第五十九話 処分通知
第五十九話 処分通知
翌日、学院の空気は明らかに変わっていた。
廊下を歩くだけで、視線が刺さる。
竜殺し、双子の悪魔、魔法も魔力圧も使えない契約者。
それだけでも十分に面倒だったのに、今度はそこに別の意味が重なった。
大貴族オルフェリア家の子息に拉致された生徒。
俺の知らないところで、俺の名前はまた別の形に変わっていく。
俺はただ歩いているだけだ。
授業に向かっているだけだ。
昨日の夜、薬で眠らされて、椅子に縛られて、ルシェルと話して、イザベラに助け出された。
それだけのはずだった。
けれど、周りはそう見ない。
「本当にルシェル様が?」
「ありえないだろ。オルフェリア家だぞ」
「でも、イザベラ教官が現場を押さえたって」
「外の連中を使ったらしいぞ」
「貴族なら何しても許されるのかよ」
「声を落とせ。聞かれるぞ」
声が、ところどころで割れている。
ルシェルを庇う者。
疑う者。
怒る者。
怖がる者。
竜殺しの噂とは違う。
今回は、俺一人の話で終わっていない。
貴族と平民。
家名を持つ者と持たない者。
守られる者と、踏まれる者。
学院の床下に溜まっていたものが、少しずつ音を立て始めている気がした。
「見られているわね」
隣を歩くセシリアが言った。
「慣れたくないけど、慣れてきたかも」
「慣れる必要はないわ」
「そうかな?」
「ええ。視線に慣れすぎると、自分がどう扱われているかに鈍くなる」
セシリアの声は静かだった。
けれど、昨日からずっと怒っているのは分かった。
俺ではなく、状況に。
ルシェルに。
オルフェリア家に。
そして、たぶんこの学院の空気そのものに。
「あなたも、普通にしすぎよ」
「普通にしてるつもりはないんだけどね」
「しているわ。昨日拉致された人間の顔ではない」
「どんな顔なら正解?」
「そういう問題ではないでしょう」
セシリアは足を止め、俺を見た。
「怯えろと言っているのではないわ。軽く扱うなと言っているの」
その言葉には、少しだけ棘があった。
俺は返事に迷った。
軽く扱っているつもりはない。
でも、心が折れているわけでもない。
怖くなかったとは言わない。
薬を嗅がされた時も、目覚めた時も、腹の奥は冷えた。
けれど、それ以上に腹が立っている。
「分かってる」
俺は言った。
「平気なわけじゃない。
ただ、折れてる暇がないだけ」
セシリアは少しだけ目を細めた。
「……そう」
「うん」
「ならいいわ」
その言い方は、納得したというより、今はそれ以上踏み込まないというものだった。
教室に入ると、ルシェルの席は空いていた。
当然だ。
昨日の今日で普通に登校していたら、それはそれでどうかしている。
それでも、空席はやけに目立った。
「一時謹慎だってさ」
後ろの方で、誰かが小声で言った。
「接近禁止も出たらしい」
「でも退学じゃないんだろ?」
「オルフェリア家だからな」
「やっぱ貴族は違うな」
その言葉に、別の貴族生徒が鋭く反応した。
「軽々しく言うな。正式な調査も終わっていない」
「現場で押さえられたんだろ?」
「事情があったのかもしれない」
「事情があれば薬で眠らせていいのかよ」
空気が悪くなる。
以前なら、そこで誰かが笑って流したかもしれない。
でも、今は笑いにならない。
ルシェルの事件は、ただの異常者の暴走では済まない。
少なくとも、周囲はそう受け取り始めている。
オルフェリア家の子息。
大貴族。
貴族の権力。
平民の不安。
俺は自分の席に座りながら、教室のざわめきを聞いていた。
しばらくして、ニカが机に肘をつきながら近づいてきた。
「顔、だるそう」
「だるいよ。薬、まだ少し残ってる感じするし」
「うわ、最悪」
「うん。最悪」
ニカはいつものように軽く笑おうとした。
でも、笑いきれていなかった。
「昨日さ」
「うん」
「あたし、尾行に気づいてたのに、止められなかったんだよね」
その声は、いつもより少し低かった。
「報告したでしょ」
「でも、止められてない」
「拉致したのはニカじゃない」
「それは、そうだけど」
「気づいてくれたから、イザベラ先生に報告できた。セシリアが動けた。ネルも連れてこれた。結果的に、助かった」
ニカは少し黙った。
「……アイリスって、そういうとこあるよね」
「どういうとこ?」
「人の逃げ道を作るの、うまい」
「そうかな」
「うん。腹立つくらい」
ニカはそう言って、ようやく少し笑った。
その後、イザベラに呼ばれた。
呼ばれたのは、俺、セシリア、ローゼリア、ニカ。
教官室に入ると、イザベラは机の前に立っていた。
表情はいつも通りだが、机の上には何枚もの書類が置かれている。
「昨日の件について、暫定処分が出た」
空気が固まった。
ローゼリアが真っ先に口を開いた。
「退学ですか?」
「まだだ」
「まだ?」
ローゼリアの眉が吊り上がる。
「人を薬で眠らせて連れ去ったのよ? それで、まだ?」
「落ち着け」
イザベラの声は低かった。
「ルシェル・ヴァン・オルフェリアは現在、学院預かり。一時謹慎。アイリスへの接近禁止。学院内での監視付き。外出制限。契約悪魔関連の実技訓練は停止だ」
「それだけ?」
ローゼリアの声に怒りが滲む。
「暫定処分としては、だ」
イザベラは書類に視線を落とす。
「外部実行犯は騎士団へ引き渡した。薬物、拘束具、使用した荷馬車、貸部屋の契約者も調査中。学院長、王家、オルフェリア家へは正式報告が入っている」
セシリアが静かに言った。
「王家へは、私からも報告します」
「それがあるから、揉み消しきれない」
イザベラははっきり言った。
「だが、すぐに終わる話でもない」
俺は眉を寄せる。
「貴族だからですか?」
「そうだ」
イザベラは誤魔化さなかった。
「貴族だから捕まえられないわけではない。現行犯として学院預かりにはできる。実際、そうした。だが、オルフェリア家の子息を王国法で正式に裁くには、証言、物証、実行犯の供述、家への照会、王家の承認が要る」
「面倒ですね」
「面倒だ。だが、これがこの国の仕組みだ」
貴族だから無罪になる。
そういう単純な話ではない。
けれど、貴族だから手続きが重い。
家名が動く。
王家が動く。
学院が動く。
その全てを通らなければ、正式な罰にはならない。
面倒くさい。
けれど、この面倒くささこそが、この世界の現実なのだと思った。
「ルシェルの言い分は?」
俺が聞くと、イザベラは少しだけ目を細めた。
「お前を傷つける意図はなかった。話す場を用意したかった。顔や髪を傷つけるなと命じていた。薬と拘束は逃走防止で、暴力目的ではない」
「最悪ですね」
「同感だ」
イザベラは短く言った。
「意図ではなく、行為と結果で裁かれるべきだ。少なくとも、私はそう見る」
セシリアも頷いた。
「害意がなければ許されるなどという理屈は、通しません」
ローゼリアは唇を噛んでいた。
「本当に、腹が立つわ」
「うん」
俺は頷く。
「でも、怒るだけじゃ足りないんだろうね」
証言。
記録。
物証。
人間関係。
立場。
剣や魔法だけじゃない。
この世界で自分を守るには、そういうものも必要になる。
俺はまだ弱い。
魔法も使えない。
魔力圧も扱えない。
悪魔も顕現しない。
でも、孤立しているわけじゃない。
セシリアが気づいた。
ニカが補強した。
ネルが反応した。
イザベラが動いた。
ローゼリアが怒ってくれている。
それも、力だ。
教官室を出る頃には、昼休みが終わりかけていた。
廊下は相変わらずざわついている。
ルシェルの処分。
オルフェリア家。
王家への報告。
竜殺し。
拉致。
あらゆる言葉が、人の間を渡っている。
その時だった。
廊下の向こうから、怒鳴り声が聞こえた。
「だから言ってるだろ。契約しただけで勘違いするなよ、平民」
足が止まった。
俺だけじゃない。
セシリアも、ローゼリアも、ニカも視線を向ける。
少し先の廊下で、数人の生徒が輪を作っていた。
その中心に、一人の少年がいる。
見覚えがあった。
契約の儀。
大講堂を沈ませるような、規格外の圧。
頭の中に響いた「頭が高い」という声。
その後、意識を失い、医務室へ運ばれた少年。
エイフィズ・ハルヴィス。
あれ以来、目立った噂はほとんど聞かなかった。
けれど、その名前と存在は覚えている。
エイフィズは、俯いていた。
制服は乱れ、肩には埃がついている。
拳を握りしめているが、そこに魔力圧の揺らぎはない。
悪魔の気配もない。
魔法の兆候もない。
周囲の貴族生徒たちが、笑っていた。
「契約の時だけは派手だったな」
「ガイアだったか? 名前だけは立派だ」
「悪魔と契約しても、何も出せないんだろ?」
「魔法も使えない。魔力圧も扱えない。平民が学院に来たところで、この程度か」
エイフィズは何も言わない。
ただ、唇を噛んでいた。
その姿を見た瞬間、胸の奥が嫌な形でざわついた。
俺は、エイフィズを知っている。
契約の時、大講堂を沈ませるような圧を放った少年。
あの場にいた誰もが、一度は息を呑んだはずだった。
けれど今、彼の周りにあるのは敬意ではない。
期待でもない。
嘲笑だった。
俺と同じだ、と思いかけて、すぐに違うと思った。
同じ契約者。
貴族ではない。
悪魔も出せない。
魔法も使えない。
魔力圧も扱えない。
並べれば、似ている。
でも、ここに立っている俺と、輪の中心で俯いているエイフィズの間には、何か決定的な差があるように見えた。
その差が何なのか、まだ言葉にはできなかった。
「……エイフィズ」
俺が呟くと、ニカが低い声で言った。
「やばいね、あれ」
ローゼリアはすでに一歩踏み出していた。
「止めるわよ」
セシリアも表情を硬くする。
「当然です」
俺も足を動かそうとした。
その時、輪の中心で、誰かの拳が振り上げられた。
エイフィズは動かない。
いや、動けないのかもしれない。
振り上げられた拳が、彼へ向かって落ちようとしていた。




