第八十話 灰鴉の入口
第八十話 灰鴉の入口
灰鴉の印。
その小さな印を見つけてから、俺たちは表の道を追うことをやめた。
ロッカ・バルグレンの記録は、正規の書類の中では途切れていた。
罪状は貴族暴行。
捕縛日は三年前。
拘留先は移送済み。
移送先は不明。
そして、移送手続きの端に残っていた灰色の鳥。
それがグレイヴ商会の裏印である可能性が高いと分かった以上、次に見るべきものは役所の記録ではない。
グレイヴ商会そのものだった。
ただし、近づき方を間違えれば終わる。
相手は普通の商会ではない。
表向きは貴族屋敷向けの奉公人や労務奴隷の仲介商。
だが、裏では希少な亜人や珍しい血筋、表に出しにくい品まで扱っているという噂がある。
そんな場所に、学院生が正面から行って何かを聞けるはずがない。
だから最初にやるべきことは、入ることではなかった。
見ることだ。
「ここから先、目立つ動きは禁止ね」
ニカが小声で言った。
俺たちはリズベルの表通りから少し外れた、古い石造りの建物が並ぶ区画に来ていた。
職人街ほど荒れてはいない。
商業区ほど賑やかでもない。
道幅は広く、掃除も行き届いている。
それなのに、どこか空気が硬かった。
歩いている者の服装が違う。
荷運びの人間もいる。
商人らしい者もいる。
けれど、安物の荷袋を抱えた平民は少ない。
護衛を連れた使い。
上質な外套を羽織った男。
家紋のない馬車。
顔を伏せる従者。
誰も大声で話さない。
誰も無駄に立ち止まらない。
それだけで、この辺りが普通の商売をする場所ではないことが分かった。
「グレイヴ商会は、あそこ」
ニカが顎で示した先に、灰色の石壁の建物があった。
派手ではない。
むしろ、表向きは落ち着いた商会に見える。
正面扉には黒い金具が打たれ、看板には小さく商会名だけが刻まれている。
品を並べる棚も、客を呼び込む声もない。
店というより、屋敷に近い。
正面には二人の男が立っていた。
武装は目立たない。
だが、立ち方が明らかに普通ではない。
荷物を見る目ではなく、人を見る目をしている。
「入れると思う?」
ニカが聞く。
「無理そう」
「正解」
ニカは軽く笑った。
「あそこは普通の客がふらっと行く場所じゃない。紹介状か、商会側からの呼び出しがないと門前払い。下手に近づいたら顔覚えられるよ」
「顔を覚えられるのは困るね」
「めちゃくちゃ困る」
俺たちは向かいの小さな茶屋に入った。
通りに面した席を選ぶ。
注文したのは、薄い茶と焼き菓子。
目的は食べることではなく、見ることだ。
ニカは慣れた様子で椅子に座り、片耳だけを通りへ向けた。
俺は茶碗に手を添えながら、視線だけでグレイヴ商会の入口を追う。
しばらくすると、獣車が一台止まった。
黒に近い深緑の獣車。
家紋はない。
ただ、車輪も扉の金具も高級だった。
扉が開き、中から降りたのは、壮年の男と若い従者。
男は身なりこそ控えめだが、布地の質が違う。
従者は一歩後ろを歩き、グレイヴ商会の門番に小さな札を見せた。
門番は札を確認し、扉を開けた。
「札だね」
「うん。紹介札か入館札。たぶん、客ごとに違う」
ニカが低く答える。
「商会員じゃない人が入るには、あれがいる」
「偽造は?」
「たぶん無理。少なくとも、あたしにはできない」
「だよね」
しばらくして、今度は荷獣車が裏路地へ入っていった。
正面ではない。
建物の横から奥へ回る道がある。
俺たちは茶屋を出て、少し時間を置いてからその裏通りへ回った。
裏通りは、表よりも空気が悪かった。
石壁は高く、窓は少ない。
荷を降ろすための裏門がいくつかあり、そこには正面よりも無骨な男たちが立っていた。
荷獣車の荷台には、布で覆われた木箱が積まれている。
酒や布地ではない。
箱の大きさも形もばらばらだ。
中身を悟らせないための覆い方だった。
ニカが小さく息を吸う。
「あれ」
彼女の視線の先。
荷箱の封紐に、小さな灰色の鳥が押されていた。
羽を畳んだ鳥。
爪を立てた灰鴉。
記録の端にあった印と同じ形。
胸の奥が冷える。
紙の上の印ではない。
今、目の前で動いている印だ。
「あれが、グレイヴ商会の裏印」
「……間違いなさそうだね」
「うん」
それ以上近づくのは危険だった。
俺たちは裏通りを抜け、少し離れた場所まで歩いた。
その日一日で分かったことは少なくない。
グレイヴ商会へ出入りする客は、身元のはっきりしない金持ちか、貴族の使いらしき者が多い。
正面から入るには札が必要。
裏口では灰鴉の印が使われている。
荷獣車の出入りは夕方前後に集中する。
護衛は強い。
そして、商会の周囲には、何気ない通行人を装った見張りがいる。
普通に近づくことはできない。
翌日から、俺とニカは何度か場所を変えてグレイヴ商会を見た。
茶屋。
古道具屋の軒先。
向かいの路地。
荷獣車の通る角。
市場へ戻る橋の上。
ニカは驚くほど自然に周囲へ溶け込んだ。
獣人の耳と尻尾は目立つはずなのに、動き方一つで印象を変える。
荷運びの子どもに混ざる時もあれば、買い物帰りの客のように振る舞う時もある。
「ニカって、こういうの上手いね」
「前に言ったでしょ。危ない仕事してたって」
「……ごめん」
「謝るとこじゃないよ。今は役に立ってるし」
そう言って笑うニカの顔は軽かった。
でも、その軽さの下に何があるのか、俺はもう少しだけ分かるようになっていた。
三日目の夕方、ニカが古い知り合いから拾ってきた情報を持ち帰った。
場所はハルヴェイ商会の小部屋。
レインはそこにいない。
表向きの商会業務に専念してもらっている。
ただ、コルバンだけはいた。
彼は商会の名前では動かない。
けれど、俺たちが死なないための現実的な助言役として、話を聞いてくれている。
「グレイヴが近いうちに非公開の取引会を開くのは、ほぼ確定」
ニカは声を潜めて言った。
「表向きは希少品の売買。魔獣素材、珍しい鉱石、古い魔具、貴族向けの調度品。そういうのが出るらしい」
「表向きは、だね」
「うん。裏では奴隷も出る」
奴隷。
その言葉には、まだ慣れない。
慣れたくもない。
「ロッカさんが出る可能性は?」
「そこまでは分からない。ただ、グレイヴの客や関係者が集まるなら、ロッカの移送先に繋がる誰かがいる可能性はある」
コルバンが腕を組む。
「直接ロッカを探すより、グレイヴの人脈を辿る方が現実的か」
「うん。でも問題がある」
「参加条件か」
コルバンが先に言うと、ニカは頷いた。
「招待状か、既存客の同伴がいる。あと、金」
「金?」
「入るだけでも資金力を見られる。冷やかしを入れないためだと思う。最低でも大金貨数枚以上をその場で動かせる客じゃないと相手にされないって」
俺は自分の手持ちを頭の中で確認した。
契約一時金。
初月分の見込み。
まだ実際に全部が入っているわけではない。
使える現金としては、およそ一千五百万ビル前後。
普通の学院生なら異常な大金だ。
けれど、貴族向けの非公開取引会では足りない可能性が高い。
「一千五百万ビルくらいじゃ、足りないかな」
俺が言うと、コルバンは即座に頷いた。
「足りねえ」
「即答ですね」
「入るだけなら見せ金として足りるかもしれねえ。だが、奴隷や希少品が出る場なら、競れば桁が跳ねる。相手は貴族や富裕商人だ。数千万、場合によっちゃ億単位もある」
億。
その言葉で、急に空気が重くなる。
俺は紙の上で大金を見た。
水着や陽除け香膏の収益試算で、将来的には大きな金が動くことも分かった。
でも、今この瞬間に動かせる金とは別の話だ。
「じゃあ、参加できても買えない可能性がある」
「そういうことだ」
コルバンは低く言った。
「特に奴隷は、労働力として見る者もいれば、珍品として見る者もいる。希少性がつけば、値段はまともじゃなくなる」
ニカが苦い顔をする。
「人なのにね」
「人だから高くなるんだろうな」
コルバンの声は冷たかった。
怒っているわけではない。
ただ、現実をそのまま言っているだけだった。
俺はしばらく黙った。
行くだけでは足りない。
中を見るだけでも足りない。
もしそこでロッカに繋がる何かが出た時、金がないから動けないというのは最悪だ。
「資金が必要ですね」
俺が言うと、コルバンは目を細めた。
「嬢ちゃん、まさか自分の金だけで行く気だったのか?」
「できれば」
「無理だ」
「ですよね」
分かっていた。
分かっていたが、認めたくなかっただけだ。
俺はレインを調査から外した。
ハルヴェイ商会を守るために。
それなのに、金だけ借りるのは都合がいいのではないか。
そんな考えが頭をよぎる。
だが、コルバンはそれを見透かしたように言った。
「坊っちゃんに相談しろ」
「でも、レインさんは外しました」
「調査からはな。金の話は別だ」
「別、ですか」
「商会として危ない橋を渡るのと、将来利益を担保に金を貸すのは違う。坊っちゃんが納得するかは知らねえが、筋は通せる」
確かにそうだ。
情報を集める。
グレイヴ商会に近づく。
貴族筋と接触する
それをハルヴェイ商会がやれば危険すぎる。
でも、俺個人への融資なら、形を変えられる。
少なくとも表向きは、商会の新規事業収益を見込んだ金融取引だ。
「いくら必要だと思いますか」
俺が聞くと、コルバンは腕を組んだまま言った。
「最低でも一億。余裕を見るなら数億。だが、本当に競るつもりなら十億の枠は欲しい」
「十億……」
声に出すと、金額の重さが身体に乗った。
十億ビル。
現代日本の感覚でも十億円に近い価値。
個人が簡単に借りる金ではない。
だが、取引会に入って何かを掴むなら、そのくらいの信用枠が必要になるかもしれない。
「全部使うわけじゃない」
コルバンが言う。
「借りるというより、使える上限枠だ。実際に使った分だけ返す。だが、相手に見せる時には、その枠が信用になる」
「信用枠……」
前世でも聞いたことがある言葉だった。
使う金ではなく、使えると証明する金。
商談の場では、それ自体が武器になる。
「レインさんは、貸してくれると思いますか」
「知らねえ」
コルバンは即答した。
「だが、坊っちゃんは商人だ。情だけじゃ貸さねえ。貸すなら、返せると判断した時だ」
「返済原資は、私の創案権収益」
「水着、陽除け香膏、浜履き、海辺休憩所。今後の歩合を担保にする。あとは契約一時金と、月ごとの報告。数字を出せ」
コルバンの声は厳しかった。
「嬢ちゃん、これは人助けの相談じゃねえ。金の相談だ。そこを混ぜるな」
「はい」
「泣き落としはするな。正面から借りろ」
「分かりました」
その日の夜、俺はレインに時間を取ってもらった。
場所はハルヴェイ商会の小部屋。
机の上には、俺が書いた簡単な資金計画と、これまで決まっている創案権収益の試算表が置かれている。
同席しているのは、レインとコルバン。
ニカは少し離れた椅子に座り、黙ってこちらを見ていた。
「レインさん」
「はい」
「お願いがあります」
レインは、すでに察している顔をしていた。
それでも、先を促すように静かに頷く。
「グレイヴ商会の非公開取引会へ近づくために、資金が必要です」
「どれほどですか?」
俺は息を吸った。
「十億ビルの信用枠を、私個人に設定してもらえませんか」
部屋が静かになった。
ニカが少しだけ目を見開く。
コルバンは何も言わない。
レインだけが、まっすぐ俺を見ていた。
「十億ビル」
「はい」
「実際に全額を使う予定ですか?」
「いいえ。使うつもりはありません。ですが、取引会で信用を示すには、必要になる可能性があります。万一、落札や交渉で必要になった場合に備えたいです」
「担保は?」
「私の創案権収益です。水着、陽除け香膏、浜履き、海辺休憩所。今後ハルヴェイ商会から支払われる歩合を返済原資にします。必要なら、一定期間の歩合から優先的に返済してください」
レインは黙って試算表を見る。
数秒。
いや、もっと長く感じた。
やがて、彼は静かに口を開いた。
「アイリスさん。これは協力ではありません」
「はい」
「融資です」
「分かっています」
「ハルヴェイ商会は、あなたの行動に直接関与しません。ですが、あなたの将来収益を担保として、資金を貸す。その形であれば、商会として説明はできます」
胸の奥で、何かが少しだけ緩んだ。
「では」
「まだです」
レインの声が硬くなる。
「条件をつけます」
「はい」
「一つ。使った金額は、すべて記録してください。二つ。取引会での行動は、ハルヴェイ商会の名を出さないこと。三つ。危険が高すぎると判断した場合、撤退すること。四つ」
レインはそこで、少しだけ言葉を切った。
「生きて戻ること」
その言葉だけ、商談ではなかった。
俺は静かに頷いた。
「はい」
レインは深く息を吐いた。
「十億ビルまでの信用枠を設定します。ただし、正式な契約書を作ります。コルバン、お願いします」
「分かってますよ」
コルバンが低く答える。
「嬢ちゃん、金を借りるってのはな、命綱を借りるのと同時に首輪もつけるってことだ。自由に使えると思うなよ」
「はい」
「だが、使い方を間違えなきゃ武器になる」
俺は机の上の試算表を見た。
水着。
陽除け香膏。
浜履き。
海辺休憩所。
夏を売るために作った仕組みが、今度は人を助けるための資金になる。
金は汚いものではない。
けれど、綺麗なものでもない。
使い方を間違えれば、人を買うための鎖になる。 正しく使えば、誰かを鎖から外すための鍵になる。
俺は顔を上げた。
「ありがとうございます」
レインは少しだけ苦く笑った。
「感謝は、戻ってから聞きます」
その一言に、俺は何も返せなかった。
灰鴉の入口は、まだ見えない。
招待状もない。
参加権もない。
誰を相手に交渉すればいいかも、まだ分かっていない。
けれど、必要な武器の一つは手に入った。
十億ビルの信用。
その重さを背負いながら、俺は灰鴉の飛ぶ先へ進むことを決めた。




