第五十八話 檻の外へ
第五十八話 檻の外へ
扉の外から、イザベラの声が響いた。
「学院教官イザベラ・クロウだ。扉を開けろ」
その声を聞いた瞬間、張り詰めていた身体の奥が、ほんの少しだけ緩みかけた。
だが、安心するにはまだ早い。
俺は椅子に縛られたままだ。
薬の痺れも残っている。
剣もない。
目の前には、ルシェル・ヴァン・オルフェリアがいる。
ルシェルは扉を見て、それから俺を見た。
口元には、ひびの入ったような笑みが浮かんでいる。
「早いな」
「そうみたいだね」
「君の周りには、優秀な人が多い」
「そういう人たちに黙って拉致したからでしょ」
「確かに」
返事が軽い。
この男は、本当に分かっているのだろうか。
自分がしたことの重さを。
俺が今、どういう状況に置かれているのかを。
扉の外で、男の怒鳴り声がした。
「待て! ここは――」
言葉は最後まで続かなかった。
鈍い音が一つ。
床板が軋む音。
誰かが倒れる音。
悲鳴すら、長く続かない。
イザベラだ。
見せ場を作るまでもなく、終わらせたのだと分かった。
「開けるぞ」
短い声の直後、扉が開いた。
入ってきたイザベラは、普段と変わらない顔をしていた。
けれど、空気が違う。
教官としての厳しさではない。
戦場を知っている大人の空気だった。
イザベラは一瞬で室内を見た。
椅子に縛られた俺。
三歩離れて立つルシェル。
整えられた部屋。
薬の残り香。
外に倒れた見張り。
その全部を見てから、まず俺の前へ来た。
「意識はあるな」
「あります」
「薬は?」
「まだ少し残ってます。身体が重いです」
「喋れるなら十分だ。動くな」
イザベラは腰の短剣を抜き、俺の手首の縄を切った。
縄が落ちる。
血が戻るような痛みが手首に走った。
「っ……」
「痛むか」
「少し」
「我慢しろ」
「はい」
足の拘束も切られる。
俺は立とうとして、すぐに膝が抜けた。
イザベラが片腕で支える。
「言っただろう。動くな」
「……すみません」
「謝る余裕があるなら、まだましだ」
そのまま壁際の椅子へ座らされる。
やっと、少しだけ呼吸が深くなった。
イザベラは俺から離れ、ルシェルへ向き直った。
「ルシェル・ヴァン・オルフェリア」
「はい」
ルシェルは綺麗に礼をした。
この状況でも、礼法だけは完璧だった。
「これはどういう状況だ」
「僕は、彼女と話をしていました」
イザベラの目が細くなる。
「薬で眠らせ、外部の男を使って連れ去り、椅子に拘束した上でか」
「はい。今となっては、不適切だったと理解しています」
「不適切では済まん。拉致だ」
「彼女にも、そう言われました」
イザベラの視線が、冷たく沈んだ。
「お前は、自分が何をしたか理解しているのか」
「理解しようとしています」
「遅いな」
短い言葉だった。
けれど、鋭かった。
ルシェルは怒らない。
怯えもしない。
ただ、少しだけ困ったように微笑む。
それが余計に不気味だった。
その時、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
「アイリス!」
聞き慣れた声。
ニカだった。
続いて、セシリアが部屋に入ってくる。
その手には、小さな布袋がある。
袋の中で、何かがぽよんと揺れた。
その後ろに、青ざめた顔のローゼリアもいた。
ローゼリアは俺を見るなり、顔を歪めた。
「アイリス……!」
「大丈夫。生きてる」
「そういう問題じゃないでしょ!」
怒鳴る声が震えていた。
ニカもいつもの軽さがない。
「ほんとに大丈夫?」
「たぶん」
「たぶんじゃだめなんだけど」
セシリアは静かに俺を見て、それから拘束の跡が残る手首を見た。
「……無事なのね」
「うん」
「そう。なら、あとで説教するわ」
「なんで私が?」
「拉致されたからよ」
「それ私のせい?」
「心配をかけた分よ」
理不尽だ。
でも、少しだけ安心した。
セシリアはすぐに視線をルシェルへ向けた。
その顔は普段のセシリアからかけ離れた冷たい目をしていた。
「ルシェル・ヴァン・オルフェリア」
「セシリア殿下」
ルシェルは一段深く礼をした。
「この件は、学院内の揉め事では済みません。王家へ報告します」
「承知しました」
「承知で済むと思っているの?」
「いいえ。済まないのでしょうね」
答えは丁寧だった。
けれど、どこか他人事だった。
俺は思わず呟いた。
「礼儀だけは完璧なんだよな……」
ニカが小さく頷く。
「そこが余計こわいんだけど」
イザベラはルシェルから視線を外さずに言った。
「ルシェル・ヴァン・オルフェリア。現行犯だ。身柄は学院預かりとする」
「僕は逃げませんよ」
「逃げるかどうかを聞いているのではない。お前の意思を確認する段階は終わった」
その言葉に、初めてルシェルの微笑がわずかに薄れた。
イザベラは続ける。
「外部の実行犯は拘束した。薬物、拘束具、使用した荷馬車、部屋の契約者も押さえる。学院長、王家、オルフェリア家へ報告する。処分は正式な手続きを経ることになる」
「分かりました」
「それまで、アイリスへの接近は禁止だ。学院内でも監視をつける」
「それは、少し寂しいですね」
「黙れ」
イザベラの声が低くなる。
部屋の空気が一瞬で冷えた。
ルシェルはそれ以上何も言わなかった。
俺は、壁際の椅子に座ったまま状況を整理していた。
怖かったか。
怖くなかったとは言わない。
薬を嗅がされた時も、縛られて目覚めた時も、腹の奥は冷えた。
でも、心が折れたわけじゃない。
震えて動けなくなったわけでもない。
それよりも、腹が立っていた。
俺を物みたいに扱うな。
勝手に見て、勝手に閉じ込めて、勝手に美しいだの何だの言うな。
ルシェルは俺を殴らなかった。
罵らなかった。
乱暴には触れなかった。
けれど、それは優しさじゃない。
あいつは、俺を人間として見ていない。
綺麗なもの。
未完成なもの。
変わっていくもの。
自分だけが正しく見ていると思い込んだもの。
そういう形でしか、俺を見ていない。
それが分かった。
「どうやって、ここが分かったんですか」
俺が聞くと、イザベラは短く答えた。
「セシリアが気づいた」
セシリアが腕を組む。
「あなたが戻らなかった。ネルの記録も未記入。加えて、ネルが木箱の中で異常に跳ねていたわ。何度も扉の方へ向かおうとしていた」
「ネルが?」
セシリアが手元の布袋を少し持ち上げた。
袋の口から、紫色の丸い身体が半分だけ顔を出す。
いや、顔はない。
けれど、こちらを見ているような気がした。
「……ネル」
俺が名前を呼ぶと、ネルはぽよんと跳ねた。
「君も来てたんだね」
ぽよん。
返事なのか、ただ跳ねただけなのかは分からない。
それでも、その小さな動きだけで、少しだけ肩の力が抜けた。
「場所を示したわけではないわ」
セシリアが言う。
「でも、明らかに普段とは違った。アイリスが戻らないことと、ネルの異常行動。この二つが偶然とは思えなかった」
ニカが続ける。
「あたしは、昨日の尾行の匂いと似た外の匂いが学院門の近くに残ってるって言っただけ。匂いだけで追えたわけじゃないよ。人多すぎるし、時間も経ってたから」
「それで?」
「イザベラ先生が動いた」
イザベラが言う。
「学院門番に確認し、ハルヴェイ商会へ使いを出した。お前が商会を出た時刻、帰路で荷馬車騒ぎがあったこと、細道へ人が流れたことが分かった。現場に眠り薬を染み込ませた布片が落ちていた」
「布……」
「調合が特殊だった。街の薬屋と巡回兵に確認し、貴族街寄りの貸部屋をいくつか絞った。最後は、近くまで来た時にネルが反応した」
ネル。
あの小さな紫のスライムが、俺の不在に反応した。
万能ではない。
俺の場所を最初から指し示したわけでもない。 けれど、最後の一押しになった。
「……そっか」
俺は息を吐いた。
「あとでお礼を言っとかないとね」
「魔獣に礼を言うのね」
セシリアが呆れたように言う。
「今回は言うよ」
「そうね」
イザベラは部屋の外へ指示を出した。
「実行犯を連行しろ。薬物、拘束具、使用した荷馬車も押さえろ。部屋の契約者も調べる」
廊下で返事が響く。
大人が動くと、物事が急に現実になる。
俺たちだけでは追えなかった。
ニカの嗅覚だけでも、ネルの反応だけでも無理だった。
セシリアの違和感と、イザベラの手配と、商会や巡回兵の情報。
全部が重なって、ここに辿り着いた。
俺一人では、抜け出せなかった。
その事実も、ちゃんと覚えておく必要がある。
ルシェルは、静かに俺を見ていた。
イザベラに接近禁止を言い渡されたにもかかわらず、その視線だけは変わらない。
「アイリス」
「何」
「僕は、初めて望んだものを拒まれたのかもしれない」
「そのまま覚えておけば?」
「忘れられそうにない」
「最悪だね」
「そうだね。僕も、そう思い始めている」
ルシェルは微笑んだ。
綺麗で、整っていて、どこか壊れている笑みだった。
俺はその笑みを見て、はっきり思った。
こいつは危ない。
好きとか、綺麗だとか、そういう話じゃない。 ルシェルは、自分の見たい形で俺を固定しようとしている。
それは好意じゃない。
管理だ。
そして、管理できないものを見た時、この男が次にどう動くのか。
それはまだ分からない。
だから、警戒する。
恐れるのではなく、警戒する。
学院へ戻る頃には、夜になっていた。
部屋に戻ると、俺はセシリアから布袋を受け取った。
袋の中で、ネルがぽよんと揺れている。
「ただいま」
俺が言うと、ネルは返事のように跳ねた。
木箱へ戻すと、紫色の身体が湿った草の上で丸く収まる。
セシリアは何も言わず、机の前に立っていた。
怒っているのか、安心しているのか。
たぶん、その両方だ。
「……無事に戻ったなら、それでいいわ」
小さな声だった。
「うん。ありがと」
「礼を言う相手は私だけではないでしょう」
「分かってる」
俺は椅子に座り、手首の跡を見た。
赤く擦れている。
痛みはある。
でも、それだけだ。
ルシェル・ヴァン・オルフェリアの処分は、後日正式に通達されるらしい。
後日。
正式に。
その言葉が、妙に引っかかった。
つまり、今すぐ終わる話ではない。
俺は窓の外を見た。
学院の灯りが、夜の中に静かに並んでいる。
俺は作品じゃない。
誰かの飾りでもない。
檻に入れて保存されるものでもない。
変わっていく。
そのたびに、誰かの視線が俺を別の形にしようとしても。
それでも俺は、俺の意思で進む。
ルシェルは、まだ檻の外にいる。
そして俺も、檻の外へ戻った。
だからこそ、次に何が来ても、見落とさないようにしなければならない。




