第六十八話 獣の値段
第六十八話 獣の値段
翌朝、ニカはいつも通り笑っていた。
食堂で見かけた時も、何事もなかったように手を振ってきた。
「おはよ、みんな」
声は軽い。
表情も明るい。
頬の赤い筋は、昨日より少し薄くなっていた。
制服の袖もきちんと整えられている。
けれど、完全には隠せていなかった。
椅子に座る時、ほんの少しだけ動きが遅い。
パンを取る手に、わずかな迷いがある。
右肩を大きく動かさないようにしている。
俺はそれを見て、昨日の夜の言葉を思い出した。
今度は、見送るだけでは終わらせない。
「ニカ」
「ん?」
「昨日の話、聞くからね」
ニカはパンをかじりかけたまま、目を瞬かせた。
それから、へらっと笑う。
「あー、昨日の話って何だっけ?」
「金の匂いがする用事」
「記憶力いいね、アイリス」
「都合よく忘れないで」
隣でセシリアも静かに頷く。
「昨日言ったでしょう。今日は話を聞くと」
「王女様も記憶力いい」
「茶化しても無駄よ」
ローゼリアは腕を組んだままニカを見る。
「あなた、昨日より顔色が悪いわ」
「え、そう? 照明のせいじゃない?」
「食堂の照明は昨日と同じよ」
「細かいなぁ」
ニカは笑っている。
でも、いつもより言葉の返しが少しだけ遅かった。
俺たちが見ていることに、ニカ自身も気づいている。
それでも、笑って押し切ろうとしているのが分かった。
「今日の授業が終わったら、話して」
俺が言うと、ニカは少しだけ視線を逸らした。
「そんな大げさな話じゃないって」
「それを決めるのは、聞いてからにする」
「アイリス、地味に頑固だよね」
「たぶんね」
「そこは否定してよ」
ニカは笑った。
けれど、その笑顔の奥に、少しだけ困ったような色が混じった。
授業は普通に進んだ。
少なくとも、表面上は。
イザベラの講義はいつも通り厳しく、契約者としての身体管理、魔力消耗、戦場での判断について話があった。
俺は板書を取りながら、時々ニカの方を見る。
ニカはちゃんと座っていた。
手も動いている。
けれど、何度か瞬きが遅れた。
眠いのではない。
疲労が抜けていないのだと思った。
昼前の実技補助訓練では、それがさらに目立った。
簡単な反応訓練。
左右から投げられる布球を避け、指定位置へ移動するだけの内容だ。
いつものニカなら、誰よりも軽く動く。
ラーテルの獣人らしい反応の速さと、低く鋭い踏み込み。
そこにバンデットの一部憑依を少し乗せれば、多少の衝撃にも怯まない。
けれど今日のニカは、半歩遅かった。
避けきれないわけではない。
だが、避けた後の戻りが遅い。
脇腹を庇うような動きが、一度だけ見えた。
「ニカ」
俺が声をかけると、ニカは汗を拭いながら振り返る。
「なに?」
「休んだ方がいい」
「やだ」
即答だった。
「やだって」
「これくらいで休んだら、余計目立つじゃん」
「もう目立ってる」
「ひど」
「本当のこと」
ニカは少しだけ唇を尖らせた。
そこへイザベラの声が飛ぶ。
「ニカ・ラーテラル」
「はいはい」
「返事は一度でいい。動きが鈍い。体調不良なら申告しろ」
「大丈夫です」
ニカはすぐに答えた。
イザベラはしばらくニカを見る。
その視線は、誤魔化しを許さないものだった。
「大丈夫かどうかを決めるのは、お前の感覚だけではない」
「……はい」
「午後、同じ状態なら訓練を外す」
「えー」
「返事」
「はい」
ニカは渋々頷いた。
それでも、午後まで休むとは言わなかった。
昼休みの後、ニカは一人で校舎の廊下を歩いていた。
俺たちは少し離れた場所にいた。
セシリアが教員室へ書類を届けると言い、ローゼリアがそれについていき、俺も一緒に移動していたからだ。
ちょうど階段を降りたところで、廊下の向こうにニカの背中が見えた。
いつもなら、すぐにこちらへ手を振る。
けれど、その時のニカは気づいていなかった。
歩幅が小さい。
肩が落ちている。
そして、次の瞬間。
ニカの足が、ふらりと崩れた。
「ニカ!」
俺が声を上げるより早く、ニカの身体は前へ傾いた。
その先には、数人の上級生らしい貴族生徒が歩いていた。
上質な制服。
整えられた髪。
周囲の生徒が自然に道を開けるような空気。
ニカは踏みとどまろうとした。
だが、足が滑る。
そのまま、先頭にいた男子生徒の腕へ倒れ込むようにぶつかった。
「っ……!」
ニカはすぐに身を引こうとした。
けれど、相手の男子生徒は顔を歪めた。
「触るな」
冷たい声だった。
周囲の空気が凍る。
男子生徒は、自分の袖を見下ろす。
まるで汚れでもついたかのように。
「獣人の毛がついた」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。
ニカは一瞬だけ固まる。
それから、いつものように笑おうとした。
「あー、ごめんなさい。ちょっと足元ふらついちゃって」
「足元?」
男子生徒はニカを見下ろした。
その目には、はっきりと嫌悪があった。
「廊下で獣がふらつくな。邪魔だ」
俺は足を踏み出しかけた。
セシリアの顔も冷たくなっている。
ローゼリアはすでに眉を吊り上げていた。
けれど、ニカがこちらに気づいた。
ほんの一瞬だけ、目が合う。
その目が言っていた。
来ないで。
俺の足が止まる。
ニカは笑ったまま、頭を下げた。
「すみませんでした。気をつけます」
「謝るなら、もっと下げろ」
男子生徒の後ろにいた女子生徒が鼻で笑った。
「耳だけじゃなくて、頭も下げられるでしょう?」
周囲に小さな笑いが漏れる。
ニカの耳が、ほんの少しだけ伏せた。
けれど、顔は笑っている。
「はいはい、ほんとすみません」
「はいはい?」
男子生徒の声が低くなる。
「その口の利き方は何だ」
ニカの笑みが固まった。
男子生徒は一歩近づく。
「学院も変わったものだな。獣人が人と同じ廊下を歩けると思い上がる」
その言葉で、俺の中の何かが切れかけた。
手が震える。
怒りで。
前へ出ようとした瞬間、ニカが小さく首を振った。
やめて。
声には出さない。
でも、確かにそう言っていた。
「……申し訳ありません」
ニカはもう一度頭を下げた。
男子生徒は袖を払う。
「二度と近づくな。獣人の匂いは不快だ」
静寂が落ちた。
周囲にいた生徒たちの何人かが目を逸らす。
見ていた。
聞いていた。
でも、誰も何も言わない。
言えないのか。
言わないのか。
分からない。
ただ、ニカだけがその場で笑っていた。
「気をつけまーす」
いつもの調子に似せた声だった。
けれど、まったく同じではなかった。
貴族生徒たちはニカの横を通り過ぎていく。
すれ違いざま、先頭の男子生徒が小さく呟いた。
「獣は獣らしく、端を歩け」
その背中が遠ざかる。
俺はもう我慢できなかった。
ニカのもとへ駆け寄る。
「ニカ」
「やー、やらかしたね」
ニカは笑っていた。
軽く。
明るく。
何でもないみたいに。
「今の、何」
「見たまんま。ぶつかった」
「そうじゃない」
「アイリス」
ニカの声が、少しだけ低くなった。
「怒んないで」
「怒るよ」
「怒らないで」
今度は、はっきり言った。
ニカの目が俺を見る。
その目は、笑っていなかった。
「今あんたが怒ったら、あたしは“竜殺しと王女様に守られてる獣人”になる」
「それの何が悪いの?」
「悪いよ」
ニカは即答した。
「次から仕事が来なくなる。安い仕事すらね」
「仕事?」
セシリアが近づいてくる。
声は冷たく、けれど抑えられていた。
「ニカ、あなた昨日の夜、何をしていたの」
「……ちょっとした荷運び」
「学院の許可は?」
ニカは答えない。
それが答えだった。
ローゼリアが一歩前へ出る。
「許可のない仕事を受けたの?」
「怒られるのは分かってる」
「ならどうして」
「金になるから」
ニカの声は軽くなかった。
たった一言。
それだけで、昨日まで彼女が笑ってごまかしていたものが、少しだけ形を持った気がした。
「金なら、危ない仕事をしなくても――」
「しなくても?」
ニカが俺を見る。
その顔には、さっきまでの笑顔がなかった。
「アイリス、それは選べる人の言葉だよ」
胸に刺さる。
俺は何も言えなかった。
ニカは小さく息を吐く。
「あたしはね、金が欲しいの。欲しいっていうか、いるの」
「だからって、怪我してまで」
「怪我くらいで済むなら安い方」
「安いって……」
「安いんだよ」
ニカの声が少しだけ荒くなった。
でも、すぐに抑えた。
廊下にはまだ人がいる。
視線もある。
ニカはそれを分かっていた。
「場所変えよ。ここで話すと、また見世物になる」
その言葉に、誰も反論できなかった。
俺たちは校舎の裏手にある小さな中庭へ移動した。
人通りが少なく、石のベンチが一つある場所だ。
ニカはそこに腰を下ろす。
ようやく力が抜けたのか、少しだけ顔をしかめた。
「ほら、やっぱり痛いんじゃない」
ローゼリアが言うと、ニカは苦笑した。
「まあ、ちょっとね」
セシリアが静かに言った。
「傷を見せなさい」
「やっぱり?」
「当然よ」
ニカは少し抵抗しようとしたが、セシリアの目を見て諦めた。
袖をめくる。
そこには青あざと擦り傷があった。
脇腹にも、おそらく打撲がある。
大怪我ではない。
けれど、放っておいていいものでもない。
セシリアの顔が険しくなる。
「こんな状態で授業を受けていたの?」
「受けられる程度だったし」
「そういう問題ではないわ」
「うん。そう言うと思った」
ニカは少しだけ笑った。
その笑みは、いつもより弱かった。
「ニカ」
俺はゆっくり口を開く。
「ちゃんと話して。何をしてたのか。なんでそこまで金がいるのか」
ニカはしばらく黙っていた。
風が中庭の草を揺らす。
遠くから、生徒たちの声が聞こえる。
楽しそうな声だった。
その明るさが、今は少し遠い。
「別に、すごい話じゃないよ」
ニカは言った。
「獣人ってさ、便利なんだよ」
「便利?」
「耳がいいやつ、鼻がいいやつ、足が速いやつ、力が強いやつ。人間より使える部分がある。だから仕事はある」
ニカは自分の手を見る。
「でも、便利ってことは、安く使われるってことでもあるんだよね」
誰も口を挟まなかった。
ニカは続ける。
「荷運び、見張り、夜道の先導、危ない場所の確認、匂いを追う仕事。表の仕事もあるけど、裏っぽいのもある。ちゃんとした店ならまだいい。でも、獣人相手だと、安く買い叩いてもいいって思うやつは多い」
「そんなの、おかしい」
ローゼリアが言う。
ニカは肩をすくめた。
「おかしくても、金がなかったら断れないんだよ」
「でも、学院にいるなら――」
「学院にいるからって、全部消えるわけじゃない」
ニカの声は静かだった。
「学費や最低限の生活はどうにかなる。でも、細かい金はいる。服、道具、食事、怪我した時の薬。あと、家に送る分とかね」
「家に?」
「まあ、いろいろ」
そこは濁した。
けれど、それ以上踏み込まない方がいい気がした。
今は、ニカが話そうとしていることを聞くべきだ。
「金がないと、選べない。断れない。嫌なこと言われても笑うしかない。怒ったら次がなくなる。次がなくなったら、もっと安い仕事に行くしかない」
ニカは自分の耳に触れた。
「さっきのもそう。アイリスが怒ってくれたら、たぶん気持ちはすっきりしたと思う。でも、明日には噂になる。竜殺しと王女様に守られてる獣人。面倒な獣人。使いづらい獣人。そうなったら、仕事が減る」
「そんな理由で、あんなことを言われても黙るの?」
俺の声は震えていた。
ニカは俺を見る。
「黙るよ」
即答だった。
「飯食うためなら、黙る」
その言葉は、重かった。
俺は自分が何も知らなかったことを思い知る。
金がある方がいい。
蓄えは必要。
商会で利益を出す。
俺はそう考えていた。
でもニカにとって金は、便利な道具ではない。
尊厳を安く売られないための、最低限の壁だった。
「もちろん、あたしだって腹立つよ」
ニカは笑った。
今度の笑みは、少しだけ苦かった。
「ぶん殴れたら楽だろうね。でも殴ったら、あたしが悪いことになる。獣人はやっぱり乱暴だって言われる。だから笑うんだよ。笑って、下げる。頭でも耳でも、なんでもね」
「ニカ……」
「そんな顔しないでよ」
ニカは困ったように言った。
「あたしは別に、自分が一番不幸だなんて思ってない。学院にいるし、飯も食えてる。あたしなんて、まだマシな方だよ」
「まだ?」
セシリアが静かに聞く。
ニカは少しだけ視線を落とした。
「スラムとか、路地裏の方にはさ。もっと選べない獣人がいるって聞くよ」
声が少し低くなる。
「表の仕事に入れなくて、裏の使い走りとか、危ない荷運びとか、汚れ仕事に流れるやつ。耳がいいから見張りに使われる。足が速いから逃げ役にされる。力があるから脅しに使われる。そうやって便利に使われて、抜けられなくなる」
ニカは一度言葉を切った。
「白い耳の兄妹がいたって話も聞いたことある」
俺は顔を上げた。
「兄妹?」
「うん。兄の方は、妹を守るためにどんどん汚い仕事に踏み込んでいったらしい。妹の方も、守られて泣いてるだけの子じゃなかったってさ」
「その二人は、今どうしてるの?」
ニカは少しだけ目を逸らした。
「知らない。スラムの話って、大体そこで終わるんだよ」
その一言で、胸の奥が冷えた。
物語として終わらない。
救われたかどうかも分からない。
ただ、誰かの噂として消えていく。
そんな人たちが、この世界にはいる。
「まあ、聞いた話だけどね」
ニカはそう言って、軽く笑った。
軽くしようとしていた。
でも、もう軽くは聞こえなかった。
「だから、あたしは金が欲しい」
ニカは言った。
「金があれば、少しは選べる。嫌な仕事を断れる。薬も買える。服も買える。頭を下げる回数も少しは減る。尊厳ってさ、気持ちだけじゃ守れないんだよ」
俺はその言葉を、ゆっくり受け止めた。
尊厳は、気持ちだけでは守れない。
金がいる。
場所がいる。
選択肢がいる。
それを今、ニカが教えてくれている。
「ニカ」
「なに?」
「一つ提案がある」
ニカが少し警戒した顔をした。
「同情ならいらないよ」
「同情じゃない」
俺ははっきり言った。
「一緒に、ハルヴェイ商会を手伝わない?」
ニカの目が瞬いた。
セシリアとローゼリアも俺を見る。
「商会?」
「うん。私は今、ハルヴェイ商会の立て直しに関わってる。人手も欲しい。現場を見る目も欲しい。ニカの足と耳と鼻と、人と話す軽さは、商売で使える」
「使えるって」
「いい意味で」
「それ、仕事?」
「仕事」
俺は頷いた。
「報酬も払う。友達だからじゃない。ニカの能力に対して払う」
ニカは黙った。
俺は続ける。
「危ない仕事をするなって言うだけじゃ、たぶん意味がない。金が必要なのは分かった。だから、別の稼ぎ方を作る」
「……雇用?」
「そう」
「友達価格?」
「むしろ能力給」
ニカは少しだけ口を開けた。
それから、ふっと笑った。
「うわ、ちょっと嬉しいじゃん」
「受ける?」
「即答はしない」
「うん」
「でも、考える」
その返事で十分だった。
セシリアが静かに息を吐く。
「まずは傷の手当てが先よ」
「やっぱそこ戻る?」
「当然でしょう」
ローゼリアも頷いた。
「それと、許可のない危険な仕事は禁止」
「うわ、貴族と王女に囲まれると逃げ場ないね」
「逃がすつもりはないわ」
セシリアがきっぱり言う。
ニカは困ったように笑った。
その笑顔は、まだ完全には晴れていない。
けれど、さっき廊下で頭を下げていた時の笑顔とは違っていた。
少なくとも、俺にはそう見えた。
その日、ニカはようやく傷を見せ、最低限の手当てを受けることになった。
危ない仕事の詳細まではまだ話さなかった。
でも、少しだけ扉は開いた。
金がないと尊厳まで奪われる。
その現実を、俺は初めて正面から見た。
そして、ただ怒るだけでは何も変わらないことも知った。
怒りはある。
けれど、それだけではニカを守れない。
必要なのは、別の道だ。
選べる場所だ。
断れるだけの金だ。
俺は中庭の石畳を見下ろしながら、静かに息を吐いた。
この世界で自由に生きるには、剣だけでは足りない。
魔法だけでも足りない。
尊厳を守るための仕組みがいる。
たぶん、俺が作らなければならないものは、思っていたよりずっと多い。




