第八十一話 参加権
第八十一話 参加権
十億ビル。
レインから借りた信用枠は、数字としては十分すぎるほど大きかった。
けれど、その額を動かせるからといって、灰鴉の扉が開くわけではない。
金は鍵になる。
ただし、鍵穴がどこにあるのか分からなければ、ただ重いだけの金属だ。
グレイヴ商会の非公開取引会。
そこに近づくには、金とは別の入口がいる。
招かれた者の隣に立つ権利。
参加権。
ハルヴェイ商会の応接室で、俺は机の上に置かれた一枚の紙を見下ろしていた。
そこに書かれているのは、ニカが張り込みの中で掴んできた名前だった。
ダリオ・ベルモンド子爵。
「確定ではないんだけど」
ニカはそう前置きしてから、紙の端を指で押さえた。
「昨日の夜、グレイヴ商会の裏口に来てた男がいた」
「男?」
「うん。派手な服を着た、髭の濃いおじさん。貴族っぽい格好はしてたけど、立ち方も喋り方も全然それっぽくなかった」
「その人が、ダリオ・ベルモンド子爵?」
「たぶん。近くにいた使用人が、ベルモンド子爵って呼んでた。あと、元海賊の成り上がり貴族って噂も聞いた」
「元海賊……」
「うん。それで、その人が灰鴉の印が入った封状みたいなのを受け取ってた。中身までは分からない。でも、普通の取引じゃないと思う」
ニカはそこで少しだけ悔しそうに眉を寄せた。
「ただ、ごめん。それ以上は分からなかった。参加権を持ってるのか、ただの客なのか、仲介役なのかも不明」
「十分だよ。直接見た情報なら大きい」
俺は紙に書かれた名前を見つめた。
ダリオ・ベルモンド。
元海賊の成り上がり子爵。
灰鴉の印が入った封状を受け取った男。
今分かっているのは、それだけだ。
けれど、それだけでも入口としては十分だった。
部屋の隅で腕を組んでいたコルバンが、低く唸る。
「ダリオ・ベルモンド……名前だけなら聞いたことがあるな」
「知ってるんですか?」
「知ってるってほどじゃねえ。元海賊が金で爵位を買っただの、どこかの貴族に取り入って子爵に成り上がっただの、そんな噂があるくらいだ」
「信用できる相手ではなさそうですね」
「元海賊なんて肩書きが本当なら、信用する方がどうかしてる。で、どう近づく?」
コルバンの視線が俺に向いた。
俺は少しだけ息を整えた。
「商談にします」
「商談?」
ニカが瞬きをする。
「はい。参加権を持っているかも分からない相手に、灰鴉へ入れてくださいと頼んでも警戒されるだけです。こちらの目的を悟られないためにも、まずは向こうが聞きたくなる話を持っていきます」
「何を売る気だ?」
「清香布です」
「せいこうふ?」
「香り付きの汗拭き布です」
コルバンの眉がわずかに動いた。
「汗を拭く布か。それだけなら売れねえぞ」
「違います。汗を拭く布じゃありません。香りを整えるための布です」
俺は用意していた小さな包みを机の上に置いた。
ただの布に、薄めた香草水を染み込ませ、蝋引き紙で包んだだけのものだ。
試作品と呼ぶには粗い。
けれど、形にして見せることに意味がある。
「香水や香油は、汗と混ざると匂いが濁ります」
「隠そうとして強い香りを重ねると、余計に不快になる」
「だから、香りを足す前に肌を整えるんです」
「獣車移動の後、茶会の前、舞踏会の前、商談の前」
「首筋や手首を軽く拭いて、汗を落として、淡く香りを残す」
「そのあと香水や香油を使えば、香りが綺麗に乗る」
コルバンは包みを一つ手に取り、指先で感触を確かめた。
「また使えば減るものか」
「一度買って終わりの商品より、継続して買ってもらえる方が強いので」
「嬢ちゃん、商売の嫌なところを覚えてきたな」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「褒めてるよ。悪くねえ」
コルバンは包みを机に戻した。
「最初から灰鴉の話をするより、その方が自然だ。商品に興味を持たせて、相手が乗ってきたところで、必要な素材や市場調査を理由に取引会の話へ繋げる。そういう腹か」
「はい」
「よく考えたな」
「お願いします、で開く扉じゃないと思ったので」
その言葉に、コルバンは短く息を吐いた。
「……そうだな。ああいう場所の扉は、頼みごとじゃ開かねえ」
俺は机の上の清香布を見た。
小さな包み。
たったそれだけのものが、灰鴉の扉を開く鍵になるかもしれない。
助けたい相手はいる。
けれど、その気持ちをそのまま差し出したところで、相手は動かない。
なら、相手が動く理由をこちらで用意するしかない。
感情だけでは届かない場所へ、商談で踏み込む。
それが今の俺にできる、一番現実的なやり方だった。
その日のうちに、俺はダリオ・ベルモンド子爵の屋敷へ書状を送った。
いきなり訪ねて通される相手ではない。
相手は成り上がりとはいえ子爵だ。
使用人もいれば、護衛もいる。
門の前で名乗ったところで、追い返されるのが普通だろう。
だから、先に餌を投げる。
書状には、貴族向けの新しい携帯香粧品について商談があること。
珍しい品に明るい方だと聞いたこと。
興味があるなら、半刻だけでも時間をいただきたいこと。
それだけを書いた。
ハルヴェイ商会の名は出さない。
レインの名も、コルバンの名も出さない。
差出人は、アイリス・シエーレ。
その名だけだ。
そして、書状には清香布の包みを一つ添えた。
「これで会ってくれるかな?」
ニカが少し不安そうに言う。
「分からない。でも、何も持たずに門を叩くよりは可能性があると思う」
「興味を持たれなかったら?」
「その時は別の手を考える」
俺は封を閉じた書状を見下ろした。
お願いします、と頭を下げるための手紙ではない。
拾ってもらうための手紙でもない。
これは針だ。
相手が食いつくかどうかを見るための、小さな針。
翌日の昼過ぎ、返事は思ったより早く届いた。
届けに来たのは、ダリオの屋敷の使用人だった。
姿勢は整っている。
けれど、目つきはどこかこちらを値踏みしていた。
差し出された封書には、派手な赤い封蝋が押されている。
開くと、中には短い返事だけが書かれていた。
『明日の夕刻、半刻だけなら聞いてやる。つまらなければ、その場で追い返す。妙な真似をすれば、護衛が動く。――ダリオ・ベルモンド』
最後の一文を読んだニカの耳が、ぴくりと動いた。
「……脅しつきだね」
「むしろ分かりやすくていい」
「行くの?」
「もちろん」
俺は封書を畳んだ。
針には食いついた。
なら、次は引き上げる番だ。
翌日の夕刻、俺とニカはダリオ・ベルモンド子爵のリズベル滞在用の屋敷へ向かった。
移動は獣車だった。
門の前には、槍を持った護衛が二人立っていた。
屋敷の外観は貴族らしく整っているのに、門の装飾だけが妙に派手だ。
金色の縁取り。
見たこともない獣の牙を使った飾り。
玄関脇には、船の碇を模した巨大な鉄細工まで置かれている。
上品ではない。
だが、金はかかっている。
「名を」
護衛の一人が短く言った。
「アイリス・シエーレです。ベルモンド子爵から面会の許可をいただいています」
封書を見せると、護衛はそれを受け取り、門の奥に控えていた使用人へ渡した。
使用人は封蝋を確認し、俺とニカを順に見る。
特にニカを見る時間が長かった。
「護衛を伴うことは許可されています。ただし、屋敷内での抜刀、魔法の使用、主人への無礼は許されません」
「承知しています」
「荷物を確認します」
革鞄の中を確認される。
清香布の包み。
商品構想の書類。
支払い保証の書面。
隠し武器はない。
もっとも、ニカ自身が十分に武器のようなものだ。
使用人は必要以上に表情を変えず、鞄を閉じた。
「こちらへ」
そうしてようやく、俺たちは屋敷の中へ通された。
通された応接室は、ひどく派手だった。
壁には古びた海図が掛けられ、棚には魔獣の牙、南方の仮面、宝石を散りばめた短剣、価値があるのか分からない像が並んでいる。
赤や紫の布が椅子や机に掛けられ、部屋の隅には金貨の詰まった箱が半ば見せつけるように置かれていた。
貴族の応接室というより、海賊の宝物庫だった。
「ガハハッ! お前が噂の小娘か!」
奥の大椅子に座っていた男が、酒杯を片手に笑った。
日焼けした肌。
濃い髭。
鋭い目つき。
がっしりした体格。
派手なコートには金糸の刺繍が入り、太い指には宝石付きの指輪がいくつも光っている。
海賊が金で貴族服を着ている。
そんな印象が、見た瞬間に胸の中へ落ちてきた。
「で? 俺の時間を買うだけの金か、珍品か、面白ぇ話は持ってきたんだろうな?」
「商談です」
「商談? 小娘が俺に商談と来たか。いいねぇ。退屈しのぎにはなりそうだ」
ダリオは酒杯を傾け、喉を鳴らして酒を飲んだ。
豪快で、雑で、胡散臭い。
けれど、その目は笑っていなかった。
「だがな、嬢ちゃん」
酒杯が机に置かれた。
軽い音だった。
それなのに、部屋の空気が一段重くなる。
「俺ぁ、腐っても元海賊だ」
ダリオの声から笑いが消えた。
「騙し、略奪、そして……殺し」
ニカの耳がわずかに動いた。
「俺がこの服を着て、この屋敷に座って、子爵なんぞと呼ばれてるのはな、綺麗な金を積んだからじゃねえ。血と潮と泥にまみれた金を、腐るほど積んだからだ」
ダリオは椅子の背に身体を預けたまま、ゆっくりと笑う。
「嬢ちゃんが今から相手にしようとしてるのは、そういう野郎だ。今ならまだ、この場から出ていってもいいぜ。今日は酒がうめえ。気分も悪くねえ。帰る小娘の背中に斬りつけるほど、俺も野暮じゃねえからな」
怖い。
そう思った。
目の前の男は、自分が人を殺してきたことを隠していない。
むしろ、それをこちらに見せている。
けれど、ここで退けば終わる。
灰鴉には届かない。
ロッカにも届かない。
「帰りません」
声は震えていなかった。
ダリオの片眉が上がる。
「ほう」
「あなたが危ない人間だということは分かりました。でも、私が探しているのは、安全な人ではありません」
「……言うじゃねえか」
「必要なのは、灰鴉に繋がる入口です」
ダリオの目が細くなる。
「俺を使う気か、嬢ちゃん」
「はい」
迷わず答えると、ニカの耳がわずかに動いた。
ダリオは一瞬だけ黙り、それから喉の奥で笑った。
「ガハハッ。正直じゃねえか」
「あなたも、私を利益として見るのでしょう?」
「当然だ」
「なら、お互い様です」
信用はしない。
好きにもならない。
けれど、必要なら使う。
そして、この男も同じことを考えている。
それでいい。
綺麗な関係を作りに来たわけじゃない。
俺は、灰鴉の扉を開けに来た。
「いいぜ。話してみろ。金になるなら聞いてやる」
俺は椅子に座り、革鞄から清香布を取り出した。
ダリオは最初、馬鹿にしたように鼻で笑った。
「香り付きの汗拭き布だぁ? 濡れた布に香油でも垂らしゃ終わりじゃねえか」
「違います」
「あ?」
「汗を隠す布ではありません。香りを美しく使うための下地です」
そこから説明した。
汗と香りが混ざれば匂いは濁る。
香りを足す前に肌を整える。
獣車移動後、茶会前、舞踏会前、商談前。
一枚ずつ包めば持ち運べる。
香り違いも作れる。
季節限定も、高級箱入りの贈答品も作れる。
ダリオは黙って聞いていた。
やがて、清香布の包みを指先で弾く。
「嬢ちゃん、お前が持ってきたのは布じゃねえな」
「布です」
「違う。これは入口だ」
ダリオの目が、酒の熱とは別の光を帯びる。
「貴族の女どもは見栄で買う。商人どもは体面で買う。男どもは女に嫌われねえために買う。香りを変えりゃ別物になる。箱を変えりゃ贈り物になる。季節を変えりゃまた売れる」
彼は低く笑った。
「しかも、うまく転がせば香料商、包材屋、箱職人、貴族の茶会まで繋がる。俺みてえな海賊上がりが、正面からじゃ入りにくい場所にもな」
「そこまで見ますか」
「見るさ。見えねえ奴から沈んでいく。海でも、商売でも同じだ」
ダリオは清香布を机に戻した。
笑っている。
けれど、その目はもう清香布だけを見ていなかった。
「ダリオさん」
「あ?」
「今、どちらに価値を感じていますか?」
「どういう意味だ?」
「この商品と、私です」
一瞬、部屋が静かになった。
ダリオは俺を見たまま、数秒だけ黙った。
そして、腹の底から笑った。
「ガハハハハッ! 嬢ちゃん、自分でそれを聞くか!」
「大事なことなので」
「自分を商品と並べる小娘なんざ、初めて見たぜ」
笑いながら、ダリオは酒杯を持ち上げた。
けれど、酒を飲む直前で動きが止まる。
口元の笑みだけを残して、目つきが変わった。
「おめぇだよ」
低い声だった。
「清香布も悪くねえ。だが、これは一枚目の札だ。俺が見てるのは、その札を切ったおめぇの方だ」
「それなら、話が早いです」
「あ?」
「今回の灰鴉の参加権については、清香布の商談としてまとめます。紹介料、試作品の優先確認権、香料商や包材職人を紹介していただいた場合の手数料。そこまでは、この商品の取引です」
「じゃあ、今からするのは何の話だ」
「別件です」
俺はダリオをまっすぐ見た。
「私に投資しませんか」
「……投資?」
「はい」
「金を借りたいなら、そう言え」
「借りません」
「あ?」
「返済はしません」
その瞬間、酒杯が机に叩きつけられた。
重い音が、応接室の空気を潰した。
中に残っていた酒が跳ね、机の上に濃い染みを作る。
ニカの耳がびくりと跳ねた。
尻尾がわずかに膨らみ、身体が半歩だけ前に出かける。
けれど、俺は手だけでそれを制した。
ダリオは笑っていなかった。
「嬢ちゃん」
低い声だった。
「俺の前で、金を返さねえって言ったのか?」
「はい」
「俺が金をどうやって積んできたか、さっき聞いてたよな?」
「聞いていました」
「だったら分かるだろうが。俺はな、金を踏み倒す奴が一番嫌いなんだよ。てめぇ殺されてぇのか」
空気が静まり返る。
普通なら、ここで謝るべきなのだと思う。
言い方を間違えたと頭を下げて、機嫌を取るべきなのだと思う。
けれど、俺はそうしなかった。
ここで折れれば、この男の投資対象にはなれない。
「踏み倒すとは言っていません」
「あ?」
「返済義務のあるお金なら、借りません。私が欲しいのは融資ではなく、出資です」
「言葉を変えりゃ済むと思ってんのか?」
「いいえ。意味が違うと言っています」
俺は目を逸らさなかった。
「融資なら、借りたお金を返す必要があります。利息もつく。けれど出資なら、あなたが買うのは返済請求権ではありません。未来の利益に最初に噛む権利です」
「俺が損する可能性もある」
「あります」
「それを俺に飲めってか」
「飲めないなら、この話はここで終わりです」
ニカが息を呑む気配がした。
ダリオの目が、さらに鋭くなる。
でも、俺は退かなかった。
これは脅しじゃない。
懇願でもない。
条件が合わなければ流れるだけの商談だ。
「あなたが見ているのは、清香布ではなく私なのでしょう?」
俺は静かに言った。
「なら、私の値段の話をしています」
長い沈黙が落ちた。
やがて、ダリオの口元がゆっくりと歪んだ。
「……おめぇみてえな嬢ちゃん、今まで会ったことがねえ」
声にはまだ低い圧が残っていた。
けれど、その奥に別の熱が混じっている。
怒りではない。
興味だ。
「俺の金を返さねえと言って、睨まれても引かねえ。しかもそれを、踏み倒しじゃなく投資だと言い切る」
「安く売るつもりはありません」
ダリオは一瞬だけ黙った。
そして、腹の底から笑った。
「ガハハハハッ! ますます気に入ったぜ、嬢ちゃん!」
「では、百億ビルでどうですか」
笑い声が止まった。
ダリオの指が、酒杯の縁で止まる。
「百億だぁ?」
「はい」
「嬢ちゃん、俺を脅しに来たのか、夢を売りに来たのか、どっちだ?」
「未来の利益を売りに来ました」
「使い道は?」
「まだすべて決まっているわけではありません」
「おいおい。百億欲しいと言っておいて、白紙か?」
「白紙ではありません。未確定なだけです」
俺は机の上の清香布を指先で軽く押さえた。
「今、海辺に人を集めるための構想が動いています。詳細は契約上話せません。ですが、その先に滞在型の場を作る余地があります」
「滞在型?」
「人は、日帰りで遊ぶ場所に金を落とします。でも、泊まる場所があればもっと落とす。泊まる場所が上等なら、さらに落とす。貴族や富裕層が安心して滞在できる場所を作れば、必要になるものは一気に増えます」
「宿か」
「宿だけではありません。別荘、ホテル、食事、酒、茶葉、寝具、家具、照明、香料、入浴用品、清掃用品、護衛、獣車、倉庫、保存食、土産物、贈答品、職人、建築資材。人が泊まる場所には、周りに商売が生まれます」
ダリオの目が動いた。
「続けろ」
「あなたに渡すのは、その周辺に噛む権利です」
「リゾートそのものじゃねえのか」
「違います。中核は渡しません」
そこは譲れない。
「でも、そこが動くために必要なものは山ほどあります。資材。消耗品。食料。酒。香料。家具。装飾。輸送。業者。職人。そういうものを調達し、紹介し、繋げるところにあなたが噛む」
「俺は本体の外側で稼ぐってわけか」
「はい。けれど、外側だから小さいとは限りません」
俺はダリオを見た。
「大きな場所が動けば、周りに流れる金も大きくなります。特に、貴族や富裕層向けなら一つ一つの単価が高い。百億ビルを出しても、一シーズン。長くても二、三シーズンで回収できる可能性があります」
「失敗したら?」
「あなたは損をします」
「はっきり言うな」
「投資なので」
ダリオは喉の奥で笑った。
「だが、成功すりゃ?」
「あなたは、リゾートそのものを持たずに、リゾートが動くたびに利益を取れる立場になります」
ダリオは黙った。
その目の奥で、金が動いている。
建物が建つ。
人が来る。
泊まる。
食う。
飲む。
洗う。
飾る。
贈る。
運ぶ。
壊れれば直す。
減れば買い足す。
一度作って終わりではない。
動き続ける限り、金が流れ続ける。
「嬢ちゃん」
「はい」
「お前が売ってんのは商品じゃねえな」
「そうですね」
「場所だ。人が集まって、金が落ちて、欲が生まれる場所。その周りにできる川の流れを、俺に買わせようとしてる」
「正確には、その川に最初に船を出す権利です」
一瞬、ダリオは黙った。
それから、腹の底から笑った。
「ガハハハハッ! 海賊に船の話を持ってくるか!」
「分かりやすいかと思いまして」
「気に入ったぜ、嬢ちゃん」
ダリオは酒杯を机に置いた。
「百億を一晩で決めるほど俺は馬鹿じゃねえ。だが、話を蹴るほど老いちゃいねえ」
「では?」
「出資枠だ。まずは十億。清香布と灰鴉の件に絡む支度金として出す。残り九十億は、お前が次の札を見せるたびに段階で出す。俺が乗らねえと判断したら、その札には金を出さねえ」
「その場合、その件への優先権も失います」
「抜け目ねえな」
「そこは譲れません」
しばらく、俺とダリオは無言で向かい合った。
やがて、ダリオが獰猛に笑う。
「いいぜ。灰鴉の席を用意してやる。ついでに、お前にも賭けてやる」
その瞬間、参加権とは別の取引が始まった。
信用ではない。
善意でもない。
互いの欲と利害を見せ合った上での、危険な握手。
世界も金も、綺麗事だけでは回らない。
そんなことは、俺が一番よく知っている。
屋敷を出ると、夕暮れの空気が肌に触れた。
獣車へ向かいながら、ニカが小さく息を吐く。
「信用するの?」
「しない」
「だよね」
「でも、話はできる」
俺は振り返らずに言った。
「あの人は、善意で動く人じゃない。けど、利益なら動く。欲も隠さない。自分が危ない男だってことも隠さない」
「それって、いいこと?」
「少なくとも、綺麗な顔で腹の中を隠してる人よりは分かりやすい」
参加権は手に入った。
けれど、それは安全な扉の鍵ではない。
灰鴉の檻へ、自分から入るための札だった。




