する場所。
けれど、夜になれば別の顔を持つ。
灰鴉の取引会。
そこにロッカが出てくる可能性はある。
もし商品として出されるなら、買う。
金で済むなら、それが一番早い。
そのために十億ビルの信用枠を用意した。
そのために、ダリオの参加権を得た。
出てこなければ、別の入口を探すしかない。
俺は封書を畳み、今夜のための服を用意することにした。
選んだのは、ヴァルンハート家から用意された衣装の中でも、最も値が張りそうなドレスだった。
白を基調とした上質な生地。
腰から下には、黒に近い濃紺の布が幾重にも重なり、歩くたびに重く、美しく揺れる。
胸元から腰にかけては黒い締めが入り、細い金鎖と青い宝石が光を拾う。
白い生地には繊細な金刺繍が走り、片側の裾にはレースと布の重なりが生む深い切れ込みが入っていた。
肩は出ている。
胸元の露出は控えめだが、背中は思った以上に深く開いていた。
首筋。
肩。
腰の細さ。
歩いた時に覗く脚の線。
肌を見せすぎているわけではない。
それでも、嫌でも目を引くように作られている。
俺の普段の趣味ではない。
派手だ。
動きやすくもない。
けれど、今夜必要なのは趣味じゃない。
値段に見える説得力だ。
髪は背中へ流さず、丁寧に結い上げてもらった。
金色の髪は高い位置でまとめられ、細い編み込みの間に青い飾り石が差し込まれている。
首筋には数房だけが落ち、白い肌を際立たせていた。
耳飾り。
首飾り。
腕輪。
白い手袋。
そして、顔の半分を隠せる扇。
鏡の前に立つ。
吸い込まれそうなオッドアイが、鏡の中で静かに光っていた。
可愛い、では足りない。
綺麗、でも足りない。
女性の美しさというものを、一つの身体へ凝縮したような姿だった。
自分のことだからといって、わざわざ否定するつもりはない。
実際、俺はめちゃくちゃ可愛い。
そして、恐ろしく綺麗だ。
転生前だって、容姿を褒められれば普通に礼を言ってきた。
事実を否定する意味なんてない。
まして、今の身体は誰が見ても分かるほど整っている。
なら、使えるものは使えばいい。
今夜はこの見た目も、金も、立場も、全部武器にする。
俺は鏡の中の自分を見て、満足げに口元を上げた。
「うん。完璧」
背後で、ニカが呆れたような声を漏らした。
「自分で言うんだ」
「事実でしょ?」
俺は少し自慢げに微笑んで見せる。
「まぁそうなんだけどね」
ニカには、黒を基調にした護衛服を用意した。
動きを邪魔しない短めの上着に、細身の黒いズボン。
装飾は控えめだが、生地も縫製も安物ではない。
腰には武器を収められるが、目立たないよう外套の陰へ隠してある。
ニカは袖口をつまみ、少し困ったように眉を寄せた。
「こういう服、落ち着かない」
「似合ってるよ」
「それ、落ち着く理由にはならないんだけど」
ニカは鏡越しに俺を見て、ため息をついた。
「でも、アイリスの破壊力はやばいね」
「見た目の話なら、自覚はある」
「そこまで堂々と言われると、何も言えないよね」
「褒め言葉として受け取っとくよ」
そう言いながらも、ニカは鏡の前で一度だけ姿勢を正した。
可愛らしさよりも、隙のなさが前に出ている。
護衛としては十分だった。
その夜、俺とニカは獣車で会場へ向かった。
石畳を叩く車輪の音が、普段よりも大きく聞こえる。
窓の外には、夜の街灯りが流れていた。
俺は膝の上で指を組む。
ロッカが出てくるなら買う。
出てこないなら、別の手を探す。
それだけだ。
そう思っているのに、指先にはわずかに力が入っていた。
会場近くで獣車を降りると、ダリオはすでに待っていた。
派手な服は相変わらずだ。
濃い色の上着には金糸が走り、指にはいくつもの指輪が光っている。
けれど、今日は酒杯を持っていない。
酒の匂いも薄い。
あの男なりの仕事の顔なのだろう。
ダリオは俺を見るなり、わずかに目を見開いた。
それから、上から下まで遠慮なく視線を走らせる。
「ほう。整ってるとは思ってたが、ここまでとはな」
「ありがとうございます。自覚はあります」
一瞬、ダリオが黙った。
次の瞬間、豪快な笑い声が夜道に響く。
「ガハハハ! そこは謙遜するところじゃねえのか?」
「事実を否定しても意味がないでしょう」
「違いねえ。いやぁ、昔の俺なら自分の女にしてたぜ」
「残念でしたね。今のあなたにも、昔のあなたにも、その予定はありません」
「口まで強えな、嬢ちゃんは」
ダリオは楽しそうに笑う。
その視線がニカへ向いた。
「獣人の姉ちゃんも悪くねえ。ちゃんと護衛には見える」
「護衛だからね」
ニカが少しだけ不満そうに返す。
ダリオは笑ったが、すぐに会場へ視線を戻した。
「なら、余計なことはするなよ。今日は俺の顔で入る。嬢ちゃんは俺の同伴者兼商談相手。獣人の姉ちゃんは嬢ちゃんの護衛だ。会場で立場を変えるな。勝手に騒ぐな。俺の顔を潰すな」
「分かっています」
「分かってりゃいい」
それだけ言って、ダリオは歩き出した。
忠告ではない。
釘刺しだ。
この男は俺を助けるために来たわけじゃない。
自分の利益と、自分の顔を守るためにここにいる。
それでいい。
その方が分かりやすい。
倉庫の入口には、黒い服を着た係員が二人立っていた。
扉の上には、表向きの商会名も看板もない。
ただ、封蝋に刻まれていたものと同じ、灰色の鴉の羽根を模した小さな金具が、扉の隅に留められている。
ダリオが封状を差し出すと、係員は無言で確認した。
「ベルモンド子爵様。お待ちしておりました」
「待たせた覚えはねえな」
「お連れ様は?」
「俺の商談相手だ。新しい香粧品と、貴族向け商材を扱ってる。金はある」
係員の目が俺へ向く。
値踏みする視線。
服。
髪。
顔。
指先。
立ち方。
俺はその視線を真正面から受け止めた。
扇を軽く持ち直し、わずかに顎を上げる。
金を持つ客に見せる必要がある。
なら、遠慮する理由はない。
見たいなら見ればいい。
俺が、この場で最も目を引くことくらい分かっている。
支払い保証の書面を差し出すと、係員の目がほんのわずかに変わった。
「確認いたしました。そちらの獣人は?」
「嬢ちゃんの護衛だ。俺の同伴枠に入れてある」
ダリオが短く答える。
係員はニカを見る。
ニカは黙っていた。
視線は落とさない。
牙も見せない。
「会場内での抜刀、魔法の使用、騒乱行為は禁止されています。護衛の武器には封印紐をつけていただきます」
「構わねえ。ただし、変な目で見るなよ。俺の客の護衛だ」
「承知しております」
ニカの武器に黒い封印紐が結ばれる。
魔力を通せば切れる程度のものだろう。
けれど、切った時点で敵対行為と見なされる。
必要な確認を終えると、係員は扉を開いた。
中へ足を踏み入れた瞬間、会場の空気がわずかに止まった。
最初は、ダリオに向けられた視線だと思った。
元海賊の成り上がり子爵。
派手な服。
濃い髭。
この場でも浮くほど強い存在感。
けれど、違った。
視線は、俺へ向いている。
妻を連れた貴族の男が、会話の途中で言葉を失う。
富裕商人らしい男が、杯を口元で止める。
仮面をつけた客でさえ、こちらへ顔を向けた。
その隣で、貴族女性たちの笑みがほんのわずかに固まる。
嫉妬。
警戒。
値踏み。
敵意。
好奇心。
いくつもの視線が、香水の匂いに混じって肌を撫でる。
男だけではない。
女たちの目もまた、俺から離れない。
予想どおりだ。
この姿で目立たない方がおかしい。
なら、その視線ごと利用すればいい。
誰が俺を見たか。
誰が興味を示したか。
誰が警戒したか。
誰が値踏みする側の人間か。
俺は表情を崩さず、それらを一つずつ記憶していった。
ダリオが隣で低く笑う。
「……目立つなとは言わねえ。もう無理だ」
「最初から分かっていました」
「言うねえ」
「目を引くための格好でしょう?」
「違いねえ。だが、騒ぎは起こすな。お前が誰の目を奪おうが知ったこっちゃねえが、俺の顔に泥を塗ったら、商談ごと海へ捨てるぞ」
「分かっています」
「フンッ」
会場の前半は、一見すると普通の高級取引会だった。
魔獣素材。
希少鉱石。
古い魔具。
貴族向けの調度品。
異国の酒。
透明度の高い魔石。
繊細な織物。
司会者は品よく説明し、客たちは静かに札を入れる。
笑い声もある。
談笑もある。
けれど、どこか熱がない。
客たちは品を見ているのに、獲物を見ているような目をしていた。
俺は表情を崩さず、会場を見渡す。
ロッカが商品として出る可能性を、最後まで捨てるつもりはない。
もし出るなら買う。
名前を出す必要はない。
ダリオにも、本当の目的を話す必要はない。
俺はただ、金を持った新規客としてここにいる。
その仮面を崩してはいけない。
「嬢ちゃん、目が商品を見てねえな」
ダリオが横から低く言った。
「市場を見ています」
「便利な言葉だな」
「商談相手としては?」
「悪くねえがな」
それ以上、ダリオは聞いてこなかった。
何かあるとは察しているのだろう。
けれど、知らなくても困らないことを、あの男は無理に暴かない。
利益がある限りは、それでいい。
表の取引がひと段落すると、係員が静かに告げた。
「これより、奥の展示へ移ります」
客たちの空気が変わった。
笑い声が薄くなる。
目の色が、わずかに濃くなる。
二枚の扉をくぐった先は、先ほどの会場よりも天井が低かった。
空気が湿っている。
壁際に立つ護衛の数も増えていた。
そして、そこに人間が並んでいた。
首輪。
手首の番号札。
年齢。
種族。
用途。
従順。
家事経験あり。
力仕事可。
そう書かれた札が、商品説明のように吊られている。
客の何人かが腕を見て、歯を見て、背筋を見ていた。
人間を、人間ではなく品として見る目。
吐き気がした。
けれど、吐き気だけでは何も変わらない。
ここで顔を歪めれば、俺はただの場違いな小娘になる。
ダリオが小さく舌打ちした。
「嬢ちゃん、顔に出すなよ」
「……分かっています」
「お前が気分悪くなろうが知ったこっちゃねえ。だが、俺の隣で場を荒らすな」
「荒らしません」
「そうしろ」
慰めも、助言もない。
俺は自分で息を整えた。
鎖を外す方法は限られている。
買うか。
壊すか。
今ここで壊すのは無理だ。
なら、買うしかない。
奴隷の出品は淡々と進んだ。
力仕事用の男。
家事に慣れた女。
護衛崩れらしい男。
若い獣人。
けれど、ロッカはいない。
ドワーフもいない。
鍛冶や建築に使えるような者も違う。
終盤に近づいても、それらしい姿は出てこなかった。
ロッカがここに出される可能性に賭けていた。
もし商品として出るなら、金で買う。
それが最短だった。
けれど、その策はここで終わった。
ここには出ない。
すでに売られたのか。
別の場所にいるのか。
それとも、表へ出せない理由があるのか。
分からない。
分からないが、手ぶらで帰るわけにはいかない。
その時、司会者の声が少しだけ変わった。
「続きまして、本日の目玉でございます」
会場がざわついた。
奥から連れてこられたのは、一人の女性だった。
黒髪。
この世界では、ほとんど見ない色。
色白の肌に、ぼんやりとした瞳。
顔立ちは整っている。
けれど、表情が幼い。
首には首輪。
手首には細い鎖。
粗末だが、最低限整えられた服を着せられ、舞台の中央に立たされている。
泣いていない。
怯えてもいない。
ただ、不思議そうに客席を見ていた。
それが一番、気持ち悪かった。
「黒髪の混じり物でございます」
司会者が、なめらかな声で告げた。
「混血の証とされる黒髪。希少性は極めて高く、国に一人いるかどうか。所有歴は長く、従順。言葉は少々拙いものの、扱いやすい。鑑賞用、研究用、希少奴隷として価値ある一品でございます」
女性は司会者に促され、客席へ向かって小さく頭を下げた。
「いい子に、します」
幼すぎる声だった。
隣で、ニカの息がわずかに乱れた。
「……気持ち悪い」
「ニカ」
「分かってる。動かない。でも、あの子……自分が売られてるって分かってない」
その通りだった。
怖がっていないんじゃない。
怖がることを知らない。
自分が何をされているのか、理解していない。
俺は視線を舞台から外さなかった。
ロッカはいなかった。
このまま帰れば、俺たちはただの見物客だ。
けれど、本日の目玉商品を最高値で落とせば話は変わる。
金を出す客。
希少奴隷に興味のある客。
次も繋ぐ価値のある客。
そう見られれば、グレイヴ商会へ近づける。
あるいは、主催者側へ繋がるかもしれない。
俺は小さく息を吸った。
「ダリオさん」
「あ?」
「買います」
ダリオの目が細くなる。
「同情か?」
「違います」
「じゃあ何だ」
「入口です」
ダリオは、しばらく俺を見ていた。
「このまま帰れば、私はただの見物客です。でも、本日の目玉商品を最高値で落とせば、グレイヴ商会は私を金を出す客として見る」
「主催者へ繋がるつもりか」
「可能なら。少なくとも、次の商談を持ちかける口実にはなります」
「黒髪の混じり物を、そのための札にするってか」
「……ここから出すことにもなります」
ダリオの口元が歪んだ。
「順番をごまかすな、嬢ちゃん」
「分かっています」
「ならいい。俺の名前で札を入れる。払えねえは無しだぞ」
「払います」
競りは三千万ビルから始まった。
すぐに五千万へ跳ねる。
仮面の男。
収集家風の老人。
そして、痩せた学者風の男が淡々と札を上げていく。
「黒髪の混血なら、魔力密度の検証に使える。生きた検体は貴重だ」
その一言で、喉の奥が冷えた。
殺意に近いものが、ほんの一瞬だけ胸を掠める。
けれど、表情は崩さない。
崩せば負ける。
ここでは、怒りより金の方が強い。
「七千万」
ダリオが札を入れた。
会場の視線がこちらへ集まる。
表向きは、ダリオへ。
けれど、係員の何人かは俺の方も見ていた。
ダリオの商談相手。
金を持つ若い女。
そう認識されている。
「八千万」
学者風の男が札を上げる。
その声に迷いはない。
「一億」
ダリオが返す。
「一億五千万」
「二億」
「三億」
数字ではなく、欲望だけが口から落ちたような声だった。
学者風の男が、初めてこちらを見る。
その目に、人間を見る色はなかった。
ダリオが面倒くさそうに鼻を鳴らす。
「五億」
ざわめきが走った。
大きく跳ね上がった金額に、会場の空気が変わる。
学者風の男がこちらを睨んだ。
ダリオは笑わない。
ただ、相手を見据えている。
「降りろ。これ以上は趣味の値段じゃねえ」
数秒の沈黙。
学者風の男は唇を歪めたが、札を上げなかった。
司会者が高らかに告げる。
「五億ビル。ベルモンド子爵様にて落札でございます」
槌の音が響いた。
五億。
レインから預かった十億ビルの信用枠。
その半分が、たった一度の槌の音で消えた。
ロッカを探すために用意した金だ。
これで残りは五億。
安い判断ではない。
けれど、もう戻せない。
黒髪の女性は、何が決まったのか分からない顔で首を傾げていた。
係員が近づいてくる。
「引き渡しは取引会終了後、奥の確認室にてお願いいたします」
「分かった」
ダリオが短く答えた。
係員が離れると、ダリオは俺にだけ聞こえる声で言う。
「入口は開いたな。あとは勝手にやれ。ただし、俺の顔を潰すな」
「分かっています」
取引会が終わるまで、俺は表情を動かさなかった。
笑わない。
怒らない。
焦らない。
金を出せる客として、そこに座り続ける。
やがて案内された確認室は、会場よりもさらに奥にあった。
小さな机。
契約書。
支払い確認の係員。
そして、首輪と鎖をつけたまま立っている黒髪の女性。
近くで見ると、彼女の幼さはさらに際立っていた。
身体は大人の女性に近い。
けれど、目が幼い。
何を見ればいいのか分からない子どものような目で、俺を見上げている。
背後で、ニカが拳を握る気配がした。
けれど、何も言わなかった。
女性はしばらく俺を見たあと、首を傾げた。
「あたらしい、ご主人さま?」
その声は、幼すぎた。
俺は一瞬、返事ができなかった。
ロッカはいなかった。
だから俺は、次の入口を買った。
そう判断した。
けれど、買ったのは入口だけじゃない。
鎖の先にいたのは、何も分かっていない一人の女だった。
黒髪の女性奴隷。
その鎖の先がどこへ続いているのか、まだ俺は知らなかった。




