第六十話 持たざる者の拳
第六十話 持たざる者の拳
振り上げられた拳が、エイフィズへ向かって落ちようとしていた。
俺は足を踏み出した。
ローゼリアも動いている。
セシリアの表情も硬い。
ニカの耳がぴんと立っていた。
けれど、俺たちより早く動いた影があった。
横から入った拳が、振り下ろされるはずだった腕ごと、中心にいた生徒の顔面を殴り抜いた。
鈍い音が廊下に響いた。
貴族生徒の身体が、横へ大きく吹き飛ぶ。
周囲の空気が止まった。
誰も声を出せなかった。
拳を振り抜いたまま、レオス・バルドがそこに立っていた。
「黙れ」
低い声だった。
いつものレオスは、余計な感情を表に出さない。
剣を振る時も、話す時も、どこか冷めている。
でも今の声には、明らかに怒りが混じっていた。
吹き飛ばされた生徒が、床に片手をついて起き上がる。
制服の襟元が乱れ、口の端から血が滲んでいた。
がっしりした体格。
荒い目つき。
金に近い髪と、獣のような鋭い視線。
その顔には、見覚えがあった。
ダリウス・グレイヴ。
契約悪魔は、衝撃の悪魔。
まだ本格的に扱えている様子はないが、素の身体だけでも相当強い。
ダリウスは血を舌で拭うようにして、にやりと笑った。
「……やってくれるじゃねぇか、平民野郎」
廊下の温度が一段下がった。
貴族生徒たちがざわめく。
「ダリウス様に手を出したぞ」
「平民が貴族を殴ったのか?」
「終わったな、あいつ」
反対側から、低い怒りの声も混じった。
「先にやろうとしたのはそっちだろ」
「平民なら殴られても黙ってろってか」
「ルシェルの件といい、貴族は何しても許されるのかよ」
その声に、別の貴族生徒が顔を険しくする。
空気が割れていく。
昨日までなら押し込められていたものが、今、廊下の真ん中で表へ出てきていた。
ダリウスは立ち上がり、首を鳴らした。
「平民の味方ごっこか、レオス」
レオスは答えない。
ただ、拳を下ろさずにダリウスを見ていた。
「お前も似たようなもんだろ。悪魔もない。魔法もない。契約者ですらない。剣だけ握って学院にしがみついてる」
ダリウスの口角が上がる。
「持たざる者同士、仲良く泥でも舐めてろよ」
次の瞬間、レオスが踏み込んだ。
速い。
剣を持っていないのに、動きの鋭さは変わらない。
ダリウスの懐に入り、腹へ拳を入れる。
だが、ダリウスは倒れなかった。
腹筋を締め、肩を落として衝撃を逃がす。
ただの乱暴者じゃない。
喧嘩慣れしているだけでもない。
ちゃんと鍛えられている。
「軽いな」
ダリウスの拳が横から飛ぶ。
レオスは首を傾けてかわした。
拳が空を切る。
だが、ダリウスは止まらない。
そのまま肩で押し込み、膝を入れようとする。
レオスは腕で受けたが、身体が半歩下がった。
重い。
肉体の強さだけなら、ダリウスはかなり上だ。
それでも、レオスは崩れない。
下がった足をすぐに置き直し、ダリウスの腕の内側へ手を差し込む。
肘を押さえ、軸をずらす。
ダリウスの体勢がわずかに崩れた。
その隙に、レオスの拳が顎へ跳ね上がる。
鈍い音。
ダリウスの顔が横へ振れる。
しかし、次の瞬間にはダリウスの額がレオスの額へぶつかっていた。
鈍い衝突音。
周囲から悲鳴が上がる。
レオスの身体がわずかに揺れた。
ダリウスは笑っていた。
「いいじゃねぇか。平民のわりには、やる」
「黙れと言った」
レオスの声は低い。
だが、その拳はいつもより荒かった。
普段のレオスなら、ここまで感情を乗せない。
相手の動きを見て、距離を測り、必要なだけ動く。
けれど今は違う。
エイフィズに向けられた言葉。
平民。
持たざる者。
何もできない。
その全部が、レオス自身にも刺さっているのだと分かった。
「止めないと」
俺が動こうとした瞬間、セシリアが一歩前に出た。
「そこまでにしなさい!」
王女の声だった。
だが、熱くなった二人には届ききらない。
ローゼリアも唇を噛む。
「このままだと本当に大事になるわ」
「もう大事だよ、これ」
ニカの声も硬い。
周囲の生徒たちの声が、さらに大きくなっていた。
「レオスを止めろ!」
「先にエイフィズを殴ろうとしただろ!」
「貴族に手を出したんだぞ!」
「だから何だよ!」
廊下が、ただの廊下ではなくなっていく。
貴族と平民。
契約者と非契約者。
持つ者と持たざる者。
その境目が、床に線を引くように見えた。
「そこまでだ」
低い声が落ちた。
空気が止まった。
イザベラ・クロウが、廊下の奥から歩いてきていた。
その一言だけで、騒ぎの中心にいた生徒たちの身体が固まる。
ダリウスが一瞬だけレオスから目を離した。
レオスも拳を止める。
イザベラは二人の間に立った。
「ここは訓練場ではない。廊下で私闘を続けるなら、両方処分する」
「先に手を出したのはこいつだ」
ダリウスが顎でレオスを示す。
「先に拳を振り上げたのはお前だ」
イザベラは即座に返した。
「エイフィズへ向けてな」
ダリウスの目が細くなる。
「現実を教えてやっただけですよ。契約者クラスの席を無駄にしてる奴に」
「それを決める権利は、お前にはない」
セシリアの声が冷たく響いた。
ダリウスはセシリアを見る。
さすがに王女相手には、先ほどのような態度は取らない。
だが、目は納得していなかった。
「……失礼しました、セシリア殿下」
口だけの謝罪だった。
セシリアは目を細める。
「謝る相手が違うのでは?」
ダリウスはエイフィズを見た。
そこには謝罪の気配などない。
「フンッ、またな、エイフィズ」
軽い声だった。
エイフィズは何も答えない。
俯いたまま、拳を握りしめている。
イザベラが周囲を見回した。
「全員、散れ。次に同じ騒ぎを起こせば、身分に関係なく処分する」
その言葉に、生徒たちは少しずつ散り始めた。
だが、視線は残っている。
貴族側の視線。
平民側の視線。
レオスを見る目。
ダリウスを見る目。
エイフィズを見る目。
そして、俺を見る目。
どれも、昨日までとは違っていた。
俺はエイフィズの方へ歩いた。
「大丈夫?」
そう声をかけた瞬間、エイフィズが俺の手を払いのけた。
「触るな」
低い声だった。
俺は足を止める。
「怪我してる」
「分かってるよ」
エイフィズは俯いたまま、奥歯を噛みしめていた。
その声には、痛みよりも、悔しさの方が滲んでいた。
「同じだろ……」
「え?」
「君も僕も、悪魔を出せない。魔法も使えない。魔力圧も扱えない。貴族でもない」
その言葉に、俺は何も返せなかった。
エイフィズはゆっくり顔を上げた。
目の奥にあるのは、怒りだけじゃない。
諦め。
惨めさ。
そして、嫉妬。
「なのに、君は竜殺しで、僕は笑いものだ」
「エイフィズ……」
「僕と君で、何が違うんだよ」
言葉が、胸に刺さった。
俺は反論できなかった。
違う、と言うのは簡単だ。
でも、何が違うのか。
俺自身にも、まだ言葉にできない。
ワイバーンを倒したのは、俺一人じゃない。
セシリアがいて、ローゼリアがいて、ニカがいて、レオスがいて、村人がいて、騎士団が来た。
それでも噂は俺の名前で広がった。
エイフィズは、契約の時にあれほどの圧を放った。
けれど今は笑われている。
何が違う。
その問いは、俺自身にも向いていた。
レオスが横から短く言った。
「違いを探す前に、立て」
エイフィズの目がレオスへ向く。
「分かったようなこと言うな」
「分かっていない。だから言っている」
レオスは表情を変えない。
「倒れたままでは、何も変わらない」
エイフィズは唇を噛んだ。
その手はまだ震えている。
立ち上がろうとしているのか。
それとも、怒りを抑えているのか。
分からなかった。
ダリウスは少し離れた場所から、こちらを見ていた。
その表情には、悔しさと怒りがあった。
殴られたことへの怒り。
止められたことへの苛立ち。
そして、エイフィズを見下す感情は、まだ消えていない。
イザベラはそれを見ていた。
セシリアも。
ローゼリアも。
ニカも。
廊下には、まだ熱が残っている。
この騒ぎは、ここで終わらない。
そう思った。
これは、エイフィズ一人の問題じゃない。
ルシェル一人の問題でもない。
誰かが誰かを、自分より下だと決める。
家名があるから。
魔法が使えるから。
契約者だから。
貴族だから。
その理屈が、学院のあちこちに積もっていた。
そして今、それが音を立てて崩れ始めている。
貴族と平民の間にあった薄い膜が、破れた。
その中心には、エイフィズがいた。
レオスがいた。
ダリウスがいた。
そして、なぜか俺も立たされている気がした。




