第六十九話 選べる仕事
第六十九話 選べる仕事
ニカが危険な仕事を受けていたことが分かった翌日、彼女は少しだけ大人しかった。
もちろん、完全に静かになったわけじゃない。
朝の食堂ではいつも通り俺たちに手を振ったし、パンの値段に文句も言った。
セシリアに傷の具合を聞かれれば、「王女様の看病とか高そう」と茶化した。
ローゼリアに、許可のない仕事は禁止だと言われれば、「貴族のお説教は重いね」と笑った。
でも、その笑い方が少しだけ違った。
軽さはある。
けれど、昨日までのように全部を煙に巻くための笑顔ではなかった。
笑いながら、こちらの反応を見ている。
そんな顔だった。
「で、本当に商会行くの?」
昼休み、ニカが俺の隣でパンをちぎりながら聞いた。
「うん。今日はハルヴェイ商会に顔を出す日だからね」
「そこに、あたしも?」
「ニカが嫌じゃなければ」
「嫌っていうかさ」
ニカは少しだけ言葉を探すように視線を落とした。
「商会って、獣人が行って大丈夫なとこ?」
その声は、いつもの軽口とは違っていた。
俺はすぐに答えようとして、少しだけ止まる。
大丈夫。
そう簡単に言うのは、たぶん違う。
昨日、ニカは見せてくれた。
獣人が同じ廊下を歩くだけで、何を言われるのかを。
商会にいる客の中にも、同じような人間がいる可能性はある。
だから、ただ安心させるための言葉では足りない。
「嫌がる客はいるかもしれない」
俺がそう言うと、ニカは少しだけ目を瞬かせた。
「そこは綺麗ごと言わないんだ」
「言っても意味ないと思うから」
「そっか」
「でも、店側がどう扱うかで変わると思う。少なくとも、私はニカを安く使うために連れて行くわけじゃないよ」
「じゃあ何?」
「仕事を頼むため」
「仕事ねぇ」
ニカはパンを口に入れ、ゆっくり噛んだ。
迷っているのが分かった。
「荷運び?」
「違う」
「見張り?」
「それだけでもない」
「じゃあ、何するの?」
「人を見る仕事」
ニカの動きが止まった。
「人?」
「うん。店に来る客が何を見ているか。どこで足を止めるか。何を探しているか。何に困っているか。私と違う見方で拾ってほしい」
「それ、あたしにできる?」
「できると思う」
「なんで?」
「ニカは耳がいい。鼻もいい。足も速い。人と話すのも軽い。昨日言ってたでしょ。獣人は便利に使われるって」
ニカの表情が少しだけ硬くなる。
俺は続けた。
「でも、便利だから安く使うんじゃない。便利だから、ちゃんと値段をつける」
ニカはしばらく黙った。
それから、少しだけ笑う。
「アイリスって、たまに商人の顔するよね」
「商会手伝ってるからね」
「うわ、納得」
その横で、セシリアが静かに言った。
「私は同行しない方がいいでしょうね」
「え?」
俺が見ると、セシリアは当然のように続ける。
「私が一緒に行けば、話が王女の紹介になるわ。ニカの能力を見てもらう場に、余計な意味がつく」
ローゼリアも頷いた。
「私も同じね。ヴァルンハート家の令嬢が連れてきた獣人、という見え方になる」
「二人とも……」
「不満?」
セシリアが聞く。
俺は首を横に振った。
「ううん。たぶん、それがいい」
ニカは二人を見て、少しだけ肩をすくめた。
「王女様と公爵令嬢に気を遣われる獣人って、なかなかすごいね」
「友人に配慮しているだけよ」
セシリアが言うと、ニカは一瞬だけ言葉を止めた。
それから、照れ隠しのように笑った。
「はいはい。友達って面倒」
「昨日も聞いたわ」
「何回でも言うよ」
「好きにしなさい」
セシリアの声は冷たいようで、少しだけ柔らかかった。
放課後、俺とニカは学院を出て、リズベルの通りを歩いた。
ニカはまだ少し脇腹を庇っている。
それでも足取りは昨日より軽い。
表通りを歩きながら、ニカは周囲をきょろきょろ見ていた。
「こういう時間に商会行くんだ」
「うん。客の流れを見るには夕方前がちょうどいいから」
「へぇ」
「何か分かる?」
「んー」
ニカは耳をぴくりと動かした。
「食べ物屋の客は増えてる。鍛冶屋の方は今日は少なめ。あっちの角、革油の匂いが強い。雨具か靴の修理品でも入ったんじゃない?」
「分かるんだ」
「匂いでなんとなくね。あと、あの親子は旅用品見に行くと思う」
「どうして?」
「子どもの靴が新しい。親の荷袋が古い。たぶん近場じゃなくて少し遠出する。けど金持ちじゃないから、必要なものだけ買う感じ」
ニカは何でもないように言った。
俺は少し驚く。
ただ耳がいい、鼻がいいというだけではない。
見ている。
それも、俺とは違う角度で。
客の格好、匂い、歩き方、持ち物。
そこから目的を拾っている。
「やっぱり、向いてるよ」
「まだ何もしてないんだけど」
「今してた」
「今のも仕事に入る?」
「入るね」
「うわ、ほんとに商人だ」
ニカは笑った。
少しだけ嬉しそうに見えた。
ハルヴェイ商会へ着くと、レインが奥から出てきた。
穏やかな顔立ちに、海の深さを思わせる落ち着いた瞳。
大きく柔らかな雰囲気を持つジンベイザメの獣人である彼は、店主らしく静かに頭を下げた。
「アイリスさん。お待ちしていました」
「こんにちは、レインさん。今日は一人、紹介したい人がいます」
俺が横を見ると、ニカは軽く手を上げた。
「ニカ・ラーテラルです。よろしくお願いしまーす」
明るい声。
でも、ほんの少しだけ緊張が混じっていた。
ニカの視線が、レインの顔と、獣人としての特徴に一瞬だけ止まる。
「……店主さん、獣人なんだ」
「ええ。ジンベイザメの獣人です」
レインは穏やかに頷いた。
「ですから、少なくともこの店で、獣人であることを理由に軽く扱うことはありません」
その言葉に、ニカの耳がほんの少しだけ動いた。
レインは続ける。
「ただし、客のすべてがそうとは限りません。だからこそ、店としてどう扱うかを決めておく必要があります」
「……なるほどね」
ニカは小さく呟いた。
そこに、奥からコルバンが出てきた。
コバンザメの獣人である番頭は、俺とニカを見比べ、商売人らしく目を細める。
「嬢ちゃん。その子を、商会の仕事に加えるつもりか?」
「はい。荷運び要員ではありません。客の流れや店内の違和感を見てもらいたいんです」
「なるほどな。獣人の感覚を、商売に使うってわけか」
コルバンはすぐに否定しなかった。
ただ、帳簿を見る時と同じ目で、ニカを見ていた。
「能力として価値があるのは分かる。だが、店先に立つとなりゃ話は別だ。客の中には、獣人を快く思わねえ奴もいる」
「分かっています」
「坊っちゃんが店主である以上、この商会は獣人だからって人を軽く扱う店じゃねえ。そこは俺も譲る気はねえよ」
コルバンはそこで一度、ニカへ視線を向けた。
「だが商売は、客の目も相手にしなきゃならねえ。そこを忘れちゃいけねえ」
「だからこそです」
俺は頷いた。
「安く使うために呼んだわけではありません。能力を買うために呼びました」
「……なら、値段もきちんとつけるべきだな」
コルバンは短く息を吐いた。
「安値で使い潰すような真似は、坊っちゃんの商会の品位にも関わる」
ニカは何も言わなかった。
ただ、少しだけ目を伏せた。
獣人だから軽く扱わない。
能力を買う。
値段をつける。
その言葉が、彼女の中でどう響いているのかは分からなかった。
でも、いつものように茶化して逃げなかった。
それだけで、十分だった。
「では、実際に見てもらいましょう」
レインが言う。
俺は頷き、ニカを見る。
「まずは店内を見て。気になるところがあれば教えて」
「急に実戦じゃん」
「試用だからね」
「うわ、ちゃんとしてる」
ニカは軽く笑い、店内を見回した。
入口の旅小物棚。
会計脇の小物。
奥の衣類。
紐類と外套。
見切り棚。
ハルヴェイ商会は以前よりずっと整っている。
けれど、ニカはすぐに一つの棚の前で足を止めた。
「この辺、湿気くさい」
コルバンの眉が動く。
「湿気?」
「うん。布の匂いが重い。あと、革紐もちょっと湿ってる」
「昨日確認した時には問題なかったはずだがな」
「奥の壁側、風が抜けてないんじゃない? 表は平気だけど、下の段が怪しい」
レインがすぐに棚へ向かった。
コルバンも続く。
下段の布包みを開けると、確かに少しだけ湿り気があった。
傷んでいるほどではない。
けれど、このまま置けば数日で匂いが出るかもしれない。
「……これは」
コルバンの顔が変わる。
レインも驚いたようにニカを見た。
「よく気づきましたね」
「鼻にくるから。まだ売り物としては大丈夫だと思うけど、場所変えた方がいいかも」
ニカは軽く言った。
俺は頷く。
「入口側の風通しがいい場所へ移しましょう。あと、湿気に弱い品を下段に置きすぎない方がいいです」
「すぐに移します」
レインが店員へ指示を出す。
ニカは少しだけ目を丸くしていた。
本当に自分の言葉で店が動くとは思っていなかったのかもしれない。
「ニカ、他には?」
「え、まだやるの?」
「仕事だから」
「はいはい」
ニカは店の入口近くに立ち、客の流れを見る。
ちょうど中年の男が入ってきた。
旅用品の棚を見ているが、手に取るものが定まらない。
ニカは小声で言った。
「あの人、紐か留め具探してる」
「どうして?」
「荷袋の結び目が二重になってる。たぶん留め具が壊れて応急処置してる。旅用品見てるけど、本当に欲しいのは修理用の紐か金具」
俺はレインを見る。
レインは頷き、店員へ視線で合図した。
店員が男へ声をかける。
「荷袋の補修でしたら、こちらに紐と留め具がございます」
男は驚いた顔をしたあと、店員についていった。
しばらくして、補修紐と小さな金具を購入する。
ついでに、安い雨よけ布も一枚買っていった。
ニカはそれを見て、小さく口笛を吹く。
「おー、買った」
「ニカが拾った需要だよ」
「今の、あたしの仕事?」
「そうだよ」
ニカは少しだけ黙った。
その顔に、照れとも困惑ともつかないものが浮かぶ。
レインは帳簿係に小さく指示を出し、それから戻ってきた。
「これは、確かに助かります」
コルバンも難しい顔をしたまま頷いた。
「単なる荷運びとは違うな。客の状態や品の劣化を早く拾えるなら、店には大きい」
「では、試用でお願いできますか?」
俺が聞くと、レインはすぐに頷いた。
「もちろんです。報酬については、アイリスさんの案を聞かせてください」
ここが大事だった。
俺はニカを見る。
「ニカ、希望は?」
「え、あたし?」
「うん。仕事をする本人だから」
「んー……荷運びの半分くらい?」
「だめ」
即答した。
ニカが目を丸くする。
「なんで?」
「それはニカが自分の価値を安く見てる」
「いや、でも最初だし」
「最初だから、ちゃんと決める」
俺はレインとコルバンへ向き直る。
「試用期間として、まずは日当を設定してください。荷運びより上。危険手当ではなく、観察と接客補助の能力給として」
「能力給……」
ニカが小さく呟く。
俺は続けた。
「成果が出た場合は追加報酬も入れたいです。例えば、ニカが気づいた劣化防止や関連販売で利益が出た場合、その一部を上乗せする形です」
レインは少し考え、頷いた。
「妥当です。むしろ、継続的に働いてもらえるなら安いくらいかもしれません」
「安くしない方向でお願いします」
「分かりました」
コルバンが帳簿を開きながら言う。
「なら、試用日当は通常荷運びの一・五倍。成果に応じて追加報酬。まずは七日間、様子を見るって形でどうだ」
ニカが固まった。
「一・五倍?」
「少ないか?」
コルバンが真面目に聞く。
ニカは慌てて首を振った。
「いや、多い。え、そんなもらっていいの?」
「働きに見合えばな」
コルバンは硬い声で答えた。
「うちは慈善事業じゃねえ。役に立たなきゃ継続はなしだ」
「それは分かりやすいね」
ニカは少しだけ笑った。
その笑顔は、昨日の廊下で見せたものとは違った。
「でも、役に立ったら?」
「払う」
コルバンが短く言う。
ニカは俺を見る。
「変なの。獣人の鼻が役に立つって言われたことはあるけど、ちゃんと値段つけるって言われたの、初めてかも」
「これからは、ちゃんと値段をつける」
「うわ、強気」
「安売り禁止」
「商人っぽい」
「そうかもね」
ニカは笑った。
軽い笑いだった。
でも、その奥に少しだけ力が戻っているように見えた。
その後、ニカは店内を一通り見て回った。
客の流れ。
匂いの淀む場所。
棚の高さ。
子ども連れの客が立ち止まりやすい場所。
買わずに出ていく客の動き。
俺とは違う見方で、いくつも小さな違和感を拾っていく。
レインはそれを丁寧にメモした。
コルバンも最初の硬さは残しつつ、途中から明らかに見る目を変えていた。
ニカはそれに気づいているのか、少しだけ落ち着かない顔をしていた。
正当に見られることに慣れていない。
そういう顔だった。
仕事の話が一段落した頃、裏口から荷運びの者が顔を出した。
「若旦那、次の仕入れの件で確認が」
「分かりました」
レインが書類を受け取る。
俺も横から見せてもらう。
そこには、海沿いの街から届く品の一覧が書かれていた。
乾物。
塩漬け魚。
海獣油。
防水布。
貝殻細工。
銛槍用の金属部品。
これまでのハルヴェイ商会ではあまり扱ってこなかった品が並んでいる。
「海沿いの品ですか?」
「ええ。港町の仲介商を通して、新しく試す予定です。旅用品との相性も良いかと思いまして」
「いいですね。防水布や海獣油は、旅人にも職人にも売れそうです」
俺が頷くと、レインは書類の端を指で示した。
「箱には白黒の海獣紋が入っているそうです。港では、品質の保証印として扱われていると聞いています」
その瞬間、ニカの表情が変わった。
ほんのわずかに。
けれど、はっきり分かった。
「白黒の海獣紋?」
声が、いつもより少し低かった。
「知ってるの?」
俺が聞くと、ニカは少しだけ口を閉じた。
さっきまでの軽さが、ふっと薄れる。
店の音が少し遠くなった気がした。
レインも不思議そうに書類を見る。
「ニカさんは、この紋に心当たりが?」
「心当たりっていうか……」
ニカは少し迷ったあと、肩をすくめた。
「獣人なら、名前くらいは聞いたことあるよ」
「名前?」
コルバンが目を細める。
「俺らが聞いてるのは、荷印としての話だ。品が良くて、横流しが少ねえ。そういう信用の印だってな」
「商人にはそう見えるんだろうね」
ニカは書類に描かれた小さな紋を見つめた。
「でも、獣人の間じゃちょっと違う」
「違うって?」
俺が聞くと、ニカはすぐには答えなかった。
それから、いつものように笑おうとして、少しだけ失敗した顔をした。
「それは、荷が来てから話す」
「今じゃだめ?」
「今話すと、あたしが知ったかぶりしてるみたいになるじゃん」
「ニカならしそうだけど」
「ひど。信用ない」
いつもの軽口に戻った。
でも、完全には戻りきっていなかった。
ニカの目は、店の中ではなく、どこか遠くを見ているようだった。
路地裏ではない。
学院でもない。
もっと広く、もっと冷たい水の匂いがする場所。
俺にはまだ知らない、獣人たちの別の世界。
白黒の海獣紋。
それは商人にとっては品質保証の印。
けれど、ニカにとってはそれだけではないらしい。
その紋の向こうに、何かがある。
そう感じた。
ニカは書類から目を離し、軽く肩を回した。
「ま、とりあえず今日のところは、あたしの能力給が決まったってことで」
「うん。七日間の試用ね」
「七日で店の鼻になる女、ニカ・ラーテラル」
「自分で言うと安っぽい」
「えー、かっこよくない?」
「微妙」
俺がそう言うと、ニカは笑った。
今度の笑顔は、少しだけいつものものに近かった。
けれど、その奥に残ったものを俺は見逃せなかった。
ニカの力に値段がついた。
危険だから高い仕事ではなく、役に立つから高い仕事。
それは、ほんの小さな一歩だ。
でも、昨日までのニカにはなかった選択肢だった。
そして、その選択肢の先に、白黒の海獣紋がある。
俺はまだ、それが何を意味するのか知らない。
ただ、この世界の獣人たちは、俺が思っていたよりずっと広い場所に繋がっているのだと感じた。
路地裏に沈む者がいる。
安く使われる者がいる。
そして、海の向こうには、名前だけで荷を守る誰かがいる。
俺はその誰かの名を、まだ知らなかった。




