第四十九話 届かない剣
第四十九話 届かない剣
翌朝、目が覚めると、部屋の隅でネルがぽよぽよと揺れていた。
木箱の中に敷いた湿った草の上で、丸い身体を小さく弾ませている。
昨日と同じ、薄い水色。
他のスライムより二回りほど小さい身体。
目も口もないのに、こちらを見ているような気がする。
……気のせいだろう。
俺は寝台から起き上がり、机の上に置いていた紙を引き寄せた。
イザベラに言われた観察記録だ。
色、薄い水色。
大きさ、通常のスライムより二回りほど小さい。
形、丸い。
動き、ぽよぽよしている。
異常、なし。
「……それは観察記録なの?」
隣から冷ややかな声が飛んできた。
セシリアだった。
すでに身支度を整え、白い髪を綺麗に流している。
朝から隙がない。
「一応、記録だよ」
「感想にしか見えないわ」
「最初はこんなものでしょ」
「魔獣を部屋に置いている自覚が薄すぎるわよ?」
「目は離してないよ」
「そういう問題かしら」
セシリアは呆れたように息を吐いた。
ネルは木箱の中で、ぽよんと跳ねる。
それを見て、セシリアの眉がわずかに動いた。
「……今、跳ねたわよ」
「たぶん返事じゃない?」
「魔獣に返事を期待しないで」
「まぁまぁ」
そう言いながら、俺は木箱の位置を確認した。
机にも、ベッドにも、セシリアの荷物にも近くない。
蓋は完全には閉めず、けれど勝手に出られない程度にずらしてある。
イザベラの条件は、目を離さないこと。
異常があれば報告すること。
寮内を勝手に動き回らせないこと。
だから本当なら部屋に置いていくのも少し気になる。
だが授業に連れていくわけにもいかない。
「勝手に出たら、すぐ教えて」
「私に見張れと言うの?」
「見張れとは言ってない。ただ、もし見えたら」
「同じようなものじゃない」
セシリアは不満そうに言ったが、完全に拒否はしなかった。
「私の荷物に近づいたら、すぐにあなたへ突き返すわ」
「それでいいよ」
「よくないわよ」
そう言いながらも、セシリアはそれ以上文句を重ねなかった。
俺は木剣を手に取り、軽く握りを確かめる。
今日は剣術と体術を含めた戦闘訓練の日だ。
魔法の顕現訓練でも、魔力圧そのものの制御訓練でもない。
実際に相手と向かい合い、動き、崩し、打ち合う訓練。
俺にとっては、今できることを測るにはちょうどいい。
訓練場に着くと、すでに何人もの生徒が集まっていた。
契約者クラスと非契約者クラスの合同訓練らしく、見慣れた顔も、まだ名前を知らない顔も混ざっている。
その端に、レオス・バルドがいた。
深い緑の髪。
無駄のない姿勢。
片手剣を持つ手は自然で、肩にも余計な力が入っていない。
昨日の言葉が、まだ胸に残っている。
契約した者は、失敗しても契約者だ。
契約できなかった者は、どれだけ積み上げても非契約者だ。
俺はその意味を、まだ全部は理解できていない。
けれど、避けていい相手ではないことだけは分かる。
やがてイザベラが訓練場に現れた。
「今日は剣術、体術を含めた戦闘訓練を行う」
淡々とした声が、訓練場に通る。
「魔力圧を扱える者は、使用して構わん。実戦で使えるものを、訓練で封じる意味はない」
その言葉に、生徒たちの空気が少し変わった。
魔力圧を使える者と、使えない者。
使えるが未熟な者。
使えないが、それを補うしかない者。
同じ木剣を持っていても、同じ条件ではない。
けれど、イザベラの言う通りだ。
実戦で、相手がこちらに合わせてくれるはずがない。
「相手は各自で選べ。危険と判断した場合はこちらで止める」
周囲の生徒たちが動き始める。
俺は迷わなかった。
「レオス」
端にいた少年が、静かにこちらを見る。
「何だ」
「相手してくれる?」
周囲が少しざわついた。
契約者である俺が、非契約者であるレオスを名指ししたからだろう。
それが好奇なのか、嘲りなのか、驚きなのかは分からない。
レオスは俺を見たまま、少しだけ目を細めた。
「俺でいいのか」
「あなたがいい」
言うと、レオスは短く息を吐いた。
「手は抜かない」
「それでいい」
俺たちは訓練場の一角へ移動した。
イザベラが一瞥する。
止める様子はない。
木剣を構える。
前回は、三回転の変則的な動きで判定だけは取った。
だが、あれは勝ちじゃない。
実戦なら脇腹を裂かれていた。
同じ手は通じない。
そんなことは分かっている。
開始の合図が落ちた。
先に動いたのは俺だった。
右足で踏み込み、木剣を低く走らせる。
レオスの剣を外から押さえ、そのまま体を入れ替えるつもりだった。
だが、剣が届く前に、レオスの足が半歩ずれた。
俺の剣は空を切る。
次の瞬間、手首に軽い衝撃。
「っ」
木剣が弾かれた。
レオスの剣先が、俺の喉元で止まっている。
「一本」
イザベラの声が響いた。
早い。
派手な動きじゃない。
魔法でもない。
それなのに、こちらの動きが始まる前から潰されたような感覚だった。
「もう一回」
俺が言うと、レオスは黙って構え直した。
二戦目。
今度はまっすぐ入らない。
剣先を見せてから、左へ抜ける。
足払いを混ぜ、体ごと距離を詰める。
だが、レオスは崩れなかった。
踏ん張る足が動かない。
木剣を持つ腕がぶれない。
薄く、けれど確かに魔力圧が身体に乗っている。
第二層、定着。
派手さはない。
ただ、身体と剣の芯がわずかに強くなる。
それだけで、俺の崩しは形になる前に止められた。
肩を取られ、体勢が流れる。
気づいた時には、背中から地面に落ちていた。
「二本目」
土の匂いが近い。
痛い。
でも、動けないほどじゃない。
「もう一回」
「まだやるのか」
レオスが見下ろしてくる。
「やる」
「勝てると思っているのか」
「今は無理だよ」
「なら、なぜ続ける」
俺は体を起こし、膝についた土を払った。
「一回で分かるほど、私は器用じゃない」
レオスは黙った。
「考えて、試して、失敗して、直す。そうしないと、何も変わらないでしょ」
「……変な考え方だな」
「よく言われる」
前世でも、失敗なんていくらでもあった。
売れない商品。
動かない広告。
噛み合わない人員配置。
数字に出ない施策。
そこでいちいち終わったと思っていたら、会社なんて回らなかった。
考える。
試す。
失敗する。
直す。
それを繰り返すしかなかった。
戦いも、たぶん同じだ。
今の俺はレオスに勝てない。
それは分かった。
なら次は、どこで負けているのかを見る。
足か。
間合いか。
剣を置く位置か。
踏み込む前の呼吸か。
負けたことより、そこを見ないまま終わる方がまずい。
三戦目。
俺は距離を詰めなかった。
レオスの足を見る。
剣を見る。
肩を見る。
動き出しの前に、どこが変わるか。
どこで重心が移るか。
だが、見ることに意識を割いた分、反応が遅れた。
レオスの木剣が俺の剣の根元を押さえ、次の瞬間には脇腹で止まっていた。
「三本目」
四戦目。
フェイントを入れる。
上に見せて下。
下に見せて横。
レオスは乗らない。
こちらの剣を見ていない。
肩と足と、距離を見ている。
剣先だけを揺らしても、体が動かなければ意味がない。
それを見抜かれている。
木剣が腕に当たり、痺れが走る。
「四本目」
周囲のざわめきが大きくなった。
「また負けたぞ」
「契約者だよな?」
「双子の悪魔って、結局何なんだよ」
「契約の時だけ派手だったんじゃない?」
声は聞こえる。
聞こえている。
だが、今はそちらへ意識を向ける余裕がない。
ローゼリアが何か言いかけたのが視界の端に映った。
セシリアがそれを制するように、わずかに手を上げる。
ニカは珍しく茶化さず、じっとこちらを見ていた。
「レオス、普通に強いじゃん……」
誰かの声に混じって、ニカの呟きが聞こえた。
そう。
レオスは強い。
魔法はない。
悪魔もいない。
派手な力もない。
けれど、積み上げたものがある。
木剣の角度。
足の置き方。
間合いの取り方。
魔力圧を乗せる場所。
相手の動きを削る位置。
全部が地味で、だからこそ崩しにくい。
「もう一回」
俺は言った。
レオスは木剣を下ろさない。
「同じ負け方をするなら意味がない」
「そうだね、ごめん。しないようにする」
「できるのか」
「やってみる」
「……本当に変な奴だな」
レオスはそう言って、構え直した。
五戦目。
俺は攻め急がなかった。
呼吸を整え、半歩だけ距離を取る。
レオスが動く。
剣が来る。
いや、剣じゃない。
先に足だ。
俺は踏み込みを止め、横へ逃げる。
その瞬間、レオスの剣先が進路に置かれていた。
「っ」
避けた先に、もう答えがあった。
首筋の手前で木剣が止まる。
「五本目」
届かない。
剣が届かないのではない。
考えが届いていない。
俺が一つ見ている間に、レオスは二つ先を置いている。
「もう一回」
「アイリス」
低い声が飛んだ。
イザベラだった。
俺は振り返る。
「続けます」
「止めるとは言っていない」
イザベラは淡々と言った。
「ただし、次からは勝つためだけに振るな。確認するために振れ」
「確認……」
「お前は今、負けている。なら、どこまでなら通るのかを見ろ。全部を一度に直そうとするな」
イザベラの視線が鋭くなる。
「一つずつだ」
俺は息を吐いた。
「はい」
六戦目。
勝とうとしない。
いや、勝つことを捨てるわけじゃない。
ただ、全部を一度に取りにいかない。
まず足。
踏み込みの深さ。
レオスへ向かって、半歩。
そこで止まる。
レオスの剣が動く。
俺は受ける。
弾かれる。
だが、前より木剣を落とすまでの時間が少しだけ伸びた。
「遅い」
レオスが言う。
「右足が沈む。踏み込む前に分かる」
「……なるほど」
「次」
七戦目。
右足を意識する。
沈ませない。
体を先に流さない。
少しだけ、レオスの剣に触れられた。
その直後、手首を返されて弾かれる。
「力が外に逃げている」
「分かりやすく言ってくれる?」
「握りすぎだ」
「なるほどね」
八戦目。
握りを緩める。
だが、今度は剣がぶれる。
レオスの木剣が俺の剣を押し込んでくる。
耐えようとした瞬間、体勢が崩れた。
「緩めすぎだ」
「注文が細かい」
「細かいから剣になる」
返す言葉がなかった。
九戦目。
十戦目。
勝てない。
一度も勝てない。
けれど、最初とは少し違う。
最初は何をされたのか分からなかった。
今は、分からない部分と、分かった部分が分かれてきている。
右足。
握り。
剣を出す角度。
踏み込む前の呼吸。
全部できていない。
でも、全部見えなかったわけじゃない。
訓練終了の鐘が鳴った時、俺は膝に手をついて息をしていた。
手首が痺れている。
肩が重い。
膝には土がついている。
木剣を握る指が少し震えている。
レオスは大きく息を乱してはいなかった。
ただ、額にはうっすら汗が浮いている。
「お前は、剣が下手だ」
「それは知ってるよ」
「体の使い方も荒い」
「それも知ってる」
「だが、見る目は悪くない」
俺は顔を上げた。
「それ、褒めてるの?」
「事実だ」
レオスは木剣を下ろした。
「次は、一つずつ直せ」
「……教えてくれるんだ」
「勘違いするな。何度も同じ負け方をされると、訓練にならない」
「そっか」
少しだけ笑うと、レオスは不機嫌そうに目を逸らした。
そこへ、ローゼリアが足音荒く近づいてきた。
「あんた、馬鹿なの?」
「今日はさすがに否定できないね」
「何回負ければ気が済むのよ」
「勝てるまでだよ」
「本当に馬鹿じゃないの」
ローゼリアは怒っている。
でも、その怒りの奥にあるものくらいは、もう分かる。
「怪我は?」
「大丈夫。ちょっと痛いだけ」
「それを大丈夫とは言わないでしょ!」
ニカも近づいてきて、俺とレオスを交互に見た。
「いやー、レオスやば。地味に強すぎ」
「地味に、は余計だ」
「褒めてる褒めてる」
「ふん」
ニカはけらけら笑った。
その横で、セシリアが静かに口を開く。
「無様だったわね」
「あはは、私もそう思う」
「でも、最初より最後の方がましだった」
セシリアは腕を組んだまま、俺を見る。
「勝とうとしていた時より、確認し始めてからの方が動きが少しだけ整ったわ」
「少しだけ?」
「ええ。ほんの少しだけ」
「セシリアは手厳しいねー」
「事実だもの」
レオスと同じことを言う。
俺は苦笑した。
その日の訓練は、俺にとって散々だった。
契約者でありながら、非契約者のレオスに負け続けた。
魔法も使えない。
魔力圧も使えない。
奇策も通じない。
周囲からどう見えたかなんて、考えるまでもない。
けれど、不思議と心は折れていなかった。
負けた。
それは事実だ。
ただ、何も残らなかったわけじゃない。
部屋に戻ると、ネルは木箱の中で丸くなっていた。
俺が扉を開けると、ぽよんと一度跳ねる。
「……ただいま」
言ってから、自分で少し呆れた。
「魔獣に挨拶するのね」
セシリアが後ろから言った。
「まぁ…一応ね」
「今日は酷い顔ね」
「そんなに?」
「ええ。汗でぐちょぐちょよ」
「はは、たくさん動いたからね」
俺は机に向かい、紙を広げた。
ネルの観察記録の横に、別の紙を置く。
今日の訓練のことを書くためだ。
一戦目。手首を弾かれる。
二戦目。足を崩される。
三戦目。見ることに意識を割きすぎて遅れる。
四戦目。フェイントが体と連動していない。
五戦目。避けた先を読まれる。
六戦目以降、右足、握り、角度。
書けば書くほど、できていないことばかりだった。
でも、白紙よりはいい。
考えて、試して、失敗して、直す。
前世で何度もやったことだ。
なら、この世界でもやるしかない。
木箱の中で、ネルがぽよんと跳ねた。
「……お前はいいよね。丸いだけで」
返事のように、ネルがもう一度跳ねる。
もちろん、意味があるのかは分からない。
たぶん、たまたまだ。
俺は苦笑して、紙に次の一行を書いた。
――次は、右足から直す。
勝てない理由は、まだ山ほどある。
けれど、最初に直す場所だけは見えた。




