第七十七話 潰れた工房
第七十七話 潰れた工房
海から戻った翌日、ハルヴェイ商会の小部屋には、昨日とは違う種類の紙が並んでいた。
水着の改良点。
陽除け香膏の耐水性。
浜履きの素材候補。
子ども用水着。
浅瀬区画の目印。
見張り台。
足洗い場。
脱衣所。
休憩所。
荷物置き場。
書き出してみると、思っていた以上に多い。
海で遊ぶ。
たったそれだけのことを成立させるために、必要なものはいくらでもあった。
紙の上に文字が増えるたび、俺は昨日の白砂を思い出していた。
足裏に伝わった砂の熱。
透明な水。
ニカの笑い声。
ローゼリアが水をかけ返す顔。
セシリアがほんの少しだけ見せた、王女ではない笑み。
あれは売れる。
売れるだけじゃない。
たぶん、この世界の夏の過ごし方を変える。
ただ、そのためには布と香膏だけでは足りない。
「本当に、建設部門が必要になってきましたね」
レインさんが、机の上の紙を見ながら静かに言った。
昨日の海を見たせいか、その声には迷いが少なかった。
商人として、可能性を見たのだと思う。
そして同時に、必要な投資の大きさも見たはずだった。
「はい。外注でも作れるとは思います。でも、海辺事業を続けるなら、設計思想ごと商会の中に残した方がいいです」
「脱衣所、休憩所、見張り台、足洗い場、荷物置き場。今後、家族向けや貴族向けに広げるなら、単なる小屋作りでは済みませんね」
「そうです。導線が大事になります。人がどこで着替えて、どこに荷物を置いて、どこで休んで、どこから海へ入るのか。そこを間違えると、事故も揉め事も増えます」
レインは頷いた。
「技術流出も問題です」
「はい。建てるたびに別の職人へ頼めば、こちらの考え方が広がります。真似されるだけならまだしも、粗悪な形で真似されると事故が起きる可能性もあります」
コルバンが帳簿を閉じ、低く息を吐いた。
「嬢ちゃんの言い分は分かる。だが、職人を抱えるとなりゃ金がかかるぞ。腕のいい奴ほど安くねえ。まして設計ができて、現場も見られて、守秘義務まで飲む職人なんざ、そう簡単に見つからねえ」
「だから、ガルドだよ」
ニカが椅子の背にもたれながら言った。
いつもの軽い調子だった。
けれど、その名前を出す時だけ、少しだけ声が落ちる。
「腕はほんとにいいよ。昔はさ、あの人の作った店とか倉庫って、ちょっとした目印になってたんだって。石の組み方が違うとか、柱の入れ方が違うとか、そういうの」
「今は?」
俺が聞くと、ニカは肩をすくめた。
「酒臭い。口悪い。ヒューム嫌い。貴族嫌い。たぶん初手で帰れって言われる」
「最悪じゃない」
ローゼリアが言いそうなことを、俺は思わず頭の中で思った。
けれど、今日はローゼリアもセシリアもいない。
二人には、昨日の段階で同行しない方がいいと決まった。
理由は単純だ。
王女と公爵令嬢が一緒に行けば、それだけで交渉の意味が変わる。
ガルドがヒュームや貴族を嫌っているなら、逆効果になる可能性も高い。
レインが同行するのは自然だ。
これはハルヴェイ商会の建設部門の話であり、職人を雇うなら商会主であるレインの判断が必要になる。
ニカは紹介者。
俺は発案者。
コルバンは店に残る。
浜履きの素材候補の確認、水着の修正連絡、契約書草案。
やることはいくらでもあった。
「坊っちゃん」
コルバンがレインを見る。
「行くなら、商会主として行け。下手にへりくだりすぎるな。腕のいい職人は、仕事の話をする相手の腹を見る」
「分かっています」
「それと嬢ちゃん」
「はい」
「お前さんは変に同情するな。職人相手にそれをやると、逆に怒らせる」
「……気をつけます」
「まあ、怒らせるだろうけどな」
「前提がおかしくないですか」
「相手がガルドならそうなる」
コルバンはそれだけ言うと、帳簿へ視線を戻した。
止める気はない。
けれど、簡単だと思うなという顔だった。
俺たちは商会を出た。
リズベルの表通りから、少しずつ人通りの少ない方へ向かう。
商店の賑わいが薄れ、職人たちの作業音が増えていく。
槌が石を叩く音。
木を削る音。
鉄を焼く匂い。
油と煤と木屑の混ざった匂い。
ニカは慣れた足取りで細い道へ入っていく。
「こっち。昔は職人工房が並んでたんだけど、今は空き家も多いかな」
「どうして?」
「大きい商会にまとめられたり、王都に移ったり、跡継ぎがいなかったり。理由はいろいろ。ガルドの工房も、その中の一つ」
ニカの声は軽い。
でも、最後の一言だけは少し違った。
やがて、古い工房が見えてきた。
正面の看板は割れている。
かろうじて残った金具が風に揺れ、きし、と小さな音を立てた。
扉は傾き、片方の蝶番が少し歪んでいる。
窓の木枠には埃が溜まり、炉の煙突は長く使われていないのか、煤けたまま沈黙していた。
潰れた工房。
そう呼ぶしかない姿だった。
けれど、俺は足を止めた。
荒れている。
壊れている。
人の手が離れている。
それなのに、どこかに秩序の残骸があった。
壁際に立てかけられた木材は、朽ちかけているのに長さごとに分けられている。
錆びた工具も、完全に投げ捨てられているわけではない。
炉の横の作業台には、埃をかぶった定規と墨壺が並んでいた。
使われていない。
でも、置き方だけは職人のそれだった。
「ここ?」
「うん」
ニカが扉を見上げる。
「覚悟してね」
そう言って、彼女は扉を叩いた。
一度。
二度。
三度。
しばらく何も起きなかった。
もう一度叩こうとした時、中から低い声が響いた。
「うるせえ」
声だけで分かる。
不機嫌。
酒。
怒り。
ニカは慣れたように苦笑した。
「ガルドのおっちゃん、あたし。ニカ」
「知らん。帰れ」
「いや、名前くらいは覚えてるでしょ」
「帰れと言った」
扉の向こうで、何かが倒れる音がした。
瓶か、木箱か。
ニカは肩をすくめ、俺たちを見る。
「ほらね」
「まだ顔も見てないけど」
「だいたいこんな感じ」
レインが一歩前へ出る。
「ガルド・バルグレンさん。突然の訪問、失礼いたします。私はハルヴェイ商会のレイン・ハルヴェイと申します。本日は、仕事のご相談で――」
扉が乱暴に開いた。
中から現れた男を見て、俺は一瞬だけ息を呑んだ。
でかい。
それが最初の印象だった。
ドワーフと聞いて、前世の感覚で小柄な姿を想像していたわけではない。
この世界のドワーフが大柄な種族であることは知っている。
それでも、目の前の男は重かった。
身長は百八十センチほど。
肩幅が広く、胸板が厚い。
腕は丸太のようで、手は分厚く、節が太い。
汚れた職人服の上からでも、長年の労働で作られた筋肉が分かる。
焦げ茶に灰が混じった髪は荒れ、髭も整えられていない。
目つきは鋭く、酒に濁っているはずなのに、奥に硬いものが残っていた。
煤と酒と埃の匂い。
だが、それ以上に、潰れた炉の奥にまだ火種が残っているような圧があった。
「商会の若造が、俺に何を建てさせる気だ」
ガルドはレインを睨んだ。
レインは怯まなかった。
けれど、無理に笑いもしない。
「海辺に施設を作りたいと考えています。脱衣所、休憩所、見張り台、足洗い場、荷物置き場。今後、継続的に施設を増やす可能性もあります」
「知らん」
「腕の良い設計士であり、職人でもある方を探しています」
「俺はもう職人じゃねえ」
短い言葉だった。
けれど、その言葉の奥にあるものが重かった。
自分で自分を切り捨てるような声。
誰かに言い聞かせるためではなく、何度も自分に言ってきたような声。
俺は一歩前へ出た。
「ガルドさん。私はアイリス・シエーレです」
ガルドの視線が俺へ動く。
「ヒュームの小娘か」
「はい」
「帰れ」
「話だけでも聞いてください」
「聞く価値がねえ」
即答だった。
ニカが慌てて手を振る。
「ちょっと待ってって。アイリスは変だけど、悪いやつじゃないよ」
ガルドは反応しない。
ただ、早く帰れと言わんばかりに扉へ手をかけている。
俺は持ってきた紙を取り出した。
「海辺に人を集めるための施設です。ただの小屋ではありません。水に入る人が着替え、休み、荷物を置き、怪我を防ぐための場所が必要になります」
「だから俺に関係ねえ」
「砂地に建てる必要があります」
ガルドの手が、ほんの少し止まった。
俺は続ける。
「人が濡れたまま歩くので、床材も考えないといけません。砂を落とす場所、水を流す場所、日差しを避ける屋根、風の抜け方。見張り台は浜辺全体が見える高さが必要です。でも高すぎると風を受ける。子ども向けの浅瀬区画には、目印も必要になります」
ガルドは黙っていた。
聞いている。
少なくとも、完全には無視していない。
「素人考えですが、簡単な配置案を描いてきました」
俺は紙を広げた。
前世の知識と、昨日の海で見たものを元にしたラフだ。
脱衣所の位置。
休憩所。
足洗い場。
荷物置き場。
見張り台。
浅瀬への導線。
ガルドの目が、紙へ落ちた。
その瞬間だった。
さっきまで濁っていた目の奥が、ほんのわずかに変わった。
「……砂地にその柱幅じゃ沈む」
「え?」
「聞こえなかったか。沈むと言ったんだ」
ガルドは苛立ったように紙を指差す。
「ここは客が溜まる。濡れた足で砂を踏む。地面が締まる場所と崩れる場所ができる。柱をそのまま立てりゃ傾く。こっちに排水を流せば、足洗い場の下が腐る。見張り台も駄目だ。風を横から受ける。砂地の上にその高さを立てるなら、足元を広げろ」
早口ではなかった。
むしろ、低く、乱暴で、ぶっきらぼうだった。
だが、的確だった。
俺は紙を見る。
言われてみれば、その通りなのだろう。
俺には建築の専門知識はない。
導線や使い方は考えられても、地面や構造までは分からない。
「やっぱり、分かるんですね」
俺が言うと、ガルドの顔が険しくなった。
「見ただけだ」
「でも、見てくれました」
「手伝うとは言ってねえ」
「はい」
「勘違いするな。素人の落書きが目に入っただけだ」
ガルドは紙から目を離し、俺を睨んだ。
「ヒュームの小娘が、海辺に遊び場を作るだと? 商会の若造と獣人の小娘まで連れて、今度は職人ごっこか」
「ごっこではありません」
「同じだ」
ガルドの声が低くなる。
「作るってのはな、木を立てることじゃねえ。人の命を乗せるってことだ。屋根が落ちりゃ人が死ぬ。床が腐りゃ足を折る。見張り台が倒れりゃ下にいる奴ごと潰れる。お前らは綺麗な海を見て浮かれてるだけだ」
言葉が刺さった。
でも、反論できなかった。
実際、俺は昨日の海に浮かれていた。
商機を見て、未来を見て、可能性に胸が弾んでいた。
でも、その場所を作るということは、人を集めるということだ。
人を集めるなら、責任が生まれる。
「だから、職人が必要なんです」
俺は言った。
「私には分からないことがあります。だから、分かる人に頼みたい」
「俺に頼むな」
「また来ます」
「来るな」
「来ます」
ガルドの眉が動いた。
「耳が悪いのか?」
「悪くないです」
「なら、来るな」
「それでも来ます」
しばらく沈黙が落ちた。
ニカが小さく息を吸う。
レインは何も言わない。
ガルドは俺をじっと見下ろしていた。
やがて、彼は鼻を鳴らした。
「勝手にしろ。次も追い返すだけだ」
「分かりました」
「分かってねえだろ」
「追い返されることは分かりました」
「面倒な小娘だ」
ガルドはそう吐き捨て、扉を閉めようとした。
その直前、俺は紙を差し出した。
「これ、置いていきます」
「いらねえ」
「でも、置いていきます」
「持って帰れ」
「明日取りに来ます」
「来るなと言った」
「来ます」
ガルドの顔がさらに険しくなる。
けれど、紙を叩き落としはしなかった。
俺は作業台の端に、図面とは呼べない配置案を置いた。
ガルドはそれを見ていないふりをしていた。
でも、視線の端が一瞬だけ紙を追ったのを、俺は見逃さなかった。
扉が閉まる。
重い音が、古い工房の前に落ちた。
話は聞いてもらえなかった。
依頼は断られた。
初回交渉としては、ほとんど失敗だった。
ニカが肩を落とす。
「だから言ったじゃん。門前払いだって」
「門の中までは入れませんでしたね」
レインさんが静かに言う。
「でも、図面は見てくれました」
俺は閉じた扉を見る。
「うん」
ガルド・バルグレンは、俺たちを追い返した。
ヒュームの小娘だと切り捨てた。
商会の話にも乗らなかった。
それでも、砂地に柱を立てる話をした瞬間、あの人の目は変わった。
濁っていた目の奥に、ほんの一瞬だけ火が戻った。
なら、まだ終わっていない。
あの人は、まだ職人を捨てきれていない。




