第五十四話 竜の残骸
第五十四話 竜の残骸
ワイバーンが動かなくなってから、しばらく誰も声を出さなかった。
風だけが、畑の上を通っていく。
さっきまであれほど重く鳴っていた翼の音は、もうない。
地面を削った爪も、土を叩いた尾も、今はぴくりとも動かない。
倒した。
そう言えば、たぶん事実なのだと思う。
けれど、胸の中にあるのは勝利の実感ではなかった。
背中が痛い。
肩が軋む。
肺の奥にまだ熱が残っている。
指先は震えていて、膝は何度も崩れそうになる。
竜を倒した。
そんな格好いいものじゃない。
ただ、死ななかった。
今の俺にあるのは、それだけだった。
「全員、怪我の確認を」
騎士団の兵士が声を上げた。
三人のうち一人は、村人を小屋の奥へ下がらせている。
残り二人は、倒れたワイバーンの周囲に立ち、まだ動かないかを確認していた。
「小型個体だ。成体ではない」
先頭にいた兵士が、ワイバーンの頭部と翼を確認しながら言う。
「だが、学生が相手にする魔獣ではないな」
その言葉で、ローゼリアが小さく息を吐いた。
「そんなこと、戦う前に知りたかったわ」
「同感」
ニカが地面に座り込んだまま、片脇を押さえている。
「これで報酬そのままだったら、さすがに泣くよ、あたし」
「そこを気にする余裕があるなら、まだ大丈夫ね」
セシリアが呆れたように言った。
そういうセシリアも、顔色は悪い。
シルの線を何度も展開したせいか、指先がわずかに震えている。
ローゼリアの腕には、ワイバーンの爪で掠った傷がある。
ニカは脇腹を痛めている。
レオスは黙っているが、剣を握っていた手首を何度か回していた。
全員、無事とは言い難い。
でも、生きている。
その事実だけで、少しだけ息ができた。
商人が荷車のそばで膝をついていた。散らばった干し肉と果実を拾おうとして、何度も手を止めている。
「私の荷が……あれを呼んだのかもしれない」
震えた声だった。
「すまない。本当に、すまない」
「荷の匂いには反応していたと思います」
俺はゆっくり答えた。
「でも、それだけじゃないです。そもそも、この近辺にワイバーンがいたこと自体がおかしい」
騎士団の兵士が頷いた。
「その通りだ。本来、この区域でワイバーンは確認されない。少なくとも、学院経由で低危険度に指定される場所ではない」
低危険度。
その言葉が、妙に遠く聞こえた。
俺たちはリーフラットを倒しに来ただけだった。
少し金を稼いで、学院へ戻るだけのはずだった。
それが、今は目の前にワイバーンの死体がある。
何かがずれている。
そんな気がした。
「まあ……それはそれとして」
ニカがゆっくり立ち上がった。
痛そうに片脇を押さえながら、倒れたワイバーンを見つめる。
その目が、さっきまでと少し違った。
「これ、売れるよね?」
「……今、それ言うの?」
俺は思わず聞き返した。
「今考えなきゃ、誰かに持ってかれるじゃん!」
「持っていく人いる?」
「いるでしょ! ワイバーンだよ? 角、爪、鱗、牙、尾の先。絶対値段つくって!」
ニカの声に、商人が顔を上げた。
「た、確かに……ワイバーンの素材なら、加工職人が買う。角と爪は特に高い。鱗も状態が良ければ防具や装飾に使えるはずだ」
その一言で、ニカの目がさらに光った。
「ほら!」
「ほら、じゃないわよ」
ローゼリアは呆れたように言ったが、完全に反対はしなかった。
セシリアも倒れたワイバーンを見る。
「討伐した以上、素材の権利は確認が必要ね。学院経由の依頼中の出来事だから、すべて私たちのものとは限らないわ」
「えー」
「ただし、功績者として取り分が認められる可能性は高い。少なくとも、素材を記録せず放置するのは得策ではない」
「つまり?」
「取れるものは取って、報告する」
「よし!」
ニカが拳を握った。
レオスは無言で自分の剣を見た。
「硬いぞ」
「知ってる。だからみんなでやるんじゃん」
「俺は解体屋ではない」
「でも刃物の扱い上手いじゃん」
「……」
レオスは返事をしなかった。
でも、立ち去らない。
やる気はあるらしい。
騎士団の兵士も、少し考えてから言った。
「主要部位の切り出しは構わない。ただし、記録はこちらで取る。学院と騎士団へ報告が必要だ」
「お願いするわ」
セシリアが頷く。
こうして、俺たちはワイバーンの解体に取りかかることになった。
まずは角だった。
ワイバーンの頭部には、まだ若い個体らしく、成体ほど立派ではないが二本の角がある。
鈍い灰色で、根元は硬く太い。
ニカが最初に勢いよく刃を当てたが、すぐに顔をしかめた。
「硬っ。なにこれ」
「力任せだと無理だと思う」
俺は角の根元を見る。
完全な棒ではない。
表面にうっすら筋がある。
木目に近いというか、骨の流れに近いというか。
力を入れる場所を間違えると、刃の方が駄目になる。
「この筋に沿って、少しずつ入れた方がいい」
「分かるの?」
「なんとなく。工作とか、木を切る時に似てる」
「工作?」
「あー……細工仕事みたいなもの」
この世界で図工の授業と言っても通じない。
俺は言葉を濁した。
レオスが角の根元に刃を当てる。
「ここか」
「たぶん」
レオスは短く頷き、無駄のない動きで刃を入れた。
ニカが反対側を押さえ、ローゼリアが布で滑らないよう固定する。
セシリアは騎士団員に記録を取らせながら、切り出した部位の状態を確認していた。
一本目を切るだけで、かなり時間がかかった。
それでも、角が外れた瞬間、ニカは疲れを忘れたように笑った。
「よし! これ絶対高い!」
「まだ一本目よ」
ローゼリアが言う。
「もう一本ある!」
「今のをもう一回やるのね……」
結局、二本目の角を切り終えた頃には、全員が黙っていた。
疲労が戻ってきたのだ。
ワイバーンとの戦闘で削られた身体に、解体作業は想像以上に重かった。
「……無理。ちょっと休憩」
ニカが地面に座り込む。
「同感ね」
ローゼリアも近くの木箱に腰を下ろした。
セシリアは何も言わず、額に手を当てる。
レオスですら、剣を下ろして息を吐いていた。
「爪はどうするの?」
俺が聞くと、ニカが片手を上げた。
「休憩してから。爪と鱗と牙と尾先……ああ、金が落ちてる……」
「倒した魔獣を見て金って言えるの、ある意味すごいね」
「貧乏人はね、命の次に金が大事なの」
ニカは真顔で言った。
少し笑ってしまったが、言っていることは分かる。
学院では援助が禁じられている。
身分があっても、生活には金がいる。
ニカにとっては、こういう機会を逃さないことも生きる力なのだろう。
俺たちは村で水を飲み、傷を確認した。
村人たちが恐る恐る近づいてきて、何度も礼を言った。
商人も、まだ青い顔のまま頭を下げる。
「命を救われた。荷のことなど、本当は言えた義理ではないのに……」
「荷も無事な分は回収してください。原因調査に必要かもしれません」
セシリアがそう言うと、商人は何度も頷いた。
俺は少し離れた場所に置いた布袋を見る。
ネルは中で大人しくしているはずだった。
少なくとも、そう思っていた。
「よし」
しばらくして、ニカが立ち上がる。
「爪いこ、爪。あと鱗もできるだけ剥がそ」
「本当に元気ね、あなた」
「元気じゃないけど、金があたしを立たせてる」
ニカがワイバーンの死体へ向かう。
俺たちも続いた。
そして、全員が足を止めた。
「……は?」
ニカの声が、乾いた。
ワイバーンの残骸が、明らかに減っていた。
完全に消えているわけではない。
角を切った頭部や、硬い爪の一部、鱗の欠片は残っている。
けれど、胴体の肉や血の濃い部分、裂けた翼膜の周辺、魔素が濃く残っていそうな箇所が、溶けるように大きく削れていた。
その中心に、ネルがいた。
薄い水色の丸い身体が、ワイバーンの血が染みた土の上でぽよんと揺れている。
「……ネル?」
俺は名前を呼んだ。
ネルは返事のように跳ねた。
「ちょ、待って」
ニカが震える手でワイバーンの残骸を指す。
「あたしの爪。鱗。牙。カネェーーーーーー」
「ニカのものではないでしょ」
セシリアが冷静に言った。
「今からそうなる予定だったの!」
ニカの悲鳴が村に響いた。
ローゼリアは呆然とネルを見ていた。
「食べたの? これを?」
「スライムは魔獣の死骸や腐敗物を分解することがあるとは聞くわ」
セシリアの声が低くなる。
「でも、ワイバーンの残骸をここまで早く吸収するなんて、普通ではない」
レオスも短く言った。
「異常だな」
騎士団の兵士が一歩近づく。
「そのスライムは、君たちの管理下か?」
俺は背筋を伸ばした。
「はい。学院の許可は取っています。ただ、ここまで勝手についてきて……今回のことは、必ず報告します」
「そうしてくれ。今の吸収速度は、通常のスライムとは違う」
兵士の目は警戒していた。
当然だ。
俺も、どう受け止めていいか分からなかった。
ネルは小さい。
弱そうで、丸くて、ぽよぽよしている。
名前だって、粘体だからネルにしただけだ。
でも今、その小さな身体はワイバーンの残骸を吸収した。
薄い水色の奥で、一瞬だけ淡い紫の光が揺れた気がした。
見間違いかもしれない。
ただの光の反射かもしれない。
けれど、胸の奥に小さな違和感が残った。
「ネル……何食べたか分かってるの?」
ぽよん。
分かっていなさそうだった。
「絶対分かってない顔してる」
ローゼリアが言う。
「顔ないけどね」
「あるのよ、そういう感じが」
少しだけ、空気が緩んだ。
けれどセシリアだけは、ネルをじっと見ていた。
「笑いごとではないわ。ネルは今、ワイバーンを吸収したのよ」
「うん。分かってる」
「イザベラ教官に報告しなさい。隠すべきではない」
「隠さないよ」
それだけは、はっきり答えた。
ネルを部屋に置く許可をもらった時、イザベラは言った。
感情だけで魔獣を飼えると思うな。
記録をつけろ。
異常があれば報告しろ。
今のこれは、間違いなく異常だ。
その後、残った爪や鱗、牙の一部だけを回収した。
ニカは何度も「本当ならもっとあったのに」と嘆いていたが、角二本は無事だったため、最終的には少しだけ機嫌を戻した。
「でもさ」
商人がぽつりと言った。
「あんたたちは、竜を落としたんだ」
「竜じゃないですけどね」
俺は反射的に返した。
「分類上は亜竜だな」
騎士団の兵士が補足する。
けれど、村人の一人が首を振った。
「でも、空を飛ぶ竜みたいな魔獣だったじゃないか」
「そうだ。あんなもの、俺たちには竜と同じだ」
「金髪の子が、最後に刃を突き立てたんだろう?あんたは竜殺しの嬢ちゃんだよ」
言葉が、少しずつ形を変えていく。
違う。
俺一人じゃない。
そう言おうとして、言葉が詰まった。
村人たちは、分類で見ていない。
誰がどの役割をしたかを、正確に数えているわけでもない。
恐怖があった。
助かったという事実があった。
そして最後に、俺が刃を突き立てた姿があった。
「民衆は分類で語らないわ」
セシリアが小さく言った。
「見たものの恐怖と、救われた事実で語るのよ」
「……そういうものなの?」
「そういうものよ」
俺は倒れたワイバーンの残骸を見る。
竜殺し。
そんな言葉に、まだ実感はない。
俺たちはただ、生き残っただけだ。
全員で、必死に。
けれど、俺がどう思うかとは別に、周囲は俺を見ている。
俺の知らない形で、アイリス・シエーレという名前を作っていく。
学院へ戻る準備が進む中、ネルを布袋に戻した。
ネルは何事もなかったように、袋の中でぽよんと跳ねる。
けれど、その薄い水色の奥に、一瞬だけ淡い紫が揺れた気がした。
俺だけじゃない。
この小さなスライムも、少しずつ変わっている。




