第七十三話 創案件
第七十三話 創案権
翌日の放課後、俺たちは再びハルヴェイ商会の小部屋に集まっていた。
昨日と同じ部屋。
同じ机。
同じ椅子。
けれど、机の上に並んでいるものは少し違った。
防水布や海獣油の見本だけではない。
白紙の契約書。
簡易の計算表。
素材費の試算。
仕立て職人への依頼書案。
スライム粘液の買い取り候補価格。
それらがきっちり並べられている。
レインはいつもの穏やかな顔で席に着いていたが、今日は明らかに商談の顔をしていた。
コルバンも腕を組み、机の端に立っている。
ニカは椅子の背に寄りかかり、難しそうな紙を見てすでに少し飽きた顔をしていた。
セシリアとローゼリアは、昨日と同じように同席している。
二人とも客ではない。
けれど、この話が単なる商会内の相談では終わらないことを分かっているから、席を外さなかった。
「本日は、商品の話ではなく、権利と契約の話になります」
レインが静かに言った。
その一言で、部屋の空気が少し締まる。
水着。
陽除け香膏。
海辺の休憩所。
昨日は、それらをどう作るかを話した。
今日は、それをどう守るかを話す。
「まず、私の方で整理します」
俺は机の上の白紙を一枚取った。
羽根ペンを持ち、項目を書いていく。
創案権。
製造権。
販売権。
使用許諾。
品質管理。
書きながら、自分でも少し妙な気分になる。
この世界には、現代日本のような特許制度はない。
商会同士の契約や職人組合の秘伝、貴族や王家の認可はある。
でも、発案した人間の権利を制度として守る仕組みは、まだかなり曖昧だ。
なら、まずは契約で形を作るしかない。
「まず、創案権」
俺は一番上の文字を指で叩いた。
「水着、陽除け香膏、海辺休憩所の運営形式。これを最初に考えた人の権利です。ここは私が持ちます」
コルバンの眉が動いた。
「つまり、元の考えそのものは売らねえってことか」
「はい。売るのは、作る権利と売る権利です」
「ふむ」
レインが小さく頷いた。
「続けてください」
「次に、製造権。これは実際に商品を作る権利です。水着なら裁断や縫製。陽除け香膏なら製法や材料の配合。これをハルヴェイ商会に一定期間、優先して許可します」
「一定期間、というのが大事だな」
コルバンが言った。
「永久に渡すつもりはねえってことか」
「はい。最初は三年くらいを想定しています」
「三年か。短すぎず、長すぎずだな」
「その間にハルヴェイ商会が販路と品質を整える。私は創案者として契約金と売上の一部を受け取る」
ニカが口笛を吹いた。
「アイリス、なんかすごい商人っぽい」
「私も話しながらそう思ってる」
「自覚あるんだ」
「まあね」
軽く返しつつ、俺は次の項目へ進んだ。
「販売権。これは商品を売る権利です。リズベル周辺では、ハルヴェイ商会の独占販売にしていいと思っています」
「リズベル周辺だけ?」
レインが聞く。
「最初は、です。王都や海沿いの街まで一気に広げると管理できません。まずはリズベルと、試験運用する海辺の一か所。そこから広げるなら、別契約にした方がいい」
コルバンが低く笑った。
「嬢ちゃん、商売を始める前に、揉める未来まで潰す気か」
「売れてから揉める方が面倒です」
「そりゃそうだ」
コルバンは楽しそうに鼻を鳴らした。
レインは静かに紙を見ている。
その目は、俺の言葉を一つずつ値踏みしているようだった。
「使用許諾は?」
セシリアが聞いた。
「他の商会や職人に作らせる時の許可です。正規の形で許可を出して、使用料を取る。勝手に真似されるより、真似したい人からお金を取れる形にした方がいい」
「……あなた、本当にそういう発想が自然に出てくるのね」
セシリアが呆れたように言う。
「不自然?」
「か、な、り、ね」
ローゼリアも頷いた。
「普通、十六歳の少女は、水着を思いついた次の日に使用許諾料の話をしないわ」
「でも必要でしょ」
「必要だからすぐ考えるのがおかしいと言っているの」
俺は黙った。
反論できない。
前世では、権利とか特許とか著作権とか、そういう言葉は当たり前にあった。
でも、この世界ではまだ当たり前じゃない。
そこを忘れると、すぐに怪しまれる。
「本で……」
「読んだのね?」
ローゼリアが先に言った。
「……うん」
「その本、今度見せなさい」
「あー、なくしちゃったなー」
「都合よくなくなるのね」
セシリアの視線が痛い。
ニカは笑いを堪えて肩を震わせていた。
俺は咳払いして話を戻す。
「最後に、品質管理。特に陽除け香膏は肌に塗るので、粗悪品が出ると危険です。正規品の印を作りたい」
「商会印とは別にか?」
コルバンが聞く。
「はい。ハルヴェイ商会の印と、創案登録印みたいなものを二つ入れる。例えば、容器の底や封に印を押す。正式品かどうか分かるように」
「偽物対策か」
「それと責任の所在をはっきりさせるためです」
レインがそこで口を開いた。
「ハルヴェイ商会として、一定期間の優先製造権と販売権を買わせてください」
部屋が静かになる。
レインの声は柔らかい。
けれど、商会主としての重みがあった。
「水着、陽除け香膏、海辺休憩所の運営形式。これらをハルヴェイ商会の正式事業として扱いたい。もちろん、アイリスさんの創案権を買い取るという意味ではありません。創案者はあくまでアイリスさんです」
「ありがとうございます」
「その上で、こちらが試作費、職人への依頼費、素材の初期買い取り、施設準備費を負担します。代わりに、リズベル周辺と試験海辺での独占販売権をいただきたい」
レインはそこで少しだけ表情を引き締めた。
「契約一時金と、販売利益からの歩合をお支払いします」
ニカの耳がぴくりと動いた。
「歩合って、売れたらずっと入るやつ?」
「そういう形にしたいです」
レインが答える。
「アイリスさんの発案が利益を生む限り、その一部を創案者へ支払う。それが筋でしょう」
「うわ、アイリス、お金持ちじゃん」
「まだ売れてないよ」
「でも売れるでしょ?」
「たぶんね」
たぶん、売れる。
ただ、想像以上に大きくなる可能性もある。
そう考えると、少しだけ背筋が伸びた。
コルバンが机に指を置く。
「夢のある話は分かった。だが、契約は数字だ。ここを曖昧にすりゃ、後で必ず揉める」
「はい」
「まず一時金。試作段階で嬢ちゃんが受け取る金だ。次に歩合。売上なのか、利益なのか。素材費、加工費、人件費、施設費を引いた後なのか。そこを決める」
「利益からの割合が自然だと思います」
「だろうな。売上から取られちゃ商会が死ぬ。だが利益の計算はごまかしが効く。そこをどう透明にするかも決めなきゃならねえ」
「帳簿を見せてもらう形ですか?」
「定期報告だな。月ごとにまとめる。嬢ちゃんが直接全部見るのは現実的じゃねえ。だが、確認できる権利は入れておけ」
コルバンの言葉は現実的だった。
こういう時、彼の存在はかなり大きい。
夢を潰すためではなく、夢が後で崩れないように重しを置いてくれる。
「それと、失敗時だ」
「失敗時?」
「試作で売れねえ。香膏が思ったほど伸びねえ。海辺休憩所に客が来ねえ。その時の損失を誰が負うのか」
レインが口を開く。
「初期投資についてはハルヴェイ商会が負担します。アイリスさんは創案者として案を出し、試験販売に協力する。失敗時にアイリスさんへ損失負担を求めるつもりはありません」
「坊っちゃん、それは少し甘い」
コルバンが言った。
「ですが、未成年の学院生に商会の損失を負わせる契約は、信用を落とします」
「そりゃそうだ」
「ただし、アイリスさんが勝手に別商会へ同じ案を売ることは制限します。ハルヴェイ商会が投資する以上、一定期間の優先権は必要です」
「分かります」
俺は頷いた。
その条件は当然だ。
レインが投資してくれる以上、俺も勝手には動けない。
「商会間の契約だけでは限界があるわ」
セシリアが静かに言った。
全員の視線がセシリアへ向く。
彼女は王女としての顔をしていた。
「水着だけなら、衣服として扱えるかもしれない。でも、陽除け香膏は肌に直接使うもの。学院依頼でスライム粘液を集めるなら学院やギルドも絡む。海辺休憩所は場所の使用許可と安全管理が必要になる。貴族女性に広げるつもりなら、なおさら慎重に進めるべきね」
「王家の認可が必要なの?」
俺が聞くと、セシリアは少し考えてから首を横に振った。
「最初から王家に持ち込む必要はないわ。むしろ最初から王家の名を出すと、大きくなりすぎる。まずはリズベル周辺と、学院・商会の範囲で試験運用。その結果を持って王都へ話を上げる方がいい」
「なるほど」
「ただし、将来的に王家の耳には入るでしょうね。貴族女性に広がれば、流行は必ず王都に届くわ」
ローゼリアが続ける。
「貴族女性に売るなら、見せ方も重要よ。水着は下品に見えた瞬間に終わるわ。肌を出す服ではなく、水辺で過ごすための上品な衣装として見せるべきね」
「上品な衣装……」
「ええ。庶民向けと貴族向けは分けた方がいいわ。庶民向けは動きやすさと価格。貴族向けは意匠、布の質、香膏の香り、容器の美しさ。特に陽除け香膏は、香りと容器で価値が変わる」
レインがすぐにメモを取る。
「高級版と廉価版ですね」
「そう。貴族女性は効果だけで買うわけではないわ。人前で使う時に、美しく見えることも大事なの」
ローゼリアの言葉には説得力があった。
ただ気が強いだけではない。
公爵家の令嬢として、貴族社会の見え方を知っている。
水着も香膏も、俺が思う以上に「どう見えるか」が重要なのだろう。
「でもさ」
ニカが口を挟んだ。
「これ、儲かるなら絶対に安く使われる人も出るよ」
部屋が少し静かになる。
ニカは机の上の買い取り価格案を見る。
「スライム集める子どもとか、浜辺の荷運びとか、店の片づけとか。安くてもやる人がいるなら、安く使うやつも出る」
その言葉は軽くなかった。
ニカ自身が、そういう仕事を見てきたからだ。
「だから、最低買い取り価格を決めたい」
俺は言った。
「スライム粘液を買い叩かれないように、正規の買い取り価格を作る。学院依頼にするなら、危険度と作業量に見合った報酬にする。浜辺の仕事も、商会が関わる範囲では日当を決める」
ニカが少しだけ目を見開いた。
「そこまで考えるんだ」
「そこを考えないと、結局ニカが言ってた“金がないと尊厳まで奪われる”って話に戻るから」
ニカは黙った。
それから、少しだけ視線を逸らす。
「……そういうとこ、ずるい」
「ずるい?」
「言われたこと、ちゃんと覚えてるとこ」
「大事なことだったから」
「ふーん」
ニカはそれ以上何も言わなかった。
でも、耳が少しだけ動いていた。
話はさらに数字へ進んだ。
コルバンが素材費と職人費を計算し、レインが初期投資額をまとめる。
セシリアは学院や認可の流れを確認し、ローゼリアは貴族向けの見せ方を補足する。
俺はその全部を聞きながら、自分の案が少しずつ現実に寄っていくのを感じていた。
「嬢ちゃん」
コルバンがふと聞いた。
「これが当たれば、かなりの金が入るぞ。装備でも買うのか?」
「いえ」
俺は即答した。
「装備はまだ初心者用で十分です。良い武器を持っても、今の私では扱いきれません。住む場所も学院の寮があります。だから、利益の半分くらいは次の事業に回します」
また部屋が静かになった。
「……次の事業?」
レインが聞く。
「はい。夏の商品は季節商売です。夏が終わる前に、次の季節の需要を考えないと遅い」
「夏が始まる前から、冬の商売を見ているのですか?」
「冬は外に出る時間が減ります。家の中で過ごす時間が増える。なら、室内で楽しめるものが売れると思います」
「室内で楽しめるもの?」
「遊戯札とか、盤上遊戯とか」
ニカが首を傾げる。
「なにそれ」
「家の中で遊ぶ道具。ルールを覚えれば、大人も子どもも楽しめる」
コルバンがまじまじと俺を見た。
「嬢ちゃん、お前……夏の海辺を売る話をしてる最中に、もう冬の部屋の中を売る気か」
「季節商売は、次を見ておかないと」
「恐ろしいな」
コルバンは呆れたように言いながら、どこか楽しそうでもあった。
レインは深く息を吐いた。
「アイリスさん。あなたは商品を考えているのではなく、人の時間の使い方を考えているのですね」
その言葉に、俺は少しだけ黙った。
夏は海で過ごす時間。
冬は部屋で過ごす時間。
そう言われれば、確かにそうだ。
俺は商品そのものではなく、その商品が生む時間を考えていたのかもしれない。
「たぶん、そうですね」
俺は答えた。
「人がどう過ごすかを変えれば、必要なものも変わりますから」
「本当に……」
レインは困ったように笑った。
「十六歳の発想ではありませんね」
「それ、今日何回目ですか」
「何度でも言いたくなりますよ」
その場に小さな笑いが起きた。
けれど、紙の上に並んだ文字は笑い話ではない。
創案権。
製造権。
販売権。
使用許諾。
品質管理。
最低買い取り価格。
正規品印。
試験運用。
その日のうちに、正式な契約書までは完成しなかった。
けれど、骨子は決まった。
アイリス・シエーレは、水着、陽除け香膏、海辺休憩所運営形式の創案権を保持する。
ハルヴェイ商会は、三年間の優先製造権と、リズベル周辺および試験海辺での独占販売権を得る。
売上利益の一定割合を、創案者である俺へ支払う。
他地域展開や他商会への許諾は、双方の合意を必要とする。
陽除け香膏には正規品印をつけ、品質管理を行う。
スライム粘液の買い取りは、最低価格と正規依頼を設定する。
紙の上に書かれたそれは、まだこの国に正式な制度として存在するものではない。
けれど、確かに形になり始めていた。
水着を作る。
陽除け香膏を作る。
海辺で過ごす時間を作る。
けれど、それだけでは足りない。
作ったものを守る仕組みがいる。
俺が紙の上に書いたのは、商品名ではなかった。
まだこの国にない、権利という形だった。




