第七十一話 夏の気配
第七十一話 夏の気配
それから、三ヶ月が過ぎた。
学院の庭に咲いていた淡い花は散り、石畳の隙間には濃い緑が伸び始めていた。
朝の空気はやわらかさを失い、昼になると制服の襟元にじんわりと汗が滲む。
風の匂いも変わった。
土と花の匂いではなく、熱を含んだ草と、遠くの雨を思わせる湿った匂い。
季節は、いつの間にか春の端を越えていた。
学院の空気も、少しずつ形を変えていた。
ルシェルの件で生まれたざわめきも、レオスとダリウスの衝突で広がった貴族と平民の線も、消えたわけではない。
ただ、むき出しだった熱が、日々の授業と訓練の下に沈んでいっただけだ。
視線はまだある。
噂も残っている。
けれど、人はいつまでも一つの事件だけを見続けてはいられない。
学院には授業があり、訓練があり、課題があり、明日の食事がある。
俺も、少しずつ変わっていた。
魔法は使えない。
魔力圧も、まだまともに扱えない。
ラグナとルナも、姿を見せない。
胸の奥に気配はある。
以前より濃く、近くなったような感覚はある。
けれど、それだけだ。
手を伸ばせば届きそうで、やはり届かない。
その代わり、剣は前より身体に馴染んできた。
レオスに指摘された右足の沈みは、完全ではないにしても少しずつ直っている。
踏むのではなく、置く。
力で押すのではなく、重心を崩さずに動く。
それだけのことに、三ヶ月かかった。
たったそれだけ。
けれど、今の俺にはその積み重ねが必要だった。
ニカは、ハルヴェイ商会での仕事を続けていた。
危ない仕事には行っていない。
少なくとも、俺たちの知る限りでは。
店先で客の足取りを見て、匂いで傷みかけた品を見つけ、荷袋や靴底から需要を拾う。
最初は「店の鼻」と自分で言って笑っていたが、最近では本当に店の一部になりつつあった。
金への執着は相変わらずだ。
けれど、その笑顔は以前より少しだけ軽い。
セシリアも変わった。
王女であることは消えない。
周囲が意味をつけることも変わらない。
それでも、俺たちの前で見せる顔は少しずつ柔らかくなった。
ニカが机に足を乗せれば冷たく叱り、俺の髪が跳ねていれば何も言わず櫛を差し出す。
ローゼリアと言い合う回数も増えた。
それは、きっと悪い変化ではない。
エイフィズは、前より少し動けるようになっていた。
訓練では、完全に立ち尽くすことは減った。
けれど、笑うことはなかった。
周囲の見る目がわずかに変わっても、彼自身がそれを受け取れているようには見えない。
俺とは必要最低限しか話さない。
ガイアも、まだ姿を見せていなかった。
ルシェルは、制限付きで学院へ戻っていた。
俺への接近は禁止されたまま。
教室や廊下で目が合えば、遠くから完璧な礼をする。
話しかけてはこない。
近づいてもこない。
ただ、その視線だけは以前より静かで、逆に不気味だった。
そんな日々の中で、夏の気配だけが確実に濃くなっていった。
その日、俺は放課後にハルヴェイ商会へ顔を出していた。
ニカはすでに店先に立っている。
俺の横には、セシリアとローゼリアもいた。
別に商会の仕事を手伝うためではない。
ニカの様子を見るため。
そう言っていたけれど、最近の二人は何だかんだで俺たちと一緒にいることが多かった。
ハルヴェイ商会へ着くと、レインが奥から出てきた。
穏やかな笑みを浮かべたまま、まずセシリアとローゼリアへ視線を向ける。
「セシリア殿下、ローゼリア様。本日はご来店ありがとうございます」
そう言って、レインさんは丁寧に一礼した。
ジンベイザメの獣人らしい落ち着いた雰囲気と、商会の若旦那としての礼節が自然に同居している。
少し遅れて奥から出てきたコルバンも、いつもより表情を引き締めた。
「これはまた、ずいぶんな顔ぶれで。殿下、ローゼリア様、ご足労いただきありがとうございます」
普段は俺を嬢ちゃんと呼ぶコルバンも、さすがに王女と公爵令嬢を前にすれば礼を欠かない。
セシリアは静かに頷いた。
「今日は、アイリスたちの付き添いです。私たちのことは、どうかお気になさらず」
ローゼリアも軽く顎を引く。
「ええ。話の本筋は、アイリスとニカに任せるわ」
「承知しました」
レインはもう一度だけ静かに頭を下げ、それから俺たちへ向き直った。
セシリアとローゼリアが「友人として来ている」と示したことで、店内の空気も少しだけ柔らかくなる。
それでも、商会側が二人の立場を忘れることはない。
この世界では、身分というものは、ただそこにいるだけで意味を持つ。
「嬢ちゃん、こっちの棚を見てくれ」
コルバンに呼ばれて、俺は入口近くの棚へ向かった。
防水布、革紐、簡易の雨よけ外套。
その隣には、海獣油の小瓶が並んでいる。
油の匂いが強くなりすぎないよう、瓶の口はしっかり封がされていた。
海沿いの街から仕入れた防水布や海獣油は、思った以上に動いているらしい。
旅人、職人、荷運び、雨具を直したい客。
夏前の不安定な天候もあって、関連品の売れ行きは悪くなかった。
「旅用品との並びはいいと思います。ただ、夏向けというより雨向けに見えますね」
「雨向けじゃねえのか?」
「もちろん雨向けでもあります。でも、せっかく海沿いの品を扱うなら、夏に合わせた見せ方もできると思って」
「夏に合わせた見せ方、か」
コルバンは顎に手を当てる。
その横で、ニカが耳を動かした。
「夏って言ってもさ、暑いだけじゃない?」
「ニカは夏、どう過ごすの?」
「あたし? 涼しい場所探して、なるべく動かない。あと、金になる仕事があれば動く」
「それは季節関係ある?」
「暑いと荷運びの人手が減るから、ちょっと高くなる時あるよ」
やっぱり金の話になる。
俺は苦笑しつつ、少し考えた。
「セシリアとローゼリアは?」
俺が聞くと、セシリアは棚の品を眺めてから答える。
「夏は、できるだけ日差しを避けるわ。王都の貴族女性なら、昼間に外を歩くことはあまり好まないでしょうね」
「日焼けするから?」
「ええ。肌が焼けることを嫌う人は多いわ。汗もかきますし、長時間外にいるのは上品ではないと見る者もいます」
ローゼリアも頷いた。
「避暑地へ行く貴族もいるけれど、海へ行くというより、涼しい屋敷や湖畔で過ごすことが多いわね。海は漁師や船乗りの場所という印象が強いもの」
「海で遊んだりはしないの?」
俺がそう聞くと、三人の視線が一斉にこちらへ向いた。
ニカは首を傾げ、セシリアは眉を寄せ、ローゼリアは少し呆れたような顔をする。
「海で、遊ぶ?」
セシリアが言った。
「うん。泳いだり、波打ち際で遊んだり、砂浜で休んだり」
「……泳ぐために海へ行くの?」
「そう」
「漁でもなく?」
「うん」
「訓練でもなく?」
「遊びで」
沈黙が落ちた。
それだけで、この世界に海水浴という文化がないことが分かった。
コルバンが低く笑う。
「嬢ちゃん、海は遊び場じゃねえ。船を出す場所で、魚を獲る場所で、荷を運ぶ場所だ。浜辺で休むことはあっても、わざわざ水に入って遊ぶってのは聞かねえな」
レインもゆっくり頷いた。
「海沿いの子どもたちが水辺で遊ぶことはあるかもしれませんが、文化として整っているわけではないでしょうね。貴族や街の人々が楽しむものとしては、まず認識されていないと思います」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中で何かが噛み合った。
海はある。
防水布もある。
海獣油もある。
海沿いの街との商流もある。
なのに、水に入るための服がない。
海で遊ぶという文化がない。
着替える場所もない。
休む場所もない。
肌を守るものもない。
ないものだらけだ。
けれど、逆に言えば、そこにはまだ誰も手をつけていない。
「……これ、商機だ」
思わず呟いた。
ニカが反応する。
「金の匂い?」
「かなりする」
「おお」
ニカの目が少し輝いた。
俺は棚に並ぶ防水布を見ながら、頭の中で形を組み立てる。
「水に入るための専用衣服を作ります」
「専用衣服?」
ローゼリアが聞き返す。
「うん。濡れても重くなりにくくて、動きやすくて、肌を見せすぎない服。水着って呼べるもの」
「みずぎ……」
セシリアがその言葉を繰り返す。
初めて聞く単語を確かめるような声だった。
「でも、水着だけでは足りない。着替える場所が必要です。男性用と女性用を分けた脱衣所。休む場所も必要。日陰、飲み物、軽食、荷物を置く場所。海辺の休憩所も作る」
「待って」
セシリアが低い声で止めた。
「あなた、今どこまで考えているの?」
「海で遊べるようにするところまで」
「それが、おかしいと言っているの」
セシリアの声には驚きが混じっていた。
ローゼリアも真剣な顔で俺を見る。
「アイリス。水に入るための衣服を作るだけなら、まだ分かるわ。でも、着替え場所や休憩所まで同時に考えるのは、普通ではないわよ」
「でも、ないと困るでしょ?」
「困るから思いつく、という段階を越えているのよ」
言われて、少しだけ言葉に詰まった。
まずい。
また前世の感覚で話しすぎたかもしれない。
俺にとって海水浴は、海に入るだけの話じゃない。
水着があって、更衣室があって、休憩所があって、飲み物や軽食があって、日差し対策があって、荷物を置く場所がある。
そういうものがセットで存在していた。
でも、この世界では違う。
そもそも、海で遊ぶという発想がない。
レインの表情が変わっていた。
穏やかな顔のままだが、目だけが商人のものになっている。
商品を見る目ではない。
その先にある市場を見る目だ。
「アイリスさん」
「はい」
「これは、水着を売る話ではありません」
静かな声だった。
「人々の夏の過ごし方そのものを変える話です」
その言葉に、俺は黙った。
「海辺に人が集まれば、布が売れます。油が売れます。食べ物が売れます。荷物を運ぶ者、店を出す者、見張りをする者、掃除をする者が必要になる。海沿いの街の収入も変わるでしょう」
レインは続ける。
「貴族女性に広がれば、社交にも影響します。学院の生徒が関われば、依頼や実地訓練にも繋がる。港町、素材、職人、仕立て屋、商会、貴族。すべてに波及する可能性があります」
「……そこまで?」
俺が思わず聞くと、レインはまっすぐ俺を見た。
「はい。あなたが思っているより、大きな話です」
その場にいた全員の視線が、俺に集まっていた。
水着を思いついたからではない。
海で遊ぶという文化を、商品として組み立て始めたからだ。
俺は答えに迷う。
見えているわけじゃない。
前の世界で当たり前だったものを、この世界に置き換えているだけだ。
でも、それをそのまま言うことはできない。
「本で読んだことと、商会の流れを見て思いついただけです」
苦しい言い訳だった。
セシリアの目が少し細くなる。
ローゼリアも納得していない顔をしていた。
ニカだけが、半分呆れたように笑う。
「アイリスの本って、変なこと書いてあるんだね」
「そうかも」
「でも、金の匂いはする」
「それは間違いない」
コルバンが低く唸った。
「嬢ちゃん、面白え。だが、簡単じゃねえぞ。海辺に人を集めるなら、安全、風紀、着替え場所、事故、食い物、ゴミ、全部考えなきゃならねえ」
「はい」
「それでもやるのか?」
俺は防水布の棚を見る。
海獣油の小瓶を見る。
そして、まだ存在しない水着と、まだ誰も知らない夏の風景を思い浮かべる。
「やります。挑戦しないと始まらないです」
言葉は自然に出た。
「海を売るわけじゃありません。布を売るだけでもない。売るのは、海で過ごす時間です」
レインが静かに息を呑んだ。
セシリアは何も言わずに俺を見ている。
ローゼリアは小さく笑った。
「本当に、あなたは次から次へと妙なことを考えるわね」
「それは褒めてる?」
「半分はね」
「もう半分は?」
「呆れているわ」
ニカが笑った。
「でも、面白そうじゃん。海で遊ぶってやつ」
「うん。絶対楽しいよ」
俺はそう答えた。
商売になる。
文化になる。
でも、それだけではない。
たぶん、これは楽しい。
その感覚がなければ、きっと広がらない。
夏が近づいている。
この世界にはまだ、海で遊ぶ季節がない。
なら、作ればいい。
水着を作る。
着替える場所を作る。
休む場所を作る。
海で過ごす時間を作る。
俺が売ろうとしているのは、布ではなかった。
まだ誰も知らない、夏の過ごし方そのものだった。




