第七十話 白黒の海獣紋
第七十話 白黒の海獣紋
ニカがハルヴェイ商会で試用として働き始めてから、三日が過ぎた。
最初の一日は、本人もどこか落ち着かない様子だった。
店先に立つたびに耳が動き、客の視線が向くたびに笑ってごまかそうとする。
それでも、逃げることはなかった。
店に来る客の足取りを見る。
荷袋の擦れ具合を見る。
靴底の泥を見る。
匂いで湿った布や傷みかけた革紐を見つける。
それを店員に伝え、棚を直し、必要そうな客へ声をかける。
たったそれだけのことに見える。
けれど、ハルヴェイ商会の中では確かに意味があった。
「そこの人、たぶん雨具じゃなくて靴紐」
入口近くに立っていたニカが小声で言った。
「どうして?」
「あの歩き方。右足の紐、何回も直してる。雨具見てるのは、店員に声かけられるの待ってるだけ」
俺が視線を向けると、客の男は確かに右足を少し気にしていた。
店員が声をかける。
「靴紐でしたら、こちらに丈夫なものがあります」
男は驚いた顔をした後、すぐに頷いた。
靴紐を買い、ついでに安い防水布も一枚買っていく。
ニカは小さく口笛を吹いた。
「当たり」
「もう完全に仕事になってるね」
「そう言われると、なんかむずむずする」
「嫌?」
「嫌じゃない。変なだけ」
ニカは自分の手を見る。
まだ擦り傷の跡は残っていた。
けれど、新しい傷は増えていない。
それだけで、少しだけ胸の奥が軽くなる。
「ちゃんと働いて金もらうのって、変な感じ」
「今までも働いてたんでしょ?」
「働いてたよ。でも、危ないから高いとか、嫌なこと我慢するから金になるとか、そういう感じだったから」
ニカは少しだけ肩をすくめた。
「役に立ったから払うって言われるの、慣れない」
「慣れていけばいいよ」
「簡単に言うね」
「たぶん、簡単じゃないから言ってる」
「アイリスって、たまにずるい言い方する」
ニカはそう言って笑った。
その笑顔は、以前より少しだけ軽く見えた。
無理に軽くしているのではなく、本当に少しだけ息が抜けたような笑顔だった。
その日の午後、ハルヴェイ商会の裏口がいつもより騒がしくなった。
荷運びの男たちが木箱を運び込み、店員たちが順に中身を確認していく。
塩の匂い。
乾いた魚の匂い。
油と海藻の混じったような、独特の匂い。
内陸寄りのリズベルでは、あまり馴染みのない匂いだった。
ニカの耳がぴくりと動く。
「来たね」
「分かるの?」
「海の匂い、強いもん」
裏に回ると、レインとコルバンが木箱の確認をしていた。
木箱には焼き印が押されている。
白と黒を基調にした海獣の紋。
波を抱くような輪郭と、鋭い背びれを思わせる線。
それは商会の荷印にしては、妙に強い存在感があった。
ただの品質保証印。
そう聞いていたはずなのに、実物を見ると少し違って見える。
「こちらが例の荷です」
レインが言った。
「港町の仲介商を通して届きました。乾物、塩漬け魚、海獣油、防水布、貝殻細工、それから銛槍用の金属部品ですね」
コルバンが箱の側面を軽く叩く。
「品はいい。梱包も丁寧だ。荷崩れも少ねえ。確かに港で信用されてるだけはある」
「横流しも少ないんでしたよね」
「ああ。こういう印付きの荷は、途中で抜かれにくい。扱う側も面倒を避ける」
コルバンはそう言った。
商売人としての見方だ。
信用できる荷。
良い品。
横流しされにくい印。
けれど、ニカは木箱を見つめたまま黙っていた。
「ニカ?」
俺が声をかけると、ニカはようやく口を開いた。
「これ、オルティの紋じゃん」
「オルティ?」
俺が聞き返す。
レインも書類から顔を上げた。
「取引書には、港町の仲介商の名しかありません。オルティという名は、荷印の由来として少し聞いた程度です」
「商人にはそう見えるんだろうね」
ニカは木箱の焼き印を指でなぞる。
「でも、獣人の間じゃ、この紋は別の意味を持つ」
「別の意味?」
「手を出すな、って意味」
その言葉に、裏口の空気が少しだけ変わった。
ニカは軽く言おうとしたのだと思う。
けれど、声にはどこか硬さがあった。
「白黒の海獣紋。海側の獣人の中じゃ、それなりに有名。これがついてる荷に手を出すやつは、よっぽどの馬鹿か、何も知らないやつ」
「そんなに?」
「うん」
ニカは小さく頷く。
「ヴェスカ・オルティ」
名前が落ちた。
初めて聞く名だった。
けれど、その響きだけで、少し空気が締まるような気がした。
「海側の獣人の中じゃ、名前だけで荷を守る女だよ」
「名前だけで荷を守る……」
俺が呟くと、ニカは笑った。
「すごいでしょ。実際に本人がその辺を歩いてるわけじゃない。でも、この紋があるだけで、盗るのをやめるやつがいる」
「なぜですか?」
レインが静かに聞いた。
レイン自身もジンベイザメの獣人だ。
けれど、彼の表情には知らないことを恥じる様子はなかった。
商人として、必要な情報を聞いている顔だった。
ニカはレインを見て、少しだけ考える。
「レインさんは海系の獣人だけど、商会側の人でしょ?」
「ええ。私は街の商会で育ちました。海沿いの群れの事情には、疎い部分があります」
「なら、知らなくても変じゃないよ。商人には商人の情報の流れがあるし、獣人には獣人の噂の流れがあるから」
ニカは木箱を軽く叩いた。
「この紋は、商人には品質保証の印。でも獣人には、群れの紋に見える。こいつに手を出したら、後ろにいる群れを敵に回すって意味」
コルバンが目を細めた。
「なるほどな。俺らが見てたのは品の信用。獣人の間じゃ、荷の後ろにいる奴の信用ってわけか」
「そういうこと」
「で、そのヴェスカ・オルティってのは、そんなに強いのかい?」
ニカは少しだけ口角を上げた。
「強いって話しか聞かない」
「話しか?」
「あたしが直接見たわけじゃないからね。聞いた話。海の方の獣人は、群れとか縄張りとか、そういうのが陸より濃いんだって。ヴェスカはその中でも、白黒の海獣を背負った女。海獣油、塩漬け魚、防水布、銛槍部品。そういう海の荷の流れを守ってる」
「商人ではないのですね」
レインが言う。
ニカは頷いた。
「たぶん、表の商人じゃない。商人の後ろにいる名前」
その言い方が、妙に残った。
商人の後ろにいる名前。
取引書に出ない。
でも、荷を守る。
それは権力とも違う。
武力だけでもない。
信用、恐れ、群れ、秩序。
そういうものが合わさって、一つの紋になっている。
「獣人って、ただ弱い立場の人たちだけじゃないんだね」
俺が呟くと、ニカは少しだけ目を細めた。
「弱い獣人もいる。安く使われる獣人もいる。路地裏に沈む獣人もいる。でも、そうじゃない獣人もいる」
ニカは白黒の海獣紋を見る。
「名前に値段がついてる獣人もいるんだよ」
名前に値段がつく。
それは昨日までのニカの話と繋がっている気がした。
金がないと尊厳まで奪われる。
なら、名前に値段がついた獣人は、どこまで自分たちを守れるのだろう。
ヴェスカ・オルティ。
まだ姿も知らない。
でも、その名だけで荷が守られる。
それは一つの答えのようにも見えた。
「その紋が信用されているなら、売り方にも使えます」
俺は木箱の中身を見ながら言った。
「売り方?」
ニカが聞く。
俺は頷く。
「防水布は旅用品棚の近くに出しましょう。雨具や外套と一緒に見せた方がいい。海獣油は革製品や靴紐の補修品と近づける。塩漬け魚と乾物は旅の保存食として小分けにした方が売りやすいです」
レインがすぐにメモを取る。
コルバンも箱の中身を確認しながら頷いた。
「貝殻細工はどうする、嬢ちゃん」
「会計脇の小物棚ですね。高くしすぎず、手に取りやすい場所へ。珍しさでついで買いを狙えます」
「銛槍用の金属部品は?」
「普通の客向けじゃないですね。武具屋、漁師、警備隊、あとは工房向けに別で見せた方がいいと思います」
「なるほどな」
コルバンは低く唸る。
ニカは木箱の中から防水布を一枚持ち上げ、鼻を近づけた。
「これ、入口にちょっとだけ置いたら?」
「入口?」
「海の匂いって、好きな人は足止めるよ。旅人とか、港に行ったことある人とか。全部出したら匂い強すぎるけど、一枚か二枚なら目立つと思う」
コルバンがすぐに首を振りかける。
「匂いが強すぎると逆効果だ」
「だから、少しだけ」
「……少しだけなら試す価値はあるか」
コルバンは思案するように顎へ手を当てた。
「嬢ちゃん、入口の旅小物棚の端に置くか?」
「はい。ただし食品とは離してください。匂いが混ざるので」
「だな」
話が進む。
レインが穏やかに微笑んだ。
「ニカさんの意見も、商会に合っていますね」
「え、ほんと?」
「はい。匂いを客の足止めに使うという発想は、私たちだけでは出にくい」
「なんか褒められると変な感じ」
ニカはそう言って、少しだけ耳を揺らした。
仕事が進むにつれて、ニカの表情は変わっていった。
安く使われるための感覚ではない。
危ない仕事で生き残るための感覚でもない。
客を呼び、商品を守り、売上を作るための感覚。
同じ耳。
同じ鼻。
同じ足。
でも、使われ方が変わるだけで、意味が変わる。
俺はそれを目の前で見ていた。
その日の終わり、レインは小さな革袋をニカへ渡した。
「本日分の報酬です。試用日当と、補修紐の関連販売、それから湿気による損失を防いだ分の追加です」
「え、今日の分、もう?」
「はい。試用期間中は日ごとに渡しましょう。その方が分かりやすいでしょうから」
ニカは革袋を受け取った。
手の中で重さを確かめる。
その顔が、少しだけ止まった。
「これ、殴られずに稼いだ金なんだよね」
小さな声だった。
「うん」
俺は頷いた。
「怪我もしないで、頭も下げすぎずに、役に立った分のお金」
「変な感じ」
「嫌?」
「いや」
ニカは革袋を握りしめる。
それから、少しだけ笑った。
「悪くない」
その言葉だけで、十分だった。
レインは静かに微笑み、コルバンは鼻を鳴らした。
「働いた分だ。遠慮する必要はねえよ」
「うん」
「ただし、使い道は考えろ。金は持った瞬間から減るもんだ」
「番頭っぽいこと言う」
「番頭だからな」
ニカが笑う。
その笑顔は、昨日より少しだけ強かった。
帰り際、俺はもう一度、白黒の海獣紋を見た。
木箱の側面で、焼き印が夕方の光を受けている。
それは商人にとっては品質の印。
獣人にとっては、群れと力の印。
そして俺にとっては、この世界で獣人がどう生きているのかを知るための、新しい扉のように見えた。
ニカが横で呟く。
「名前だけで荷を守る獣人、か」
その声に、羨望だけではない何かが混じっていた。
怖さ。
憧れ。
現実。
たぶん、その全部だ。
俺はまだ、ヴェスカ・オルティを知らない。
けれど、その名前は白黒の紋と一緒に、確かに胸の奥へ残った。
いつか、この名の持ち主と会う日が来るのかもしれない。
そう思いながら、俺はハルヴェイ商会の裏口を後にした。




