第七十九話 届かない記録
第七十九話 届かない記録
ガルドの工房を出てから、しばらく誰も口を開かなかった。
職人街の細い道には、木を削る音や鉄を叩く音がいつも通りに響いている。
けれど、俺の耳にはどこか遠く聞こえていた。
胸元には、まだガルドに掴まれた感触が残っている。
布は乱れただけだ。
痛みもほとんどない。
けれど、あの手の重さだけが、いつまでも消えなかった。
怒り。
憎しみ。
悲しみ。
諦め。
全部が混ざった手だった。
「……アイリス」
最初に声を出したのはニカだった。
「さっき、怖くなかったの?」
「怖かったよ」
俺は正直に答えた。
怖くなかったわけがない。
ガルドの腕なら、俺の身体くらい簡単に持ち上げられる。
怒りに任せて力を入れられたら、それだけでどうにかなってしまうかもしれない。
それくらいの圧があった。
「でも、あれは私だけに向いてた怒りじゃないと思う」
「……まあね」
ニカは少しだけ視線を落とした。
「あの親父、ずっと抱えてたんだろうね。あれ」
「うん」
ガルドは何もしなかったわけではない。
助けに行った。
頭を下げた。
金を積んだ。
土に額を擦りつけた。
それでもロッカには会えず、最後には死刑をちらつかされた。
そこまで聞いてしまえば、簡単に助けると言った自分の言葉が、いかに重いものだったか嫌でも分かる。
レインは隣を歩きながら、静かに言った。
「まず確認すべきは、ロッカさんが今どこにいるのかです」
「はい」
「罪状、裁定記録、拘留先、移送の有無。正規の記録に残っているなら、そこから辿れます」
「残っていなかったら?」
ニカが聞くと、レインの表情が少しだけ硬くなった。
「残っていないのではなく、見せないようにされている可能性があります」
その言葉は重かった。
貴族が関わっている。
役所も詰所も動かなかった。
ガルドが何度足を運んでも、何も変わらなかった。
それなら、記録が綺麗に残っている方が不自然なのかもしれない。
俺は立ち止まった。
「レインさん」
「はい」
「ここから先は、私とニカで調べます」
レインが足を止めた。
ニカも驚いたようにこちらを見る。
「……どういう意味ですか?」
レインの声は静かだった。
でも、その静けさの奥に少しだけ硬さがあった。
「ハルヴェイ商会を巻き込めません」
「アイリスさん」
「ロッカさんの件は、たぶん貴族が絡んでいます。しかも、ガルドさんの話を聞く限り、役所や詰所にも手が回っている可能性があります。ここから先にレインさんが直接動けば、ハルヴェイ商会が動いたことになります」
「それは、あなたが危険を背負うという意味です」
「はい」
俺は頷いた。
「でも、レインさんが動けば、商会の従業員も、取引先も、今進めている海辺事業も巻き込む可能性があります。水着も、陽除け香膏も、浜履きも、建設部門も、始まったばかりです。ここで貴族筋に睨まれたら、商会そのものが潰されるかもしれません」
レインは何も言わなかった。
「レインさんを信用していないわけじゃありません。むしろ、信用しているから外れてほしいんです」
「……商会を守るため、ですか」
「はい」
前の世界で会社をやっていた時も、何度か思ったことがある。
代表が動けば、会社が動いたことになる。
自分一人のつもりでも、外からはそう見られない。
肩書きには、勝手に責任と影響が乗る。
レインはハルヴェイ商会の若旦那だ。
その行動は、個人の好奇心では済まない。
レインはしばらく黙っていた。
それから、苦いものを飲み込むように息を吐く。
「正しい判断です」
その声には、悔しさが滲んでいた。
「ですが、納得しきれるかと言われれば別です」
「分かっています」
「分かっていて、言うのですね」
「はい」
レインは少しだけ目を伏せた。
「では、私は表向きの照会だけに留めます。商会として正規に確認できる範囲まで。それ以上は、あなた方に任せます」
「ありがとうございます」
「ただし」
レインの目が、まっすぐ俺を見た。
「危険だと判断したら退いてください。ロッカさんを助けるために、あなたが消えることを、ガルドさんは望まないはずです」
「……はい」
はっきり頷くには、少しだけ時間がかかった。
ハルヴェイ商会へ戻ると、コルバンは俺たちの顔を見るなり、眉を寄せた。
「全員、なんて顔してんだ」
「色々ありまして…」
「色々ねぇ…」
コルバンは深く息を吐き、帳簿を閉じた。
「聞こうか」
俺たちは、ガルドから聞いたことを話した。
代々続いた工房。
ロッカ・バルグレン。
肩がぶつかったヒューム貴族。
根も葉もない罪で潰された工房。
貴族を殴ったロッカ。
捕らえられた息子。
何度も助けに行ったガルド。
最後に告げられた死刑の脅し。
話し終わる頃には、部屋の空気はかなり重くなっていた。
「……胸糞悪い話だな」
コルバンが低く言った。
「ですが、ここから先はアイリスさんとニカさんで動くことになりました」
レインが言うと、コルバンはちらりと俺を見た。
「坊っちゃんを外したのか」
「はい」
「理由は?」
「ハルヴェイ商会に火が飛ぶかもしれないからです」
「正解だ」
即答だった。
レインが少しだけ苦笑する。
「コルバンは迷わないのですね」
「迷ってる暇があったら商会が潰れる。坊っちゃん、ここから先は商会の名前で動くな。正規の照会までだ。それ以上は足がつく」
「分かっています」
「ただし、何もしねえわけじゃない」
コルバンは棚から古い紙束を取り出した。
「役所に顔の利く奴がいる。商会としてじゃなく、俺個人の昔の繋がりだ。そこで最低限の記録は見られるかもしれねえ」
「いいんですか?」
「よくはねえ。だが、ここで何も出さなきゃ話が進まねえだろ」
コルバンは紙束を机に置いた。
「調べるのは三つだ。ロッカ・バルグレンの罪状。裁定記録。現在の所在。あと、貴族の名前が出れば上等だが、そこは期待するな」
それから二日間、俺たちは表の記録を追った。
レインは商会として可能な範囲で役所へ照会し、コルバンは個人的な繋がりを使った。
俺とニカは表通りの聞き込みを避け、職人街や荷運びたちの間で、ロッカの名前が残っていないかを探った。
結果は、気持ち悪いほど曖昧だった。
ロッカ・バルグレンという名前は確かにあった。
罪状は、貴族暴行。
捕縛日は三年前。
だが、被害貴族の名は伏せられている。
裁定記録は閲覧不可。
拘留先は一度だけ記され、その後、移送済みになっていた。
移送先は不明。
不明。
その二文字を見た瞬間、胸の奥が冷えた。
「不明って、そんなことあるの?」
俺が聞くと、コルバンは記録の写しを睨みながら唸った。
「普通はねえ。少なくとも、正規の囚人なら移送先は残る。労役場か、牢か、鉱山か。どこへ送られたかは記される」
「でも、ここにはない」
「ああ。ない」
レインも静かに言った。
「記録が失われたのではなく、意図的に薄くされている可能性があります」
ニカが紙を覗き込む。
「この端の印…」
紙の下の方。
移送手続きの欄に、小さな灰色の鳥のような印が残っていた。
文字ではない。
商会印とも少し違う。
爪を立てた鳥が、羽を畳んでいるような形。
コルバンが目を細める。
「見覚えはねえな。坊っちゃんは?」
「私もありません」
だが、ニカだけは黙っていた。
「ニカ?」
俺が声をかけると、ニカは耳をわずかに伏せた。
「……見たことある」
「どこで?」
「昔、危ない仕事してた時。荷馬車の木箱とか、封紐とか、裏口の荷札に押されてた」
ニカは指でその印をなぞる。
「灰色の鳥。表向きの印じゃない。たぶん、裏で使う印」
「何の?」
「人を運ぶ時」
その言葉の意味を、俺はすぐには理解できなかった。
「人を、運ぶ?」
部屋が静かになる。
その中で、コルバンが低く唸った。
「奴隷か」
奴隷。
その言葉が出た瞬間、俺だけが一拍遅れた。
「……奴隷?」
思わず声が出た。
レインがこちらを見る。
「はい。犯罪奴隷として、私設労務に回された可能性があります」
「犯罪、奴隷……?」
自分の声が、ひどく遅れて聞こえた。
レインも、コルバンも、ニカも、その言葉そのものには驚いていない。
嫌な顔はしている。
重く受け止めてはいる。
けれど、存在すること自体には驚いていない。
その事実が、何よりも気持ち悪かった。
コルバンの眉が動く。
「嬢ちゃん?」
ニカも俺を見る。
「アイリス、もしかして……奴隷制度、知らなかった?」
知らなかった。
その言葉を認めるのに、少し時間がかかった。
「……うん」
部屋の空気が変わった。
レインは明らかに言葉を探していた。
コルバンは何かを言いかけて、やめた。
ニカだけが、少し困ったように笑った。
「そっか。知らずにいられたんだ」
「ニカ……?」
「ううん。なんでもない」
冗談みたいな声だった。
でも、そこにいつもの軽さはなかった。
レインが静かに口を開く。
「この国では、奴隷制度は合法です。借金奴隷、犯罪奴隷、戦争奴隷。形はいくつかあります」
「合法……」
「はい。ですが、合法であることと、正しいことは別です」
レインの声は静かだった。
けれど、そこにははっきりとした拒絶があった。
「奴隷を扱う商会もあります。奴隷労働を使えば、費用を抑えられる仕事もあるでしょう。ですが、ハルヴェイ商会は今までも奴隷を使っていません。これからも使いません」
「それは、レインさんの方針ですか?」
「父の代からの方針です。そして、私も同じです」
レインは、机の上の記録へ視線を落とした。
「人を安く使い潰せば、一時の利益は出るかもしれません。ですが、それは商いではなく、誰かの人生を削って帳簿を軽くしているだけです」
少しだけ、息がしやすくなった。
この世界には奴隷制度がある。
それは変わらない。
けれど、目の前の商会がそれを当たり前に使う場所ではないと分かっただけで、胸の奥の冷えが少しだけ緩んだ。
コルバンが鼻を鳴らす。
「綺麗ごとだけじゃねえぞ。奴隷を使えば管理も揉め事も増える。逃亡、病気、扱いの悪さ、客からの目。安く見えて、後で高くつくこともある」
「でも、本音は?」
俺が聞くと、コルバンは肩をすくめた。
「坊っちゃんが嫌がる。それで十分だ」
レインが少し困ったように眉を下げる。
「コルバン」
「事実だろ」
ニカが小さく笑った。
「だからレインの店って、獣人でも働けるんだ」
「当然です。働く人間と、所有物は違います」
「……そういうの、さらっと言うよね」
「間違っていますか?」
「いや。ちょっと高い飯食べた気分」
ニカはそう言って笑った。
けれど、その笑顔は少しだけいつもより弱かった。
俺はもう一度、記録に視線を落とす。
ロッカは貴族暴行で捕らえられた。
その後、移送先不明。
記録には灰色の鳥の印。
そして、その印は人を運ぶ時に使われる裏印。
「ロッカさんは、奴隷として移された可能性があるってことですか」
俺が言うと、コルバンは重く頷いた。
「ある。表向きは犯罪労役。実態は、貴族の私設労務か、どこかの管理下に落とされたかもしれねえ」
「それは合法なんですか」
「形を整えればな」
コルバンの声は苦かった。
「罪状が貴族暴行なら、重い労役に回す理屈は作れる。問題は、その後の所在が消えてることだ」
俺は印を見つめる。
「この印の商会は?」
ニカが答えた。
「たぶん、グレイヴ商会」
「商会?」
「表向きは、貴族屋敷向けの奉公人とか労務奴隷の仲介をしてる商会。普通の奴隷商よりずっと上。貴族向けの紹介状がないと入れないし、客も選ぶ」
ニカの声が少し低くなる。
「でも、裏ではもっと変なのも扱ってるって噂がある。希少な亜人とか、珍しい血筋とか、禁忌っぽいものとか」
「普通の奴隷商じゃないんだね」
「うん。普通の奴隷商に聞いても、たぶん何も出ない。グレイヴは貴族用。しかも上の客向け」
だから、ロッカの移送記録にその裏印があること自体がおかしい。
ただの暴行事件なら、普通の牢か労役場でいい。
それなのに、貴族向けの労務奴隷を扱う商会の裏印が残っている。
レインは静かに言った。
「ここから先は、私が直接動くべきではありませんね」
「はい」
俺は頷いた。
奴隷商。
貴族向け。
裏印。
移送記録。
ハルヴェイ商会の名前が出ていい場所ではない。
コルバンはニカを見る。
「調べられるか」
「昔の知り合いに、まだ裏の荷運びやってるやつがいる。そこから噂くらいなら拾えるかも」
「危ないぞ」
「分かってる」
ニカは俺を見る。
「アイリス、あたしも行くよ」
「危ない仕事はやめたんじゃなかったの?」
「今回は、友達の為だし」
ニカは軽く笑った。
「自分で選んでやる仕事だから」
その言葉に、俺は少しだけ黙った。
ニカは以前、金のために危ない仕事をしていた。
今は違う。
少なくとも本人は、そう言っている。
俺は本当に人に恵まれていると感じる。
前世でも母からよく言われてたっけな。
「本当にいいの?」
「いいよ。アイリス一人で裏の荷運び筋なんて行かせたら、逆に危ないし」
「ありがとうニカ」
「まかせてよ」
ニカはいつものように笑った。
その笑顔に、少しだけ力が戻っていた。
翌日の夕方、ニカは一人で情報を拾いに出た。
俺は一緒に行くと言ったが、最初は駄目だと止められた。
顔を出すだけで警戒される場所があるらしい。
だから、まずはニカが昔の繋がりだけで軽く探ることになった。
待っている時間は、長かった。
ハルヴェイ商会の小部屋で、俺は何度も時計のない壁を見た。
レインは表向きの書類整理をしている。
コルバンは何も言わず、帳簿を捲っていた。
けれど、誰も集中できていないことは分かった。
やがて、裏口の方から軽い足音がした。
ニカだった。
「ただいま」
いつもの声。
でも、耳が少し伏せている。
「どうだった?」
俺が聞くと、ニカは扉を閉めてから言った。
「グレイヴ商会で間違いないと思う」
部屋の空気が一段重くなる。
「それと、ロッカの直接の居場所は分からなかった。そこまでは簡単に出ない」
「うん」
「でも、変な噂があった」
「噂?」
ニカは少しだけ言いにくそうにした。
「近いうちに、グレイヴ商会が関わる非公開の取引会があるらしい」
「取引会?」
「表向きは希少品の売買。魔獣素材とか、珍しい鉱石とか、貴族向けの調度品とか。そういうのを扱う場」
「表向きは、ってことは」
ニカは少しだけ視線を逸らした。
「奴隷も出るって話」
奴隷。
その言葉に、胸の奥がまた冷えた。
「ロッカさんに繋がる可能性は?」
「分からない。でも、灰鴉の印があるなら、無関係とは言い切れない。グレイヴの客や関係者が集まるなら、ロッカの移送先に繋がる誰かがいるかもしれない」
俺は机の上の記録を見る。
届かなかった記録。
消えた移送先。
そして、灰鴉。
正面から記録を追っても届かないなら、灰鴉が飛んでいく先を追うしかない。
「ニカ」
「うん」
「その取引会、近づける方法を探そう」
ニカは少しだけ目を細めた。
「危ないよ」
「分かってる」
「今度は、ただの危ない仕事じゃない。グレイヴは普通の奴隷商じゃない。相手が貴族筋の可能性もある。見つかったら、たぶん冗談じゃ済まない」
「それでも行く」
レインは何も言わなかった。
コルバンも黙っていた。
二人とも、止めたいはずだ。
でも、止めたところで俺が引かないことも分かっているのだと思う。
ニカはしばらく俺を見ていた。
それから、小さく息を吐く。
「分かった。じゃあ、まずは入口を探す」
俺は頷いた。
届かない記録を追っていたはずだった。
消えた罪状。
伏せられた貴族名。
移送先のない囚人。
その先にあったのは、奴隷という制度だった。
そして、灰鴉の印。
ロッカへ続く道は、もう表にはなかった。
なら、裏へ入るしかない。
灰色の鳥が飛んでいく先を、俺たちは追うことにした。




