第六十三話 線の上に立つ
第六十三話 線の上に立つ
翌朝、目が覚めた時、部屋の空気は少しだけ違っていた。
劇的に何かが変わったわけじゃない。
窓から差し込む朝の光も、机の上の本も、木箱の中でぽよぽよ揺れているネルも、昨日と同じだった。
けれど、セシリアの声だけは、昨日までと違っていた。
「髪、跳ねているわ」
寝台から身体を起こしたところで、そう言われた。
俺は自分の髪に手をやる。
確かに、横の方が少し跳ねていた。
「お、久しぶりに言われた」
「言わせないようにしなさい」
「だって跳ねるし」
「ほんと、アイリスは」
いつもの調子だった。
でも、ほんの少しだけ声が柔らかい。
昨日、回廊であれだけ泣いたセシリアは、今朝にはいつものように髪を整え、制服を正しく着て、背筋を伸ばしていた。
王女としての顔は戻っている。
けれど、昨日までのような閉じた硬さはなかった。
俺はそれに、少しだけ安心した。
「目、大丈夫?」
そう聞くと、セシリアはわずかに視線を逸らした。
「大丈夫よ」
「少し赤いけど」
「見ないで」
「わかったよ」
素直に目を逸らすと、セシリアは小さく息を吐いた。
その横で、木箱の中のネルがぽよんと跳ねる。 紫色の身体が、湿った草の上で揺れていた。
「ネルにも見られている気がするわ」
「顔ないけどね」
「なんとなくよ」
そう言いながらも、セシリアの声には昨日までの棘がなかった。
完全に吹っ切れたわけではないのだと思う。
王女であることも、周囲が意味をつけることも、何一つ消えたわけじゃない。
それでも、セシリアは戻ってきた。
王女としてではなく。
少なくとも、俺たちの前では、ただのセシリアとして。
教室へ向かう途中、ニカとローゼリアが合流した。
ニカはセシリアの顔を見た瞬間、にやりと笑う。
「おはよ、友達一号」
「その呼び方はやめなさい」
「じゃあ王女様友達?」
「もっと悪いわ」
「うわ、注文多い」
ニカが肩をすくめると、ローゼリアがセシリアの顔を覗き込んだ。
「目、少し腫れているわね」
「あなたまで言わないで」
「泣いたことは恥ではないわ」
「もういいでしょ」
セシリアは顔を背けた。
耳が少しだけ赤い。
ローゼリアはそれを見て、なぜか満足そうに頷いた。
いつもの空気が少し戻っている。
けれど、教室に近づくにつれて、周囲の視線はまた重くなった。
教室の中は、昨日と同じように裂けていた。
貴族生徒は貴族生徒で固まり、平民や家名を持たない生徒たちは少し離れている。
その間にある空間は、ただの通路ではない。
踏み越えるには、少しだけ覚悟がいる線のように見えた。
セシリアが俺たちと一緒に入ると、いくつもの視線がこちらへ向いた。
貴族側からの視線。
平民側からの視線。
どちらも同じではない。
けれど、どちらにも同じものが混じっていた。
意味を探す目だ。
「セシリア殿下、やっぱりあの連中と……」
「ヴァルンハート嬢まで一緒なのか」
「王女に守られてるって言われても仕方ないよな」
「でも、アイリスは竜殺しだろ」
「竜殺しって言っても、魔法も使えないんだろ?」
声は小さい。
でも、聞こえている。
セシリアの横顔は崩れなかった。
ローゼリアは気にしていないように前を見る。
ニカは軽く口笛を吹きそうな顔をしていたが、さすがにやめたらしい。
俺は自分の席へ向かいながら思った。
俺たちの間で一つ答えが出ても、教室の線は消えない。
むしろ、セシリアが戻ってきたことで、その線はさらに濃く見えるようになった気がした。
授業が始まる前、教室のざわめきの中にレオスの名前が混じっていた。
レオス・バルドは非契約者クラスの生徒だ。
だから、この教室に席はない。
それでも、昨日の私闘の話は契約者クラスにも十分すぎるほど届いていた。
数日間の実技参加停止と反省文。
それが昨日の私闘に対する暫定処分だった。
ダリウスも同じく実技参加停止と事情聴取。
ただ、処分が同じに見えることへ、教室の中ではまだ不満が燻っている。
ただ、処分が同じに見えることへ、教室の中ではまだ不満が燻っている。
助けるために殴った者と、見下して拳を振り上げた者。
その二人が同じように扱われることを納得できない者もいる。
逆に、平民が貴族を殴ったのに軽すぎると言う者もいる。
同じ処分が、誰にとっても公平に見えるわけではない。
それもまた、この学院の歪みなのだと思った。
エイフィズは教室の端にいた。
目立たない席で、俯くように座っている。
昨日の騒ぎの中心にいた少年。
契約の儀で、規格外の圧を放った少年。
そして今、魔法も魔力圧も悪魔の顕現もできず、笑われる側に置かれている少年。
俺が視線を向けると、エイフィズは一瞬だけこちらを見た。
すぐに逸らす。
その動きに、拒絶の色があった。
俺は声をかけなかった。
声をかけたい気持ちはある。
でも、今それが彼にとって助けになるとは限らない。
助けたいと思うことと、助けになることは違う。
昨日、エイフィズに手を払いのけられた時、そのことを少しだけ思い知った。
授業が始まると、イザベラはいつも通り教室へ入ってきた。
余計な前置きはない。
ただ、教卓の前に立ち、教室全体を見回す。
その視線だけで、ざわつきが静まった。
「今日の午後は、合同基礎訓練を行う」
教室が小さく揺れる。
イザベラは構わず続けた。
「契約者、非契約者、貴族、平民を混ぜた班別訓練だ。内容は護衛移動。班ごとに指定された護衛対象を守りながら、演習場内の目的地点まで到達しろ」
護衛移動。
魔獣討伐でも、単純な模擬戦でもない。
守りながら進む訓練。
俺は少しだけ背筋を伸ばした。
こういう訓練は、たぶん魔法の威力だけでは決まらない。
位置取り。
役割。
連携。
判断。
そして、誰を信じて動くか。
「敵役は教官補佐と上級生が務める。魔法の使用は制限付き。魔力圧は第一層のみ許可。勝敗は敵役を倒した数ではなく、護衛対象の状態と班全体の到達で判定する」
ニカが小声で呟いた。
「うわ、めんどくさそう」
「うん。かなり」
俺も小さく返す。
イザベラの目がこちらへ向いた気がして、俺たちは黙った。
「仲良しごっこをしろとは言わん」
イザベラの声が教室に落ちる。
「だが、戦場で隣に立つ相手を身分で選べると思うな。隣にいる者が貴族だろうが、平民だろうが、契約者だろうが、非契約者だろうが、使えるものを見ろ。使えないものを補え。それができない者から死ぬ」
教室の空気が少し重くなる。
誰も反論しなかった。
戦場。
死ぬ。
学院の教室には不釣り合いな言葉のはずなのに、この世界ではそれが現実なのだ。
イザベラは黒板に班表を貼った。
生徒たちが一斉に前を見る。
俺も自分の名前を探した。
アイリス・シエーレ。
ニカ・ラーテラル。
エイフィズ・ハルヴィス。
クラウス・レイナー。
ミーナ・フェルク。
その五人が、同じ班だった。
クラウスは貴族側に近い男子生徒だったはずだ。 ダリウスほど露骨ではないが、昨日から貴族側の集まりにいたのは見ている。
ミーナは平民出身の女子生徒で、あまり目立たない。
ただ、授業態度は真面目で、筆記ではそこそこ名前を聞く。
問題は、エイフィズだった。
俺が班表を見ていると、少し離れた場所でエイフィズが同じ表を見上げていた。
その顔が、分かりやすく歪む。
俺と目が合った。
「……よりによって、君か」
低い声だった。
そこに怒鳴るような強さはない。
でも、拒絶だけははっきりあった。
ニカが横で小さく呟く。
「うわ、気まず」
「言わないで」
「いや、言わなくても気まずいでしょ」
「そうだけど」
セシリアが少しだけこちらを見る。
心配しているのが分かった。
ローゼリアも同じだ。
けれど、今回は別班だった。
セシリアの名前はローゼリアと同じ班にある。
それはそれで安心ではある。
ただ、俺の班には二人はいない。
ニカはいる。
でも、セシリアもローゼリアもいない。
エイフィズと真正面から向き合うには、逃げ道が少ない班だった。
イザベラは班表を貼り終えると、教室を見渡した。
「不満がある者はいるか」
何人かが息を呑む。
だが、誰も手を上げなかった。
イザベラは短く頷く。
「なら決まりだ。午後、演習場に集合しろ。班内で役割を話し合っておけ」
役割。
その言葉に、俺はもう一度班表を見る。
俺は魔法を使えない。
魔力圧も扱えない。
ラグナもルナも出せない。
エイフィズも同じだ。
できないものだけを並べれば、俺たちは似ている。
でも、同じではない。
それは昨日、痛いほど感じた。
俺は逆境をどうにか打破しようとしている。
エイフィズは、その逆境に飲み込まれそうになっている。
だからといって、俺が彼を上から引っ張れるわけではない。
俺自身も、まだ何も使えていないのだから。
午後の訓練がどうなるのか、まるで分からなかった。
ただ一つだけ分かる。
この班は、簡単にはまとまらない。
授業後、班ごとに少しだけ顔合わせをすることになった。
クラウス・レイナーは、俺たちを見るなり軽く鼻で笑った。
「なるほど。竜殺しと、獣人と、ガイアの契約者様か。ずいぶん派手な班だ」
ニカの耳がぴくりと動く。
「褒めてる?」
「事実を言っただけだ」
「へぇ。便利な言葉だね、それ」
ミーナは困ったように二人を見ていた。
エイフィズは何も言わない。
ただ、班の輪から半歩だけ離れて立っている。
俺は小さく息を吐いた。
「まず、役割を決めよう。護衛対象を守るなら、前に出る人、周囲を見る人、護衛対象の近くに残る人が必要になる」
クラウスが眉を上げる。
「君が仕切るのか?」
「仕切るというか、話し合わないと始まらないでしょ」
「魔法も使えないのに?」
その言葉に、空気が少し固まる。
ニカが何か言いかけた。
俺は手で制した。
「使えない。だからこそ、他で役に立つ方法を考え
る」
「なるほど。竜殺し様は謙虚だな」
「別に竜殺しって呼ばれたいわけじゃない」
クラウスは少しだけつまらなそうな顔をした。
たぶん、俺が怒るのを期待していたのだろう。
エイフィズがこちらを見る。
その目には、また嫌なものが混じっていた。
俺が竜殺しと呼ばれていること。
それを否定しても、結局その名前が俺の周りにあること。
エイフィズには、それ自体が刺さるのだと思う。 俺は言葉を選ぼうとして、やめた。
今は何を言っても、言い訳に聞こえる気がした。
「午後、やってみれば分かるよ」
ニカが軽く言った。
「あたしは走るの得意だし、周囲見るのもできる。アイリスは指示と観察。ミーナは?」
「あ、私は……水魔法が少し使えます。攻撃は弱いけど、足元を濡らしたり、滑らせたりなら」
「いいじゃん。めっちゃ使える」
ニカが笑うと、ミーナは少しだけほっとした顔をした。
クラウスは腕を組んだまま黙っている。
エイフィズはまだ何も言わない。
「エイフィズは?」
俺が聞くと、彼は視線を落とした。
「……何もない」
「でも、剣は使える?」
「最低限は」
「じゃあ、護衛対象の近くにいてくれると助かる。無理に前に出なくていい。近くに誰かがいるだけで、敵役は入りにくくなるから」
エイフィズの顔がわずかに歪んだ。
「そうやって、役割を与えたつもり?」
「つもりじゃなくて、必要だと思ったから言った」
「君に言われると、余計に惨めになる」
その場の空気が止まった。
ニカが何か言いかけて、やめる。
ミーナは困惑している。
クラウスだけが、少し面白そうに口角を上げた。
俺はすぐには返せなかった。
エイフィズの言葉は、昨日の続きだった。
君は竜殺しで、僕は笑いものだ。
僕と君で、何が違うんだよ。
その問いが、まだ彼の中に残っている。
俺が何を言っても、今はそこへ触れてしまう。
「……分かった」
俺はそう言った。
「じゃあ、午後に動きながら決めよう」
エイフィズは返事をしなかった。
班の話し合いは、そのままぎこちなく終わった。
教室の中では、他の班も似たような空気を抱えている。
笑っている班もある。
険悪な班もある。
貴族と平民が混ざった班では、どこかしらに緊張があった。
イザベラの狙いは分かる。
戦場で隣に立つ相手を選べない。
それはたぶん正しい。
けれど、選べない相手と並ぶことが、こんなにも難しいとは思わなかった。
午後の訓練まで、まだ少し時間がある。
俺は班表をもう一度見た。
アイリス・シエーレ。
ニカ・ラーテラル。
エイフィズ・ハルヴィス。
クラウス・レイナー。
ミーナ・フェルク。
名前が並んでいるだけなら、ただの班だ。
でも、その間には見えない線がいくつも走っている。
貴族と平民。
契約者と非契約者。
獣人とヒューム。
できる者と、できない者。
進もうとする者と、飲み込まれそうになる者。
俺はその線の上に立たされている。
そう思った。
逃げられない。
俺も。
エイフィズも。
この教室に引かれた線も。
午後の訓練は、きっとただの訓練では終わらない。




