第七十五話 最初の一着
第七十五話 最初の一着
紙の上にあった夏は、数日後、布と小瓶になって俺たちの前に置かれた。
ハルヴェイ商会の奥に用意された部屋には、薄い布地、紐、留め具、色見本、そして小さな香膏の瓶がいくつも並んでいる。
まだ完成品ではない。
あくまで試作品。
けれど、それでも机の上に置かれたそれらを見た瞬間、胸の奥が少しだけ浮いた。
数字ではなく、形になっている。
水着。
陽除け香膏。
海辺で過ごすための最初の道具。
昨日まで紙の上にあったものが、もう手で触れられる場所にある。
「まだ完成品ではありません」
レインが静かに言った。
「仕立て職人と調合師に急ぎで形にしてもらった、最初の試作品です。実際に着用して、動きやすさ、見え方、肌触り、濡れた時の問題点を確認する必要があります」
コルバンが腕を組み、机の上の布を見下ろす。
「見た目はまだ荒い。だが、布としては悪くねえ。防水布をそのまま使うと硬すぎるからな。水に触れる部分と、動きを邪魔しねえ部分で素材を分けてる」
「なるほど」
俺は一着を手に取った。
思ったより軽い。
普通の衣服より面積は少ないが、その分、紐や縫い目の位置が重要になる。
水に濡れた時、重くならないこと。
動いた時、ずれないこと。
肌を見せすぎず、それでも水の中で邪魔にならないこと。
考えるほど、ただ布を少なくすればいい話ではないと分かる。
「一般向けは動きやすさ重視です」
レインが説明する。
「装飾は最小限。縫製も単純にし、価格を抑えます。貴族向けは、布質と意匠を変えています。薄布の羽織りや腰布を合わせる案も用意しました」
「それは必要ね」
ローゼリアがすぐに言った。
彼女は貴族向けの試作品を手に取り、まるで剣の出来を見るような真剣さで縫い目や布の流れを確認している。
「肌を見せるだけでは下品になるわ。これは肌を出す服ではなく、水辺で美しく過ごすための衣装として見せるべきなの。腰布や薄い羽織りがあれば、見た目の印象はかなり変わる」
「装飾はどうでしょう」
レインが聞くと、ローゼリアは少し考えた。
「金属は重いわ。水に入るなら邪魔になる。軽い貝殻、色付き硝子、刺繍くらいがいいでしょうね。あとは髪色や家の色に合わせて選べるようにすると、貴族女性は喜ぶと思うわ」
「家の色……」
「ええ。特に王都では、誰がどの色を選ぶかにも意味が出るもの」
面倒くさい。
でも、そういう面倒くささも貴族向け商品には必要なのだろう。
俺が感心していると、セシリアが別の試作品を手に取った。
「形そのものは悪くないわ。でも、これを人前で着るなら、やっぱり脱衣所と休憩所は必須ね。衣服だけを売れば済む話ではないわ」
「やっぱりそう思う?」
「ええ。特に女性用は、着替えの場所、羽織るもの、濡れた後に身体を冷やさないための布が必要よ。それに、動いた時にずれないか、透けないかも確認しないといけない」
セシリアの声は落ち着いていた。
でも、試作品を見る目には少しだけ困惑が混じっている。
王女としての風紀感覚と、友人たちと試すという状況が、彼女の中でまだうまく噛み合っていないのかもしれない。
「陽除け香膏も試すんだよね?」
ニカが小瓶をつまみ上げる。
透明に近い乳白色の中身が、瓶の中でゆっくり揺れた。
「はい。こちらは試作一号です」
レインが小瓶を一つ取り、蓋を開ける。
ふわりと、草と花の混じったような香りが広がった。
思っていたより悪くない。
スライム粘液と聞いた時の嫌な印象はほとんどない。
「スライム粘液は精製し、鎮静系のハーブと香草、少量の油分を合わせています。まだ配合は粗いですが、肌に伸ばすことはできます」
「じゃあ、まず私が」
「却下」
俺が手を伸ばした瞬間、セシリアが即座に言った。
「だから、一人で試すなと言ったでしょう」
「いや、今はみんなの前だし」
「そういう問題ではないわ。量を決めて、場所を決めて、時間を置いて確認するの。肌に直接塗るものなのだから」
「はい…」
反論できなかった。
セシリアは俺の腕を取り、手首より少し上の内側を指で示す。
「まずはここに少量。顔や広い範囲には塗らない」
「完全に管理されてる」
「管理しないと、あなたはすぐ無茶をするもの」
ニカが笑った。
「セシリア、保護者みたい」
「誰が保護者よ」
「今のはかなり保護者だったよ?」
セシリアはわずかに眉を寄せたが、否定しきれない顔をした。
俺は言われた通り、腕の内側にほんの少しだけ陽除け香膏を塗る。
ひんやりした感触が広がり、すぐに薄い膜のように馴染んだ。
べたつきは少ない。
少し草っぽい匂いは残るが、嫌な臭いではなかった。
「思ったよりスライム感ないね」
ニカも少量を腕に塗りながら言った。
「スライム感って何?」
「ぬめっとして、うわってなる感じ」
「ニカ、それは商品として終わってるよ」
「これは平気。ちょっとひんやりする」
ローゼリアも試し、指先で伸びを確認する。
「香りは悪くないわ。ただ、貴族向けならもう少し上品にしたいわね。草の香りが少し強い。花の香りを足すか、容器ごとに香りを選べるようにした方がいいわ」
「使用説明も必要ね」
セシリアが言った。
「どこに塗るのか。どれくらいの量を塗るのか。赤みが出たら使用をやめること。肌に合わない者もいると明記した方がいいわ」
また一つ、商品に必要なものが増えた。
でも、こういう細部が後で大きな事故を防ぐのだと思う。
俺一人なら、そこまで丁寧に詰められなかったかもしれない。
陽除け香膏の確認が一段落すると、いよいよ水着の試着に移ることになった。
レインとコルバン、男性店員は当然のように部屋を出た。
残ったのは、俺たち四人と、女性の仕立て職人、女性店員だけ。
部屋の奥に簡易の仕切りが用意され、それぞれが試作品を受け取る。
俺は手の中の水着を見下ろした。
自分で提案した。
必要だと分かっている。
機能確認もしなければならない。
それでも、いざ自分が着るとなると、妙な緊張がある。
中身は三十五歳の男。
なのに、今から美少女の身体で水着を試す。
冷静に考えると、なんとも言えない気持ちになる。
着替え終えて、仕切りの外に出る。
鏡の前に立った瞬間、俺は少しだけ固まった。
鏡の中にいるのは、どう見ても夏の水辺に立つために整えられた美少女だった。
金色の髪。
水色と淡い桃色の瞳。
白を基調にした試作品の水着は、露出を抑えつつも身体の線を隠しきってはいない。
俺なのに。
俺のはずなのに。
何度見ても、脳が少しだけ拒否する。
「……動きやすい」
とりあえず、機能の話に逃げた。
腕を上げる。
腰を捻る。
軽く足を開く。
布が突っ張る感覚は少ない。
ただ、濡れた時にどうなるかはまだ分からない。
「アイリス、似合ってるじゃん」
ニカが仕切りの向こうから出てきて、にやりと笑った。
彼女の水着は動きやすさ重視の形で、獣人の耳や尻尾の動きを邪魔しないように調整されている。
腰回りはしっかり固定されているが、足の動きはかなり自由そうだった。
「ニカも似合ってる」
「ほんと?」
「うん。動きやすそうだし、ニカらしい」
そう言うと、ニカは少しだけ目を瞬かせた。
そして、いつもの軽口を言おうとして、少し遅れた。
「あたし、こういう格好しても商品になるんだ」
ぽつりと落ちた言葉に、俺はニカを見る。
ニカはすぐに笑った。
「いや、変な意味じゃなくてさ。獣人の耳とか尻尾って、邪魔扱いされることも多いから。こういうの、ちゃんと合わせて作るんだなって」
「合わせるよ。使う人の身体に合わない商品なんて意味ないし」
「そっか」
ニカは尻尾を軽く揺らした。
その顔は、少しだけ嬉しそうだった。
次に出てきたのはローゼリアだった。
赤を基調にした試作品に、薄い腰布が合わせられている。
彼女は恥じらうより先に鏡の前に立ち、横からの見え方を確認した。
「悪くないわね」
「堂々としてるね」
「確認するために着ているのだから、当然でしょう」
ローゼリアはそう言いながらも、俺と目が合うと一瞬だけ視線を逸らした。
ほんのわずかに耳が赤い。
それでもすぐに顔を戻す。
「でも、この胸元の線は少し直した方がいいわ。貴族向けなら、肌を見せるというより飾る方向にした方がいい」
「飾る?」
「ええ。布の切り替えと刺繍で、視線を散らすの。見せたい場所と隠したい場所を、服の方で誘導するのよ」
「なるほど」
ローゼリアは本当に容赦がない。
だが、その指摘は的確だった。
仕立て職人も真剣に頷いている。
最後に、セシリアが出てきた。
白と紺、銀の縁取りが入った試作品。
肌の露出は他より控えめで、薄い羽織りが肩にかかっている。
上品だった。
王女としての気品が、水辺の衣装に落とし込まれている。
けれど本人は、明らかに硬かった。
「……本当に、これを人前で着るの?」
「試作品だから、まだ調整するよ」
「そういう意味ではなく」
セシリアは鏡を見て、少しだけ唇を引き結んだ。
王女としては堂々としている。
でも、友人たちの前でこの格好をしていることには慣れていない。
俺は少し考えてから言った。
「似合ってるよ、セシリア」
セシリアの肩が小さく跳ねた。
「……そう」
「うん。上品だし、セシリアらしい」
ニカも頷く。
「王女様っぽいけど、ちゃんと夏っぽい」
「それは褒めているの?」
「めっちゃ褒めてる」
ローゼリアも鏡越しに言った。
「似合っているわ。悔しいけれど、白と紺がよく合っている」
「なぜ悔しがるのよ」
「何となくよ」
セシリアは少しだけ困ったように目を伏せた。
そして、小さく呟く。
「王女として褒められることには慣れているつもりだったのに……友人に言われると、違うのね」
その声は、本当に小さかった。
でも、俺には聞こえた。
以前に泣きながら友達でいたいと言ったセシリアが、今は友人から褒められて戸惑っている。
それが少しだけ、胸に温かかった。
試着の後は、機能確認だった。
歩く。
腕を上げる。
軽く跳ねる。
しゃがむ。
腰布や羽織りが邪魔にならないかを見る。
ニカの尻尾が布に引っかからないかも確認する。
胸元、腰回り、肩紐。
少し動くだけで、直すべき点はいくつも出てきた。
「濡れたら、もっと問題が出そうだね」
俺が言うと、ローゼリアが頷く。
「そうね。布が重くなるかもしれないし、透ける可能性もあるわ」
「透けるのは絶対に駄目よ」
セシリアが即座に言った。
「うん。そこは実際に水へ入らないと分からない」
その言葉で、全員が少し黙った。
「つまり、海に行くってこと?」
ニカが嬉しそうに言う。
「視察だけなら、今日向かう準備はできています」
レインが扉の外から声をかけてきた。
きちんとこちらを見ない位置に立っているあたり、礼儀は守っている。
「試験地として考えている海辺があります。今日は水に入らず、場所の確認だけでも」
それなら、と話は決まった。
俺たちは一度普通の服に着替え直し、試作品を布に包んで持つ。
陽除け香膏の小瓶もいくつか箱へ収めた。
水着の実地試験。
その前段階として、まずは海を見る。
獣車でしばらく進むと、街の音が遠のき、風の匂いが変わった。
土と草の匂いに、少しずつ塩の気配が混じる。
この世界にも塩はある。
港町では海水を煮詰めて作る粗塩が流通し、内陸では輸送費の分だけ少し高くなる。
レインによれば、この辺りにも昔、小さな製塩場があったらしい。
今はほとんど使われていないが、海水の質は悪くないという。
獣車が止まった。
砂を踏む音がした。
俺は外へ出て、言葉を失った。
そこにあったのは、俺の知っている海ではなかった。
浅瀬は硝子みたいに透き通り、白い砂が水の下まで続いている。
波が寄せて、引く。
そのたびに砂浜へ残るのは、泡と光だけだった。
空き瓶も、破れた網も、黒ずんだゴミもない。
打ち上げられた汚れたものも、人工物の残骸も見当たらない。
白い砂浜は、まるで誰も踏み荒らしていない布のように続いていた。
現代日本の海を知っている俺からすれば、信じられないほど綺麗だった。
「……すごい」
思わず呟く。
セシリアとローゼリアも、少しだけ目を細めて海を見ていた。
ニカはすでに波打ち際へ走り出しそうな顔をしている。
「ここ、かなり遠浅ですね」
俺は浅瀬を見る。
水の色が急に濃くなる場所は、かなり先だ。
手前は底が見えるほど浅い。
波も穏やか。
もちろん油断はできないが、区画を決めて見張りを置けば、子どもでも入れそうに見える。
「子どもも入れそう」
そう言うと、レインがこちらを見た。
「子ども、ですか」
「はい。大人用だけじゃ足りません。家族で来るなら、子ども用の水着も必要です。浅瀬区画、見張り、家族向けの休憩所も考えた方がいい」
コルバンが苦笑する。
「嬢ちゃん、また増えたな」
「海で遊ぶ文化を作るなら、大人だけでは足りません。子どもが安全に楽しめる形まで考えないと、家族では来られません」
言いながら、頭の中で別のものも浮かんでいた。
ここは、ただ泳ぐだけの場所じゃない。
人が来て、休んで、また来たいと思う場所になれる。
もっと整えれば、日帰りでは終わらないかもしれない。
宿。
長く滞在する場所。
夏を過ごすための拠点。
そこまで考えかけて、俺は一度飲み込んだ。
まだ早い。
まずは、この夏で本当に人が海へ来るのかを確かめるべきだ。
勝ち筋が見えるまでは、次の構想は出さない。
波が白い砂の上を薄く濡らしていく。
紙の上にあった夏は、布になった。
小瓶になった。
そして今、目の前の白い砂浜と透き通った海の中に、確かに形を持ち始めている。
けれど、まだ足りない。
本当に売れるかどうかは、水の中で確かめなければ分からない。
次にすることは、決まっていた。
俺たちは、この海に入る。




