第七十四話 夏の値段
第七十四話 夏の値段
数字にすると、物事は急に重くなる。
翌日、ハルヴェイ商会の小部屋に置かれた紙を見て、俺はそんなことを思った。
机の上には、昨日よりさらに多くの書類が並んでいる。
水着の材料費。
陽除け香膏の素材費。
海辺休憩所の仮設費。
人件費。
販売価格案。
想定販売数。
利益分配案。
そして、月ごとの収益試算。
昨日まではまだ、構想だった。
水着を作る。
陽除け香膏を作る。
海辺で過ごす時間を売る。
権利を守る。
言葉にすれば、どこか夢のある話だった。
けれど、今日は違う。
紙の上には、数字があった。
数字は夢を曖昧なままにしてくれない。
できること。
できないこと。
儲かること。
失敗した時に失うもの。
その全部を、冷たく形にする。
「まず、商品の価格から詰めます」
レインが言った。
今日のレインは、いつにも増して商人の顔をしていた。
穏やかではある。
けれど、甘さはない。
コルバンも隣で帳簿を開き、すでに眉間に皺を寄せている。
ニカは俺の隣で紙を見ていたが、数字が多すぎるせいか、少し目が泳いでいた。
セシリアとローゼリアも同席している。
二人とも、昨日よりさらに真剣な顔だった。
「一般向けの水着は、一着一万ビルを基準にしたいと考えています」
「一万ビル……」
俺は小さく呟いた。
一万ビル。
銀貨一枚だ。
庶民が気軽に何枚も買うものではない。
けれど、夏の特別な衣服としてなら成立する価格でもある。
コルバンが続ける。
「原価は布、紐、縫製費込みでおよそ四千ビル。粗利は六千ビルだな」
「貴族向けは?」
ローゼリアが聞く。
「そっちは一着十万ビルを基準にします」
レインが答えた。
「大銀貨一枚ね」
ローゼリアは当然のように頷いた。
「布質、意匠、仕立てを変えます。水辺で過ごすための上品な衣装として見せるなら、これくらいの価格帯でなければ、逆に安く見られる可能性があります」
「それはそうね。貴族女性は、安いから買うのではないわ。美しく、珍しく、自分にふさわしいと思うから買うの」
ニカが小声で呟く。
「大銀貨一枚の水着……」
「ニカ、顔」
「だって水に入る服でしょ?」
「貴族向けだから」
「貴族ってすごいね」
セシリアがわずかに苦笑した。
「否定はしないわ」
次に、陽除け香膏の価格が出された。
「一般向けの小瓶は五千ビル。原価はおよそ千五百ビル。粗利は三千五百ビルです」
レインが紙を示す。
「貴族向けの香り付き小瓶は一万ビル。原価は二千五百ビル。粗利は七千五百ビル。さらに高級容器入りは十万ビル。原価は容器込みで二万ビル前後。粗利は八万ビルほどを見込めます」
「高級容器入りが大銀貨一枚……」
俺は思わず紙を見る。
陽除け香膏。
つまり、この世界版の日焼け止めのようなものだ。
それが高級版とはいえ十万ビル。
「売れるの?」
俺が聞くと、ローゼリアはあっさり言った。
「売れるわ」
「即答だね」
「貴族女性向けの美容品は、効果と見た目が伴えば高くても売れるものよ。むしろ安すぎると信用されないわ」
セシリアも頷く。
「王都の社交に乗れば、高級容器入りの方が先に話題になる可能性もあるわね」
「……貴族社会、すごい」
「あなたが今そこに商品を投げ込もうとしているのよ」
セシリアにそう言われ、俺は少しだけ背筋を伸ばした。
続いて、海辺休憩所の価格。
一般利用は脱衣所込みで三千ビル。
貴族向け個室は飲食と荷物預かり込みで二万ビル。
そこに軽食や飲み物、防水布の貸し出し、香膏の追加販売が乗る。
数字だけを見ると、もう完全に一つの小さな事業だった。
「次に、利益分配です」
レインが言った瞬間、部屋の空気がさらに硬くなった。
ここが本題だ。
契約金。
歩合。
誰がどれだけ取るのか。
夢の話ではなく、金の話。
コルバンが俺を見る。
「嬢ちゃん、昨日は利益の一部と言っていたな」
「はい」
「こっちの最初の案では、純利益の二割を嬢ちゃんへ支払う形だった」
俺は紙を見る。
純利益の二割。
商会が初期投資と実務負担を背負うなら、悪くない数字に見える。
でも、昨日から一晩考えていた。
水着だけではない。
陽除け香膏だけでもない。
海水浴という文化。
海辺休憩所という運営形式。
スライム粘液の新用途。
創案権という考え方。
俺が渡すのは、単なる思いつきではない。
「純利益の二割では、安いと思います」
俺がそう言うと、コルバンの眉がぴくりと動いた。
ニカが横で口元を押さえる。
「嬢ちゃん、言うようになったな」
「創案権を手放さない以上、ここは譲れません」
俺は紙を指で押さえた。
「水着と陽除け香膏は、純利益の三割。海辺休憩所の運営は、施設維持と人件費が重いので二割。それならどうですか」
部屋が静かになった。
コルバンは黙ったまま帳簿を見る。
レインは少しだけ目を見開いていた。
ニカは声を殺して笑っている。
「アイリス、完全に商人じゃん」
「必要な話だからね」
「いや、かっこいいけどさ」
コルバンはしばらく紙の上で指を動かしていた。
水着の原価。
陽除け香膏の原価。
施設維持費。
人件費。
商会の取り分。
アイリスの取り分。
それらを頭の中で組み直しているのだろう。
やがて、低く笑った。
「悪くねえ」
「本当ですか?」
「ああ。強欲すぎず、安売りもしねえ。水着と香膏は嬢ちゃんの発案価値がでけえ。三割でも筋は通る。施設運営は商会の実務が重いから二割。そこも分かってる」
コルバンはレインを見る。
「坊っちゃん、俺はこの線なら飲める」
レインは少し考えたあと、頷いた。
「私も異論ありません」
「ありがとうございます」
「ただし、純利益の計算方法は明確にします。素材費、人件費、施設維持費、職人費、輸送費を引いた後の利益から、定められた割合をお支払いします」
「はい。それと、帳簿確認権は入れてください」
「もちろんです」
コルバンが満足そうに頷いた。
「そこを自分から言うなら十分だ」
次に、契約一時金が提示された。
レインが紙を一枚、俺の前に置く。
「契約一時金として、一千万ビルをお支払いします」
俺は固まった。
「……一千万?」
声が少し変になった。
俺の前世の年収だぞ。
それを一回で。
ニカが目を丸くする。
「一千万って、大金貨一枚?」
「はい。金貨十枚と同じ価値です」
レインが静かに言う。
「これは、水着、陽除け香膏、海辺休憩所運営形式について、三年間の優先製造権およびリズベル周辺・試験海辺での独占販売権に対する一時金です」
大金貨一枚。
前世で会社をやっていた頃の年収に近い金額。
それが、契約一時金として一度に提示されている。
紙の上では分かっていたはずなのに、貨幣の名前で言われると重さが変わった。
「高すぎませんか?」
思わずそう聞いた。
コルバンが鼻を鳴らす。
「嬢ちゃん、自分で三割要求しといて、そこは弱気になるのか」
「いや、だって大金貨一枚は……」
「安くはねえ。だが、坊っちゃんが買うのは商品じゃねえ。三年間の優先権だ。商会が本気で動くなら、それくらい出してもおかしくねえ」
レインも頷いた。
「それに、この金額にはアイリスさんへの拘束も含まれます。三年間、同じ案を別商会へ売らない。その代価でもあります」
「なるほど……」
そう言われると、少しだけ受け取りやすくなる。
それでも、重い。
数字が急に現実になっていく。
「では、試算に移ります」
レインは別の紙を広げた。
「まず、これはあくまで初期試験の見込みです。リズベル周辺、学院関係者、近隣の貴族・富裕層を対象とした一か月の試算です」
紙には、販売数が並んでいた。
一般向け水着、三百着。
貴族向け水着、八十着。
一般向け陽除け香膏、八百本。
貴族向け陽除け香膏、二百本。
高級陽除け香膏、三十本。
海辺休憩所の一般利用、千人。
貴族向け個室利用、百組。
「かなり強気に見えますが、初物として話題性があること、学院と貴族女性への広がりを考えると、初月は十分にあり得る数字です」
レインが説明する。
コルバンが補足した。
「むしろ問題は、二月目以降に落ちるか伸びるかだな。香膏は消耗品だから継続が見込める。水着は初動が大きい。休憩所は天候に左右される」
俺は紙を見る。
数字が並んでいるだけなのに、頭の中で海辺の風景が動き始める。
水着を選ぶ人。
香膏を試す人。
海辺で休む人。
軽食を買う人。
そこで働く人。
「初月の売上合計は、およそ二千五百万ビル」
レインの言葉で、ニカが椅子から少し浮いた。
「二千五百万!?」
「売上です。利益ではありません」
コルバンが即座に釘を刺す。
「それでもすごいけど!?」
レインは続ける。
「粗利益は、およそ一千六百八十万ビルを見込んでいます」
俺は思わず息を呑んだ。
一千六百八十万ビル。
大金貨一枚と、金貨六枚と、大銀貨八枚分。
数字が大きすぎて、逆に少し遠く感じる。
「ここから商品別に分配します。水着と陽除け香膏の純利益については、アイリスさんへ三割。海辺休憩所については二割」
レインは紙の下段を指す。
「概算ですが、初月のアイリスさんへの歩合は、およそ四百六十万ビル前後になります」
ニカが完全に固まった。
「……よんひゃくろくじゅうまん」
ローゼリアも目を細めた。
「金貨四枚と、大銀貨六枚。貴族令嬢の小遣いどころではないわね」
セシリアは静かに言った。
「平民出身の学院生が個人で得る収入としては、異常よ」
「私もそう思う」
俺は正直に答えた。
四百六十万ビル。
しかもこれは初月の歩合だけだ。
そこに契約一時金の一千万ビルが乗る。
「初月に限れば」
レインが言う。
「契約一時金と合わせて、アイリスさんの収入は約一千四百六十万ビルになります」
「待って待って待って」
ニカが両手を上げた。
「一千四百六十万ってなに? 大金貨一枚と金貨四枚と大銀貨六枚? それ、もう学生のお金じゃなくない?」
「学生のお金ではないわね」
ローゼリアがきっぱり言った。
「完全に事業収入よ」
コルバンが俺を見る。
「嬢ちゃん、これでもまだ初心者用の装備でいいって言うのか?」
「はい」
俺は頷いた。
「装備は今の私が扱える範囲で十分です。高い武器を持っても、腕が追いつかない。寮もあります。だから、このお金は使い切りません」
それに一回の大きな収入もありがたいが、やっぱりほしいのはストックビジネスだ。
半永久的に売れ続ける生活必需品を考えたい。
そのためにも投資用として置いておこう。
「どれだけ残す?」
「半分は再投資に回します。残りも全部使うつもりはありません。生活費、訓練費、必要な道具、あとは予備資金です」
レインが少しだけ感心したように息を吐いた。
「大金を得る前から、使い道を抑えられるのは良いことです」
「たぶん、使い始めたら一瞬でなくなるので」
「それを分かっているなら十分です」
ニカがじっと俺を見る。
「アイリス、お金持ちになっても、あたしへのご飯奢り忘れないでね」
「そこ?」
「大事でしょ」
「まあ、一回くらいなら」
「やった」
軽いやり取りに、少しだけ空気が緩んだ。
けれど、レインはまだ紙をめくる。
「これは初期試験の数字です。王都へ展開すれば、桁が変わります」
「桁が?」
俺は聞き返す。
「ヴェルドリア王国全体の人口は、およそ一千二百万人と見られています。男女比はほぼ半々ですが、女性の方がわずかに多い。貴族・準貴族層は全体の一%前後。富裕商人や上位市民を含めれば、さらに数十万人規模の市場があります」
数字がさらに大きくなる。
セシリアが補足した。
「王都と周辺だけでも、貴族・準貴族女性、富裕層の女性はかなりの数になるわ。流行として広がれば、陽除け香膏は毎月売れる可能性がある」
「消耗品だからですね」
「ええ。水着は季節に一度買えば済むかもしれない。でも香膏は使えば減る」
ローゼリアが続ける。
「高級版は贈答品にもなるわ。茶会で話題になれば、容器や香り違いも欲しがる人が出るでしょうね」
コルバンが低く言う。
「王都展開後なら、嬢ちゃんの歩合だけで月に一千万から三千万ビルもあり得る」
俺は何も言えなかった。
分かっていたつもりだった。
水着も、陽除け香膏も、売れると思っていた。
でも、数字で出されると重さが違う。
一千万。
三千万。
それは、俺個人の生活が楽になるとか、良い武器を買えるとか、そういう規模ではない。
人を雇える。
事業を増やせる。
何かを変えるための元手になる。
「怖くなりましたか?」
レインが聞いた。
俺は少し考えて、首を横に振る。
「怖くはあります。でも、逃げたいとは思いません」
「なぜですか?」
「これがあれば、選べることが増えるからです」
金があれば、全部解決するわけではない。
でも、金がなければ選べないことがある。
ニカが言っていた。
金がないと、尊厳まで奪われる。
なら、金は汚いものではない。
使い方を間違えれば人を壊す。
でも、正しく使えば、人が選ぶための土台になる。
「私は、これをただの贅沢には使いません」
俺は言った。
「次の事業に回します。雇用を作ります。安全な依頼を作ります。必要なら、誰かが安く買い叩かれない仕組みにも使います」
ニカが少しだけ目を伏せた。
セシリアは静かに俺を見ている。
ローゼリアは小さく笑った。
「本当に、あなたは妙な人ね」
「またそれ?」
「ええ。でも、悪くないわ」
コルバンが帳簿を閉じた。
「数字の話はここまでだな。あとは契約書に落とす。坊っちゃん、俺が草案を作る」
「お願いします」
レインは頷いた。
「アイリスさん、本日決めた内容でよろしければ、正式な契約書を準備します」
「はい。お願いします」
「そして、次は試作品ですね」
その言葉に、ニカの耳がぴくりと動く。
「水着?」
「はい」
レインが微笑む。
「数字の上では成立しそうです。ですが、実物がなければ商品にはなりません」
ローゼリアが立ち上がる。
「意匠は私も見るわ。下品に見えたら却下よ」
セシリアも静かに頷いた。
「私も確認します。特に女性用の形と、肌の露出については慎重に見る必要があるわ」
ニカがにやりと笑う。
「つまり、試着するってこと?」
部屋の空気が一瞬止まった。
俺は思わず視線を逸らす。
「……機能確認は必要だよね」
「アイリス、顔赤くない?」
「赤くない」
「絶対赤い」
「赤くない」
セシリアが冷たい目で俺を見る。
「あなたが言い出したのだから、最後まで責任を持ちなさい」
「はい」
逃げ場はなかった。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
数字の上にあった夏が、ようやく形を持とうとしている。
水着。
陽除け香膏。
海辺の休憩所。
それらはまだ紙の上にしかない。
でも、紙の上にある数字は、もう夢物語ではなかった。
夏には、値段がついた。
そして次は、その夏に形を与える番だった。




