第七十八話 やってみろ
第七十八話 やってみろ
翌日、俺たちはまたガルド・バルグレンの工房へ向かった。
同行するのは昨日と同じ。
俺、ニカ、レイン。
コルバンは商会に残り、浜履きの素材確認と水着の修正指示、陽除け香膏の調合師とのやり取りを進めている。
ローゼリアとセシリアには、今日も同行しないでもらった。
理由は変わらない。
ガルドはヒュームを嫌い、貴族を嫌っている。
そこへ王女と公爵令嬢を連れていけば、交渉どころではなくなる可能性が高い。
それに、これはハルヴェイ商会の建設部門の話だ。
レインが行くのは自然だし、ニカは紹介者。
俺は発案者で、昨日あの工房に配置案を置いてきた本人だった。
細い職人街の道を歩きながら、ニカがちらりと俺を見る。
「ほんとに今日も行くんだ」
「行くよ」
「たぶんまた追い返されるよ」
「それは昨日も聞いた」
ニカは小さく息を吐いた。
「アイリスって、変なところで怖いもの知らずだよね」
「怖くないわけじゃないよ」
怖いものはある。
むしろ、この世界に来てから怖いものだらけだ。
分からない力。
知らない制度。
自分の身体。
貴族の理屈。
俺はまだ知らないことばかりだ。
けれど、怖いから引くという選択肢だけでは、たぶん何も変わらない。
古い工房の前に着くと、昨日と同じように割れた看板が風に揺れていた。
扉は傾き、窓枠には埃が積もり、炉の煙突は沈黙している。
潰れた工房。
それでも、昨日見た作業台や工具の置き方を思い出す。
荒れているのに、完全には壊れていない。
投げ捨てられているようで、どこかに職人の秩序が残っている。
俺は深く息を吸った。
ニカが扉を叩く。
一度。
二度。
「来るなと言っただろうが」
扉の向こうから、昨日と同じ低い声が響いた。
「おはよ、ガルドのおっちゃん」
「帰れ」
「今日は図面取りに来ただけだって」
「持って帰れ。二度と来るな」
乱暴な足音が近づき、扉が開く。
現れたガルドは、昨日と同じように酒と煤と埃の匂いをまとっていた。
灰混じりの髪は乱れ、髭も荒れている。
汚れた職人服の胸元は開き、太い腕には古い傷がいくつも刻まれていた。
彼は無言で、一枚の紙を俺の胸元へ押しつけてきた。
「ほらよ。持って帰れ」
「ありがとうございます」
「礼を言うな。見ちゃいねえ」
俺は紙を受け取った。
昨日置いていった配置案だった。
だが、そこには明らかに手が入っていた。
煤か墨のような黒い線で、柱の位置が直されている。
足洗い場の向きが変わっている。
排水の流れが描き足され、見張り台の足元は広く補強されていた。
休憩所の位置も少し浜の奥へ下げられている。
ただのラフだった紙に、現場を知る人間の判断が乗っていた。
「直してくれたんですね」
「暇つぶしだ」
「ありがとうございます」
「礼を言うなと言った」
ガルドの眉間に皺が寄る。
けれど、紙を奪い返そうとはしなかった。
レインが横から紙を見て、静かに息を呑む。
「これは……実用に近づいていますね」
「商会の若造が分かったような顔をするな」
「分からないからこそ、分かる方を雇いたいのです」
レインは淡々と返した。
その声には媚びがなかった。
商会主として、必要な相手に必要だと言っているだけの声だった。
ガルドの目がわずかに細くなる。
「雇うだと?」
「はい。ハルヴェイ商会は、海辺事業に伴う建設部門を作ることを検討しています。継続雇用、守秘義務契約、正当な報酬。条件は正式に詰めます」
「ハッ」
ガルドが鼻で笑う。
「今度は商会の飼い犬になれってか」
「いいえ」
俺は一歩前へ出た。
「あなたの腕が必要です」
その瞬間、空気が変わった。
ガルドの目に、昨日とは違う怒りが宿る。
「必要、だと?」
低い声だった。
地面の下から響くような声。
「はい」
「ヒュームはいつもそうだ」
ガルドの拳が、扉の縁を軋ませた。
「必要な時だけ頭を下げる。欲しい時だけ笑う。用が済めば踏み潰す。職人の腕も、店も、家族も、全部な」
昨日の不機嫌とは違った。
これは、奥に押し込めていたものが漏れ出している声だった。
ニカの耳が伏せられる。
レインも黙った。
俺も、何も言わなかった。
ここで軽く口を挟めば、たぶん壊れる。
ガルドが今吐き出しているのは、ただの愚痴ではない。
「俺の工房は、代々続いた工房だった」
ガルドは扉の前に立ったまま、吐き捨てるように言った。
「親父から継いだ。親父はそのまた親父から継いだ。炉も、工具も、木材の選び方も、石の割り方も、全部だ。俺はあそこを守ってきた。息子もそこで育った」
「息子さんが……」
俺が言いかけると、ガルドの目が鋭くなった。
「ロッカだ」
その名前だけ、少し違う響きだった。
怒りの中に、剥き出しの痛みが混じっている。
「ロッカ・バルグレン。俺の息子だ。ガラは悪い。短気だ。だが、腕はあった。俺よりずっとでかくなって、俺よりずっと馬鹿力で、俺の工房を継ぐはずだった」
ガルドの声が、わずかに掠れた。
「三年前だ。道端で、あるヒューム貴族と肩がぶつかった」
たったそれだけ。
その言葉が、異様に重く聞こえた。
「向こうが前を見てなかった。だが、貴族様には関係ねえ。俺が頭を下げても、目が合った。顔を覚えられた」
ガルドは笑った。
笑い声の形をした、乾いた音だった。
「それからだ。工房に難癖がついた。材料の横流しだの、違法な建材を使っただの、根も葉もねえ罪だ。役人が来た。商人が離れた。仕事が止まった。親父から継いだ工房が、汚物みたいに扱われた」
ニカが小さく唇を噛む。
「ロッカは怒った。あいつは馬鹿だからな。俺が止める前に、その貴族を殴った」
ガルドの拳が震える。
「それで終わりだ。ロッカは捕らえられた。工房は潰された。職人どもは離れ、客も消えた。俺の炉は冷えた」
炉の奥で、何かが軋んだ気がした。
実際には何も鳴っていない。
けれど、ガルドの言葉が、潰れた工房の中に残った火の残骸を震わせたように感じた。
俺は、何も言えなかった。
ガルドは俺を睨んだ。
「助けに行かなかったと思うか」
声が低く沈む。
「俺が何もしなかったとでも思うか」
その問いに、胸が詰まった。
答えられるはずがない。
そんなこと、思っていない。
けれど、そう言ったところで何になる。
「行った。何度も行った。詰所にも、役所にも、あの貴族の屋敷にもな」
ガルドの声が荒くなる。
「頭も下げた。工房の道具も売った。金も積んだ。土に額を擦りつけたこともある」
大きな手が、ゆっくりと握り込まれる。
「あのロッカが、牢でどうしてるのか。怪我はしてねえのか。飯は食えてんのか。寒くねえのか。せめて一目会わせろって、何度も言った」
ガルドの目が赤く濁る。
「それでも、会わせてもらえなかった」
沈黙が落ちた。
「最後に言われたよ」
ガルドの声が、ひどく静かになった。
「次に来れば、息子は即刻死刑だとな」
息が止まった。
ニカが「ひど……」と小さく呟きかけて、途中で言葉を飲み込む。
レインの表情も硬かった。
ガルドは、怒っていた。
けれど、それだけではなかった。
この人は、動かなかったのではない。
動けなくなるまで、折られたのだ。
「それで俺に何ができた」
ガルドが言った。
「行けば殺される。行かなければ、あいつは牢の中だ。俺はな、毎日同じことを考えた。今日行くか。明日行くか。いや、行けば殺される。なら、待つのか。何をだ。誰をだ」
ガルドの顔が歪む。
「で、酒だ」
短い言葉だった。
「炉を見りゃ、ロッカを思い出す。槌を握りゃ、あいつの手を思い出す。図面を見りゃ、いつか一緒に建てるはずだった工房を思い出す。だから飲んだ。飲めば、少しだけ見えなくなる」
俺は、昨日この工房を見た時のことを思い出した。
荒れているのに、秩序の残骸があった。
手放したいのに、手放しきれていない場所。
忘れたいのに、忘れられない道具。
ガルドはもう職人ではないと言った。
でも、本当に捨てきれているなら、ここに残っているはずがない。
俺は紙を握りしめた。
「ロッカさんは、私が助けます」
その言葉を口にした瞬間、ガルドの目が変わった。
「……助ける?」
低い声。
「お前、今なんて言った」
「ロッカさんを助けます」
次の瞬間、視界が揺れた。
ガルドの大きな手が、俺の服の胸元を掴んでいた。
布が軋み、身体がわずかに持ち上がる。
「アイリス!」
ニカが声を上げる。
レインも一歩踏み出した。
けれど、俺は片手を上げて二人を制した。
「大丈夫です」
喉元に重みがかかる。
ガルドの手は硬く、熱かった。
酒と煤と鉄の匂いが近い。
その目には怒りがあった。
でも、怒りだけではなかった。
もう一度だけ信じたいものを、無理やり踏み潰そうとしているような、そんな悲しみがあった。
「簡単に言うな」
ガルドの声は、震えていた。
「俺はな、その言葉を何度も自分に言った。今日こそ助ける。今度こそ連れて帰る。まだ間に合う。まだ終わってねえってな」
胸元を掴む拳に力が入る。
「そのたびに、門の前で追い返された。金を積んでも、頭を下げても、土に額を擦りつけても、会わせてもらえなかった」
ガルドの顔が近い。
「それでも助けるだと?」
ガルドは笑った。
笑い声の形をしているだけの、ひび割れた音だった。
「ヒュームの小娘が、何を知ってる。何ができる。お前のその一言で、俺にまた期待しろってのか」
俺は、すぐには答えられなかった。
分かる、とは言えない。
そんな言葉は嘘になる。
息子を奪われた親の時間を、俺は知らない。
何度頭を下げても会えなかった日の絶望を知らない。
次に来れば死刑だと言われた時の手の震えを知らない。
知らないまま、助けると言うのは傲慢かもしれない。
それでも、言わなければ何も始まらない。
「分かりません」
俺は、そう言った。
ガルドの目が細くなる。
「あ?」
「あなたが何度も頭を下げた時間は、私には分かりません。ロッカさんに会えなかった日のことも、次に来たら死刑だと言われた時の気持ちも、分かりません」
胸元を掴む手が、わずかに動く。
「でも、調べます」
「……調べてどうなる」
「何ができるかを探します」
「できなかったら?」
「その時は、できなかったと伝えに来ます」
ガルドの顔が歪んだ。
「残酷な小娘だな」
「そうかもしれません」
「できもしねえ希望を持ってくる奴より、もっと残酷だ」
「それでも、黙って帰るよりはましです」
沈黙が落ちる。
ガルドは俺を睨んでいた。
怒り、憎しみ、悲しみ、諦め。
いくつもの感情が混ざった目だった。
やがて、胸元を掴んでいた手が乱暴に離れる。
俺の足が床に戻り、服に残った皺だけが、さっきの力を物語っていた。
「……馬鹿な小娘だ」
「よく言われます」
「できるわけがねえ」
「それも、さっき聞きました」
「貴族が相手だぞ」
「知っています」
「名前も知らねえ」
「顔は?」
ガルドの目がわずかに動いた。
「顔は覚えてる。忘れるわけがねえ」
「なら、そこから調べます」
「どうやって」
「考えます」
「考えてどうにかなるなら、俺がとっくにやってる」
「そうですね」
「腹の立つ返事をするな」
「でも、私はあなたとは違う動き方ができます。ハルヴェイ商会もあります。ニカの情報もあります。私が知らないことは多い。でも、私にしかできない調べ方もあるかもしれません」
ガルドは黙った。
俺は息を整え、言った。
「もし、ロッカさんを助けられたら」
工房の空気が、少しだけ重くなる。
「その時は、海辺の施設作りを手伝ってください。ハルヴェイ商会の建設部門に力を貸してください。あなたの腕が必要です」
ガルドは、しばらく何も言わなかった。
やがて、喉の奥で低く笑った。
「馬鹿な小娘だ」
「それも聞きました」
「できるわけがねえ」
「それも聞きました」
ガルドの口元が、怒りとも呆れともつかない形に歪む。
「……やってみろ」
その声は、怒りで濁っていた。
けれど、その奥に、ほんの少しだけ別のものが混じっていた。
期待ではない。
まだ、そこまでは届いていない。
けれど、完全な拒絶でもなかった。
「できたら、何でもしてやる」
俺は手を差し出した。
「言質、取りましたよ」
「握るとは言ってねえ」
「でも、言いました」
「面倒な小娘だな、お前は」
「よく言われます」
俺は勝手に、ガルドの大きな手を握った。
硬く、傷だらけで、煤と酒の匂いが染みついた手だった。
けれど、その手は確かに職人の手だった。
ガルドは振り払わなかった。
工房の奥では、冷えた炉が沈黙している。
そこに火はない。
槌の音もない。
ロッカという息子もいない。
それでも、ガルド・バルグレンの手には、まだ何かを作る力が残っていた。
俺はその手を離し、一歩下がる。
「まずは調べます」
「勝手にしろ」
「はい。勝手にします」
ガルドは何も言わなかった。
俺たちが工房を出るまで、今度は扉を閉めなかった。




