第六十五話 届かない手
第六十五話 届かない手
再訓練は、二日後に行われることになった。
その間、俺の頭の中には、ずっとエイフィズの言葉が残っていた。
「君は、できないって言いながら動く」
あの声が、何度も胸の奥で引っかかる。
俺は魔法を使えない。
魔力圧も扱えない。
ラグナもルナも顕現できない。
それは事実だ。
それなのに、俺は動いている。
考えて、見て、指示して、失敗して、それでも次を探している。
それが悪いとは思わない。
でも、それを見ることで余計に傷つく人間がいる。
そのことを、俺はうまく受け止めきれずにいた。
「アイリス、また考え込んでる」
昼休み、ニカがパンをかじりながら言った。
「分かる?」
「分かる。眉間が仕事してる」
「なにそれ」
「難しい顔ってこと」
ニカは軽く笑ったが、その目は思ったより真面目だった。
右肩には、前回の訓練で木剣を受けた名残がまだある。
本人は大丈夫だと言っていたが、動かす時に少しだけ顔をしかめることがある。
「肩、本当に大丈夫?」
「平気平気。これくらいなら、路地裏で転んだ時の方が痛いし」
「それはそれで心配なんだけど」
「細かいこと気にしない」
ニカは笑って流そうとする。
でも、すぐに少しだけ声を落とした。
「で、エイフィズのこと?」
「うん」
「アイリス、助けようとしすぎなんじゃない?」
刺さる言葉だった。
俺はすぐには答えられなかった。
ニカはパンの残りを飲み込み、椅子の背にもたれる。
「いや、悪い意味じゃなくてさ。アイリスって、見えたら動くじゃん。困ってる人とか、危ない場所とか、崩れそうな流れとか」
「それは、動けるなら動いた方がいいと思うから」
「うん。それはいいんだけど、エイフィズにはたぶん、アイリスの手がまぶしいんだよ」
「まぶしい?」
「うん。助けられてるってより、照らされてる感じ。自分が動けてないところまで、はっきり見えちゃうんじゃない?」
ニカの言葉に、俺は黙った。
彼女は軽い。
普段は明るくて、金にうるさくて、変なところで調子がいい。
でも、人の痛みに対して妙に鋭い時がある。
「じゃあ、どうしたらいいと思う?」
「知らない」
「知らないんだ」
「だって、あたしエイフィズじゃないし」
ニカは肩をすくめた。
「でも、手を引っ張るんじゃなくて、歩ける場所を空けておくくらいでいいんじゃない?」
歩ける場所を空けておく。
その言葉は、少しだけ胸に残った。
助ける。
守る。
引っ張る。
そういう言葉よりも、ずっと今のエイフィズには合っている気がした。
午後の再訓練まで、班内で改めて話し合う時間が設けられた。
場所は演習場の端。
前回と同じ班。
俺、ニカ、エイフィズ、クラウス、ミーナ。
空気は相変わらず悪い。
クラウスは腕を組んでいる。
ミーナは前回より少し緊張している。
エイフィズは距離を取って立っていた。
俺は、前回のようにすぐ役割を言わなかった。
まず、全員を見た。
「前回、私は指示を出しすぎた」
クラウスが眉を上げる。
「ようやく分かったのか」
「うん。だから今回は、最初から全部を決めすぎない」
「作戦なしで行くつもりか?」
「違う。大枠だけ決める」
俺は演習場の配置を見た。
前回と似ているが、障害物の位置が少し変わっている。
細い通路が増え、横道も一つ多い。
敵役の位置も変わるだろう。
同じ失敗をさせないためだ。
「クラウスは前に出る。ただし、護衛対象から離れすぎないで。敵役を倒すんじゃなくて、正面を押し返す役」
「命令か?」
「お願い。というより、成功するために必要な役割」
クラウスは不満そうだったが、何も言わなかった。
俺は続ける。
「ニカは左右の確認と、抜け道の確保。前回みたいに全部を補おうとしないで。肩もあるし」
「うわ、心配された」
「心配するよ」
「はーい」
「ミーナは足元の水を広げすぎないで、一点だけ濡らす。敵役の踏み込みをずらすくらいでいい」
「分かりました」
そこで俺は、エイフィズを見た。
彼の表情が少し硬くなる。
俺は名前を呼ばなかった。
ただ、護衛対象の横に視線を落とし、演習場の細い通路を見る。
「今回は、護衛対象の周囲に隙間を作らないことを優先する」
エイフィズは黙っている。
俺も、それ以上言わなかった。
そこに立て。
ここを見ろ。
動いて。
そういう言葉を、今回は飲み込んだ。
必要なら言う。
でも、最初から手を引くことはしない。
エイフィズが自分で見て、自分で動ける余白を残す。
それが正しいかは分からない。
でも、前回と同じことをしても、同じ傷を増やすだけだと思った。
「なんか、前より静かだね」
ニカが俺を見て言った。
「ちょっと考えた」
「へぇ。眉間の成果出たじゃん」
「まあね」
「アハハ」
開始の合図が鳴った。
俺たちは台車を押し、演習場へ入る。
前回と同じ護衛移動訓練。
けれど、空気は少し違う。
俺の中で、何かを変えようとしている。
それが成功するかは、まだ分からない。
「始め」
イザベラの声が響く。
最初の敵役は正面から二人。
クラウスが前へ出る。
前回より半歩だけ近い。
護衛対象との距離を残している。
それだけでも少し違った。
「ミーナ、右足元」
「はい!」
ミーナが水を広げる。
前回より狭い。
敵役の踏み込みの場所だけを濡らし、滑らせる。
クラウスの木剣が敵役を押し返した。
倒したわけではない。
でも、進路は作れた。
「ニカ、左の箱裏」
「見てる!」
ニカが低く走る。
敵役が潜んでいないか確認し、そのまま戻る。
前回のように全部を補おうとはしていない。
肩のこともある。
それでも十分に速い。
俺は護衛対象の横で、全体を見る。
エイフィズは反対側にいた。
木剣を握っている。
顔は硬い。
でも、前回より周囲を見ているように見えた。
序盤は、前回よりも順調だった。
クラウスが前へ出すぎない。
ミーナが水を細く使う。
ニカが無駄に走りすぎない。
俺は指示を絞る。
それだけで、班は少しだけ前へ進める。
ただ、全員が噛み合っているわけではない。
クラウスは時々、敵役を倒そうとして前に出たがる。
ミーナは周囲の圧に飲まれると、杖を持つ手が震える。
エイフィズは、敵役が近づくたびに動きが鈍る。
それでも、前回よりは止まっていない。
中盤の細い通路に入った。
前回、最も崩れた場所だ。
台車がぎりぎり通れる幅。
右に低い壁。
左に木箱。
前方に敵役が一人。
後方はまだ静か。
俺は深く息を吸った。
「ここは急がない。護衛対象を中央に。クラウスは前を押しすぎない。ニカは左の箱裏だけ確認。ミーナは水を使わず待機」
「水、使わないんですか?」
「通路が狭い。滑るとこっちも崩れる」
「分かりました」
台車がゆっくり進む。
前方の敵役が仕掛けてくる。
クラウスが受ける。
火を帯びた木剣が敵役の木剣と打ち合う。
俺は前を見ながら、後方も意識する。
来るなら、そろそろだ。
前回、後方から入られた。
今回は同じ場所とは限らない。
右か。
左か。
それとも上級生なら、こちらの警戒を読んで正面から崩すか。
その瞬間、ニカの耳が動いた。
「後ろ、左!」
敵役が左後方の木箱の陰から飛び出した。
狙いは台車の後輪。
前回と似ている。
だが、少し違う。
今、ニカは左前にいる。
クラウスは正面。
ミーナは台車の右側。
俺は護衛対象の左前。
エイフィズは、左後方に一番近い。
言えば、また刺さる。
言わなければ、護衛対象を狙われる。
俺は一瞬だけ口を開きかけた。
でも、閉じた。
代わりに、自分の位置を半歩ずらす。
敵役へ向かう道を塞ぐのではなく、エイフィズの前にだけ、一本の通り道を残す。
そこに立てば、敵役は一瞬止まる。
倒す必要はない。
勝つ必要もない。
ただ、一歩出ればいい。
俺は何も言わなかった。
エイフィズが敵役を見た。
木剣を握る手に力が入る。
足はまだ動かない。
迷っている。
たぶん、頭の中で前回の失敗が響いている。
動けなかった自分。
ニカが代わりに飛び込んだこと。
クラウスの言葉。
俺の声。
その全部が、彼の足を縛っている。
敵役がさらに近づく。
台車まで、あと二歩。
俺は動かない。
動けないのではなく、動かない。
これで本当にいいのか。
分からない。
でも、ここでまた俺が飛び込めば、前回と同じになる。
エイフィズは何も選べないまま終わる。
「っ……!」
エイフィズが、一歩出た。
ほんの一歩。
それだけだった。
木剣を構える形もぎこちない。
踏み込みも浅い。
敵役から見れば、簡単に崩せる相手だったと思う。
それでも、その一歩で通り道が塞がった。
敵役の足が一瞬止まる。
木剣がぶつかる。
エイフィズの腕が弾かれる。
身体が横へ流れる。
だが、敵役の進路は一拍遅れた。
「ニカ!」
「分かってる!」
ニカが戻ってきた。
敵役の横へ入り、拳で木剣の軌道を逸らす。
ミーナが右足元だけを濡らす。
敵役の踏み込みが滑った。
俺は台車を押し、護衛対象を前へ進める。
クラウスが正面の敵役を押し返す。
狭い通路を抜けた。
「抜けた!」
ミーナの声が弾む。
エイフィズは壁際に手をついていた。
腕が震えている。
敵役に押された衝撃が残っているのだろう。
でも、倒れてはいない。
俺は一瞬だけ彼を見た。
言葉はかけなかった。
今はまだ、言わない方がいいと思った。
後半は、前回よりも班の動きがよくなっていた。
完璧ではない。
クラウスは何度か前へ出すぎた。
ミーナは一度、水を広げすぎて俺たちの足元まで濡らしかけた。
ニカは肩を庇いながら動いているせいで、いつもより少しだけ反応が遅れる。
俺も、指示を飲み込みすぎて逆に遅れた場面があった。
それでも、前回とは違う。
誰か一人が無理に埋めるのではなく、少しずつ穴を塞いでいく。
それだけで、進める距離は変わった。
最後の直線。
目的地点の旗はもう近い。
敵役が正面から二人、右から一人。
前回なら、ここで崩れていた。
クラウスが正面を受ける。
ミーナが右足元を濡らす。
ニカが右の敵役を引きつける。
俺は台車を押しながら、護衛対象の進路を確保する。
エイフィズは左側にいた。
敵役は来ていない。
でも、その位置にいることで、左側からの回り込みは消えている。
それだけで意味があった。
今度は言わない。
俺はただ、台車を押した。
旗まで、あと少し。
正面の敵役が最後にクラウスの横を抜けようとした。
クラウスが追う。
離れすぎる。
俺は叫ぼうとして、先にミーナが声を出した。
「クラウスさん、戻って!」
クラウスが舌打ちしながらも半歩戻る。
その半歩で、敵役の進路が塞がった。
ニカが右から戻り、台車の横につく。
エイフィズはまだ左にいる。
俺は台車を押し込んだ。
「到達」
審判役の声が響いた。
「護衛対象、破損なし。接触なし。到達成功」
その瞬間、班の空気が少しだけ緩んだ。
ミーナが小さく息を吐く。
ニカがその場にしゃがみ込む。
「つっかれたぁ……」
「肩、大丈夫?」
「大丈夫。今度は守ったし」
ニカは笑った。
クラウスは不満そうに木剣を下ろす。
「敵役を一人も倒していない。成功と言えるのか」
「勝敗は護衛対象の状態と班全体の到達で判定するって言われてたでしょ」
俺が言うと、クラウスは何も返さなかった。
納得していない顔だったが、結果は結果だ。
ミーナが少しだけ笑った。
「でも、成功です」
その声には、確かな安堵があった。
俺はエイフィズを見る。
彼は左手で右腕を押さえていた。
さっき敵役と打ち合った時に痺れたのだろう。
俺が近づこうとした時、ニカが先に声をかけた。
「ありがと、エイフィズ」
エイフィズの肩がわずかに跳ねた。
「……何が?」
「途中。左後ろから来たやつ、一瞬止めてくれたじゃん。あれなかったら、あたし戻るの間に合わなかった」
「別に、君のためじゃない」
「でも助かったよ」
ニカは軽く言った。
重くしない。
褒めすぎない。
ただ、事実として置く。
それがニカらしい距離感だった。
俺は少し遅れて言う。
「私も、助かった」
エイフィズは俺を見なかった。
「……たまたまだ」
「たまたまでも、助かった」
「君は、そうやって何にでも意味をつける」
「つけてるんじゃない。あったから言ってるんだよ」
エイフィズは黙った。
その顔には、喜びはなかった。
けれど、前回のようにただ沈んでいるだけでもなかった。
何かが揺れている。
自分で動いた一歩。
その事実を、どう受け取ればいいのか分からない。
そんな顔だった。
訓練後、イザベラは各班の結果を確認し、俺たちの前に来た。
「アイリス班、到達成功。護衛対象への接触なし」
クラウスが少し顎を上げる。
イザベラはすぐに続けた。
「だが、評価は高くない」
クラウスの表情が固まる。
「理由は分かるか」
俺は答えた。
「全体的に動きが遅く、判断に迷いが多かったからです」
「他には」
「まだ、互いの役割を完全には信じられていません」
「その通りだ」
イザベラは班全体を見た。
「前回よりはましだ。だが、成功したのは、全員がほんの少しだけ自分の癖を抑えたからに過ぎない。クラウス、お前は前へ出たがりすぎる。ミーナ、お前は状況が崩れると手が遅れる。ニカ、お前は補える範囲と補えない範囲を見誤るな。アイリス、お前は指示を飲み込みすぎても遅れる。出すべき時と出さない時を分けろ」
最後に、イザベラの視線がエイフィズへ向いた。
「エイフィズ」
エイフィズの肩が強張る。
「はい」
「動いたな」
それだけだった。
褒める言葉ではない。
慰めでもない。
ただ事実。
エイフィズは唇を噛んだ。
「……一歩出ただけです」
「そうだ。一歩出ただけだ」
イザベラは淡々と言った。
「だが、前回はその一歩が出なかった」
エイフィズは何も言わない。
「今日の結果をどう扱うかは、お前が決めろ。偶然にするのも、次に繋げるのも、お前次第だ」
それだけ言うと、イザベラは次の班へ向かった。
エイフィズはその場に立ち尽くしていた。
俺は彼を見る。
声をかけるべきか迷った。
でも、今は何を言っても多すぎる気がした。
だから、何も言わなかった。
演習場から戻る途中、ニカが俺の横に並んだ。
「今日はちょっとマシだったね」
「うん」
「アイリスも、ちょっとマシ」
「私も?」
「前より黙るのうまくなった」
「そうかな?」
「うん。たぶん」
ニカは笑ったあと、少しだけ声を落とした。
「でも、エイフィズ、嬉しそうじゃなかったね」
「うん」
「助かったって言われても、あれで満足できるタイプじゃなさそう」
「たぶんね」
エイフィズは、自分が一歩動いたことを喜べない。
そこに価値を見つけられない。
なぜなら彼が欲しいものは、たぶんそれではないから。
契約の儀で見せた、あの規格外の圧。
ガイアという名。
周囲が息を呑んだ瞬間。
エイフィズ自身も、きっとあの時の自分を忘れられない。
だからこそ、一歩出ただけでは足りない。
誰かの役に立っただけでは、埋まらない。
もっと大きな何かでなければ、自分を認められないのだと思った。
校舎へ戻る前、俺はふと振り返った。
エイフィズは少し離れた場所を歩いていた。
クラウスとも、ミーナとも、誰とも並んでいない。
一人だった。
けれど、昨日より少しだけ足取りはしっかりしているようにも見えた。
それが良い兆しなのか。
それとも、別の何かへ向かう前触れなのか。
俺には、まだ分からなかった。
手を伸ばせば届く距離にいるようで。
伸ばした瞬間、また遠ざかる。
エイフィズは、そんな場所に立っていた。
俺はその背中を見ながら、ゆっくり息を吐いた。
助けることは、手を引くことだけじゃない。
けれど、手を引かなければ届かない時もある。
その違いを、俺はまだ知らない。
ただ、今日の一歩だけは、エイフィズ自身が選んだものだった。
それだけは、忘れないでおこうと思った。




