第六十ニ話 ただの友達
第六十二話 ただの友達
セシリアが俺たちと距離を置き始めてから、三日が過ぎた。
露骨に避けられているわけではない。
授業では普通に会話をするし、必要な連絡もしてくる。
同室でも、最低限のやり取りはある。
けれど、そこには明らかな線があった。
朝、俺の髪が少し跳ねていても、セシリアは何も言わなかった。
制服の襟元がずれていても、目を向けるだけで口を開かなかった。
ニカが軽口を飛ばしても、いつものように冷たく切り返すことはなかった。
整っている。
あまりにも整っている。
だからこそ、不自然だった。
「ねえ、アイリス」
放課後、廊下を歩いていると、ニカが横から声を落とした。
「うん」
「セシリア、やっぱ変じゃない?」
「変だね」
「だよね。なんかさ、いつもの刺々しい感じじゃなくて、壁作ってる感じ」
「うん。閉じてる」
「そう、それ」
ニカは軽く頷いたあと、少し先を歩くセシリアの背中を見た。
白い髪が揺れている。
歩き方はいつも通り綺麗だった。
でも、誰も寄せつけないような硬さがある。
昨日も、一昨日もそうだった。
昼食も一人。
授業後も一人。
ローゼリアが声をかけても、用事があると言って席を外した。
王女としてのセシリアは完璧だった。
けれど、俺たちが知っているセシリアは、そこにはいなかった。
「追う?」
ニカが聞いた。
「追う」
「おっけ」
セシリアは校舎の奥へ向かっていた。
人通りの多い廊下を抜け、講義棟の裏手にある回廊へ出る。
夕方の光が石造りの柱を長く伸ばし、中庭の草が風に揺れていた。
そこは静かだった。
人の声も遠い。
セシリアは回廊の端で足を止め、こちらを振り返った。
「……ついてきたの?」
「うん」
俺が答えると、セシリアはわずかに眉を寄せた。
「何か用かしら」
「用がないと話しかけたらだめ?」
「今は、あまり軽い会話をする気分ではないわ」
言葉遣いが少し硬い。
王女としての顔だった。
「最近、距離置いてるよね」
俺が言うと、セシリアは目を細めた。
「必要な距離を取っているだけ」
「必要?」
「ええ」
「誰にとって?」
セシリアはすぐには答えなかった。
代わりに、回廊の外へ視線を向ける。
中庭の向こうでは、数人の生徒がこちらをちらりと見てから、すぐに顔を逸らしていた。
その仕草だけで、今の学院の空気が分かる。
王女が誰と話しているか。
誰のそばに立っているか。
それだけで、人は意味をつける。
「あなたたちにとってです」
セシリアは静かに言った。
「私がそばにいれば、あなたたちにも余計な意味がつく。王女に守られる者。王女に取り入る者。王女が肩入れする相手。そう見られることで、あなたたちに負荷がかかる」
「だから、一人になろうとしてるの?」
「そうです」
「本当にそれでいいの?」
セシリアの指先が、わずかに震えた。
それを隠すように、彼女は手を胸の前で重ねる。
いつもの王女の所作だった。
けれど、爪の先だけが白くなっている。
「もう、私に近づかないで」
声は冷たかった。
冷たくしようとしていた。
けれど、最後の一音だけがかすかに揺れた。
ニカが息を呑む。
俺はその場から動かなかった。
「それ、セシリアの本心?」
「本心です」
答えは早かった。
早すぎた。
まるで、言葉が崩れる前に置いてしまおうとしているみたいだった。
セシリアは顔を逸らす。
睫毛が震えていた。
目元に、まだ涙はない。
でも、泣きそうな顔を必死に王女の顔で覆っているのが分かった。
「本当にそう思ってる人は、そんな顔しないよ、セシリア」
セシリアの肩が、ほんのわずかに跳ねた。
「……そんな顔?」
「今にも泣きそうな顔」
「違うわ」
「違わない」
「違う!」
その声だけ、少し大きかった。
回廊に跳ね返った自分の声に、セシリア自身が驚いたように目を見開く。
整っていた表情に、ひびが入った。
唇が震える。
目元がわずかに赤い。
それでも、彼女は背筋だけは伸ばしていた。
王女として崩れまいとしている。
崩れてはいけないと、自分に命じている。
その命令が、今にも彼女自身を傷つけそうだった。
「私が聞きたいのは、王族としてのセシリアの言葉じゃない。セシリア個人としての気持ちを聞いてる。私はセシリアの事を大切だと思ってるし、友達だとも思ってる」
「そんなの……っ」
セシリアの声が途切れた。
言葉を続けようとして、喉が小さく動く。
飲み込んだのだと分かった。
王女として整えた顔が、ほんの少しずつ崩れていく。
涙を堪える目。
震える唇。
強く握りしめられた指先。
それでも、セシリアは最後まで耐えようとしていた。
けれど、一粒だけ、涙がこぼれた。
「友達なんて、作れないと思っていたの」
声は、静かだった。
けれど、もう王女の声ではなかった。
「作ってはいけないと思っていたの。それが王族というものだと、ずっと教えられてきたわ。お父様も、お母様も、周りの者も、皆がそういう私を求めた。誰と親しくするか。誰を庇うか。誰に笑いかけるか。それだけで意味が生まれる。だから私は、友達なんて望んではいけないのだと思っていた」
次の涙がこぼれる。
その次も。
セシリアはもう止められなくなっていた。
「でも……でも、私は……」
大粒の涙が頬を伝う。
「あなたたちと友達でいたい」
その言葉が、回廊に落ちた。
「私だって、みんなと笑いたい。怒りたい。泣きた
い。くだらない話をしたい。私は、王女である前にセシリアなの」
セシリアは両手で顔を覆う。
それでも涙は止まらなかった。
「なのに、誰も私をセシリアとして見てくれない。みんなの目に映る私は王女なの。そうでなければならないの。それなのに、私は望んでしまった。あなたたちと友達になりたいと思ってしまった。あなたたちのことを好きになってしまった」
声が震える。
嗚咽が混じる。
「駄目なのに……!」
セシリアは泣きわめいた。
顔を涙でぐちゃぐちゃにして、まるで小さな子どものように泣いていた。
抑えていた感情。
いや、そんな生ぬるいものではなかった。
セシリアがここまで積み上げてきた生き方そのものが、今、この場所で崩れている。
王女として立つために閉じ込めてきたものが、ひび割れた器から溢れ出している。
ニカも何も言わなかった。
いつもの軽口すら、今は挟まない。
俺は一歩、セシリアへ近づいた。
「セシリア、もう一度言うね」
セシリアは涙で濡れた顔を少しだけ上げた。
「私は、あなたを友達だと思ってる。大切に思ってる」
「……っ」
「誰かを好きだと思うことは、本来自由であるべきものだよ。立場で決めるものじゃない」
セシリアの肩が震える。
「でも、セシリアが今まで生きてきた場所が、それを許してくれなかったことも分かった。王女として生きる中で、そう考えなきゃいけなかったことも分かった」
俺はゆっくり息を吐いた。
「セシリアが王女であることは消えない。たぶん、これからも面倒な意味はつく。でも、それを理由に全部諦めるかどうかは、セシリアが決めていいことだよ」
セシリアの瞳が揺れる。
「だからこそ、私はセシリアと友達でいたい」
「でも……」
「セシリアが泣いていたら、助けたい。笑っていてほしい。そう思ったら、だめかな?」
セシリアは何度も首を横に振った。
「……だめじゃ、ない」
「じゃあ、逆に私が困っていたら助けてほしい」
「え……?」
「私が困ったら、セシリアは助けてくれる?」
セシリアは涙をこぼしながら、かすかに頷いた。
「……うん」
「それって、お互いを大切に思ってるってことだよ」
俺は少しだけ笑った。
「誰が何を言おうと、どんな立場だろうと関係ない。その結果、面倒な意味がついたとしても、私はセシリアが私を思ってくれたことに感謝する」
「でも……」
「そういう関係のことを、私は友達って呼んでる」
セシリアの目から、また涙が溢れた。
「だからね、セシリア」
俺は両手を広げた。
「私たちは、とっくに友達なんだよ?」
セシリアは一瞬、子どものように迷った顔をした。
それから、小さく頷く。
「……うん」
次の瞬間、セシリアは俺の腕の中へ飛び込んできた。
勢いは弱い。
けれど、必死だった。
俺はその身体を優しく包む。
セシリアの肩が震えている。
胸元で、嗚咽が漏れる。
いつもの高圧的な王女ではない。
整った言葉で人を遠ざける少女でもない。
ただ、友達がほしいと泣いた、一人のセシリアだった。
「……私、友達でいてもいいの?」
「いいよ」
「王女なのに?」
「王女でも」
「面倒なことになるかもしれないのに?」
「もう十分面倒なことになってるよ」
「茶化さないで……」
「茶化してない。だから、一つくらい自分で選んだ意味があってもいいかなって」
セシリアは俺の服をぎゅっと掴んだ。
その手は震えていた。
けれど、少しだけ力が戻っていた。
しばらく、誰も何も言わなかった。
セシリアの嗚咽だけが、回廊に小さく残っていた。
俺はただ、その背中をゆっくり撫でた。
「え、なにこれ。あたしも友達枠でいいんだよね?」
そこで、ニカがようやく口を開いた。
絶妙に気の抜ける声だった。
セシリアが涙声のまま、少しだけ顔を上げる。
「あなたは……少し騒がしい友人ね」
「ひど。泣きながら悪口言うじゃん」
「事実よ?」
「いつものセシリア戻ってきた」
ニカはにっと笑った。
「まあでもさ、あたしもセシリアが王女だから近づいたわけじゃないよ。最初はちょっとビビったけど」
「最初だけなの?」
「うん。今は、口うるさいけど面倒見いい子って感じ」
「それは褒めているの?」
「めっちゃ褒めてる」
「ほんとあなたは」
セシリアの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、それでも確かに笑った。
それを見て、胸の奥が少し温かくなる。
「あと、王女様と友達って普通に得じゃない?」
「ニカ」
俺が軽く止めると、ニカは肩をすくめた。
「いやだって、強そうじゃん。王女様の友達って肩書き」
「あなた、本当に最低ね」
「でもこういうのも嬉しいでしょ?」
「もういいでしょ!」
セシリアは涙を拭いながら、少しだけ笑った。
その笑顔はまだ頼りない。
けれど、さっきまでの作り物のような整った顔より、ずっと綺麗だった。
しばらくして、俺たちは回廊を戻った。
セシリアは何度も目元を拭っていた。
王女としては、きっと人に見せたくない顔なのだろう。
でも、隠しきれない涙の跡が、今のセシリアには必要なものにも見えた。
校舎へ戻る手前で、腕を組んだローゼリアが待っていた。
「……私抜きで、ずいぶん大事な話をしていたようね」
セシリアが気まずそうに足を止める。
「ローゼリア……」
「次からは私も呼びなさい」
ローゼリアはそう言って、ふんと顔を背けた。
「私も友達でしょう?」
セシリアの瞳がまた揺れた。
今度は泣き崩れなかった。
けれど、目元には新しい涙が浮かぶ。
「……ええ」
小さな声だった。
「そうね。あなたも、私の友達よ」
「当然よ」
ローゼリアは照れたようにそっぽを向いた。
ニカがにやにやする。
「ローゼリア、今ちょっと照れた?」
「照れてないわ」
「照れたね」
「黙りなさい」
いつものやり取りが戻ってくる。
けれど、そこにいるセシリアは、少しだけ違っていた。
王女であることは変わらない。
周囲が意味をつけることも、きっと変わらない。
明日からも、貴族と平民の線は消えない。
セシリアが誰といるかで、また何かを言う者はいるだろう。
それでも、俺たちは歩いた。
セシリアは、俺とニカとローゼリアの間にいた。 王女としてではなく。
ただ、セシリアとして。
周囲がどんな意味をつけるとしても、その意味をどう受け取るかは、俺たちで決めればいい。
少なくとも今、セシリアは一人ではなかった。




