第五十六話 帰り道の影
第五十六話 帰り道の影
「アイリスを見てる」
ニカの声は、いつもの軽さを失っていた。
廊下の窓から差し込む夕方の光が、床に長く伸びている。
振り返りたい衝動を抑えながら、俺は足を止めずに歩いた。
「学院の生徒?」
「たぶん違う」
「どうして分かるの?」
「匂いが違う。寮とか教室の匂いじゃない。外の匂い。革、油、煙草……あと、安い酒」
ニカの耳が、また小さく動いた。
「足音は消してる。でも慣れてない。距離も変えてるけど、こっちを見てるのは分かる」
「……昨日から?」
「昨日っていうか、竜殺しの噂が出てからかな。少なくとも、今日のは明らか」
竜殺し。
その言葉が、胸の奥に小さく引っかかる。
俺が望んだ名前じゃない。
でも、その名前が広がったことで、俺を見る目が変わった。
それは分かっていた。
ただ、こうして影がつくほどだとは思っていなかった。
「どうする?」
ニカが小声で聞く。
「イザベラ先生に報告する」
「正解。これ、あたしたちだけで追うやつじゃない」
ニカの判断は早かった。
俺たちはそのまま遠回りして、イザベラのもとへ向かった。
イザベラは報告を聞くと、表情を変えずに言った。
「学院外では一人になるな」
「はい」
「特に商会へ行く日は気をつけろ。お前の行動予定を知ろうと思えば、外部の人間でもある程度は読める」
その言葉に、俺は少し息を呑んだ。
週に一度、ハルヴェイ商会へ行く。
学院に入ってから続けている習慣だ。
俺にとっては、商会との約束であり、生活基盤でもある。
けれど、外から見れば行動パターンでもある。
「護衛をつけるべきですか?」
「毎回教師をつけるわけにはいかん。だが、道は選べ。人通りの多い場所を通れ。不審な誘導には乗るな。遅れる時は連絡を入れろ」
「分かりました」
「それと、何かあれば戦おうとするな。逃げろ。お前はまだ、複数の大人を相手にできる段階ではない」
はっきり言われた。
悔しさはある。
でも、反論はできなかった。
俺はまだ、魔法も魔力圧も使えない。
数日後。
俺は週に一度のハルヴェイ商会へ向かった。
商会の中は、以前より明らかに空気が良くなっていた。
入口に置いた旅小物の棚はよく動いている。
会計脇の小物も、補充の流れが安定してきた。
客が入って、見て、手に取り、ついでに別の商品へ流れる。
まだ完璧じゃない。
でも、店は死んでいない。
「今月の粗利は、先月より伸びています」
レイン・ハルヴェイは帳簿を開きながら言った。
目の下に少し疲れはあるが、声には以前より芯があった。
「入口の旅小物が効いてますね。あとは外套と紐類を近づけた方がいいです」
「一緒に買われるもの、ですね」
「そう。客は、必要になってから探すより、目の前にあると買う」
レインはすぐにメモを取る。
コルバンも横で聞いていた。
最初の頃ほど露骨に不機嫌ではない。
まだ俺を全面的に信用しているわけではないだろうが、売上の変化は無視できないらしい。
「それと、死に筋の棚は奥に下げすぎない方がいいです。完全に隠すと、余計に動かなくなるので」
「では、見切り棚としてまとめますか」
「はい。理由を作って見せた方がいいです。『旅前の買い足し品』とか」
「なるほど」
話が進む。
こういう時間は、少しだけ落ち着いた。
剣も魔法も関係ない。
数字と流れと人の動き。
前世で何度も見てきたものに近い。
打ち合わせが終わる頃、レインが少し迷うように口を開いた。
「それと……ワイバーンの件、聞きました」
「もう商会まで?」
「商人の噂は速いですから」
レインは静かに微笑んだ。
「竜殺し、とまで言われ始めています」
「全員でやったことです」
「分かっています。ですが、噂はそう広がりません」
「そうなんですよね…」
「名は、望まなくても商品になることがあります」
その言葉は、妙に重かった。
「商品……」
「良くも悪くも、人は名前で見ます。アイリスさんがどう思うかとは別に、周囲はあなたに意味を乗せていく」
レインの言葉に、セシリアの声が重なった気がした。
民衆は分類で語らない。
見たものの恐怖と、救われた事実で語る。
俺は息を吐いた。
「気をつけます」
商会を出る頃には、空は茜色に染まり始めていた。
俺はイザベラの言葉を思い出し、人通りの多い表通りを選んだ。
学院へ戻るには少し遠回りになるが、その方が安全だ。
背後を確認する。
露骨についてくる影はない。
けれど、完全に安心はできなかった。
しばらく歩いたところで、前方が騒がしくなった。
荷馬車が道の真ん中で傾いている。
木箱がいくつか落ち、通行人が足を止めていた。御者らしい男が大声で謝っている。
「すみません! すぐ動かします!」
道は塞がれていた。
横の細道を使えば、学院方面へ抜けられる。
ただ、人通りは少ない。
俺は立ち止まった。
戻るか。
遠回りするか。
そう考えた瞬間、背後で人の流れが詰まった。
荷を担いだ男たちが、こちらへ押し寄せるように歩いてくる。
道を戻るにも、すぐには動けない。
細道へ入るしかない。
俺は剣の柄に指を添え、足を進めた。
細道は倉庫裏へ続いていた。
いつもなら荷運びの音くらいはする場所だ。
だが、今日は静かすぎる。
足音がない。
人の気配が薄い。
その時、前方に男が一人現れた。
旅人風の外套。
顔は布で半分隠している。
腰には短剣。
俺は足を止めた。
背後にも、気配。
挟まれた。
「……道を間違えましたか?」
俺はできるだけ平静に言った。
前の男は笑った。
「いや。合ってるよ」
背後から別の男の声。
「アイリス・シエーレだな」
名前を知られている。
喉が乾いた。
俺は剣を抜く。
二本。
手は震えていない。
ただ、心臓の音だけがやけに大きい。
「お前達は誰だ?目的はなんだ?」
「答えると思うか?」
前の男が一歩踏み込む。
俺は下がらない。
右足を置く。
沈ませない。
レオスの声が頭の奥に響く。
踏むな。
置くんだ。
男が短剣を抜いた瞬間、俺は先に動いた。
正面から斬り合わない。
剣先を顔の前へ走らせ、視線をずらす。
「っ」
男が半歩引いた。
その隙に横へ抜けようとした。
だが、倉庫の扉が内側から開いた。
三人目。
まずい。
白い布が視界に入る。
甘く、重い匂い。
薬。
息を止めろ。
頭では分かった。
けれど、遅かった。
わずかに吸っただけで、喉の奥が痺れる。
身体が一瞬重くなった。
俺は剣を振る。
三人目の腕を狙う。
届く。
そう思った瞬間、背後の男に手首を掴まれた。
「暴れるな。傷がつくだろうが」
「離せ……!」
肘を引く。
膝を入れようとする。
だが、足に力が入らない。
薬のせいだ。
視界が揺れる。
距離が分からない。
魔法が使えれば。
魔力圧が使えれば。
そんな考えが一瞬だけよぎって、すぐに消えた。
ないものを数えても意味がない。
今あるもので。
俺は体重を落とし、掴まれた手首を捻った。
男の指がわずかに緩む。
その瞬間、もう一人が背中に回る。
布が口元に押しつけられた。
「んっ……!」
息を止めようとする。
けれど、鼻からわずかに吸い込んでしまう。
甘い。
苦い。
重い。
膝が折れた。
「顔は傷つけるな」
誰かが低く言った。
「髪もだ。そういう依頼だろ」
「分かってるよ。面倒な注文だ」
「生きたまま、綺麗なまま。高貴な坊ちゃんは注文が多い」
高貴な坊ちゃん。
その言葉が、沈みかけた意識に引っかかった。
違う。
まだ決めつけるな。
考えようとした。
けれど、思考がどんどん沈んでいく。
手から剣が落ちる音がした。
遠い。
まるで水の底で聞いているみたいだった。
「運べ。学院の連中に気づかれる前に出すぞ」
「薬、効きすぎてないか?」
「死にはしない。そういう調合だ」
身体が持ち上げられる。
抵抗しようとしても、指一本まともに動かない。
視界の端で、夕方の光が細道の壁を赤く染めていた。
俺はその光を見ながら、必死に意識を繋ぎ止めようとした。
戻らないと。
そこまで考えて、意識が大きく揺れた。
最後に聞こえたのは、男の声だった。
「顔に傷はつけるな。髪も乱すな。そういう依頼だ」
次の瞬間、視界が黒く塗り潰された。




