第四十八話 小さな討伐対象
第四十八話 小さな討伐対象
席の意味。
立つ場所の意味。
それを考えたところで、すぐに答えが出るわけではなかった。
契約者側にいる自分。
非契約者側にいるレオス。
その間にある、見えない線。
考えれば考えるほど、頭の中だけが重くなる。
だからといって、立ち止まっていれば何かが変わるわけでもない。
今の俺にできることは、目の前のことを一つずつやることだけだった。
「アイリス、金ほしくない?」
その目の前のことは、思ったより俗っぽい形でやってきた。
訓練後の廊下で、ニカ・ラーテラルがこちらへ駆け寄ってきた。
ラーテルの耳がぴこぴこと動き、尻尾も機嫌よさそうに揺れている。
「話の入り方が怪しすぎるよ、ニカ」
「怪しくないって。生活費稼ぎ。学院経由の実地補助依頼」
「実地補助依頼?」
「そ。最低危険度。スライム駆除。楽そうだし、飯代くらいにはなるっしょ」
スライム駆除。
名前だけ聞けば、いかにも初心者向けの依頼だ。
ただ、俺は少しだけ引っかかった。
「私、正式なギルド登録はまだできないはずだけど」
「だから学院経由。正式な冒険者登録じゃなくて、学院が間に入るやつ。危ないのは回ってこないし、報酬も安い。でも、ないよりマシ」
「ずいぶん詳しいね」
「金になる話は覚えるタイプなんで」
ニカは胸を張った。
そこは得意げに言うところなのか分からないが、ニカらしいと言えばニカらしい。
学院には、ギルドや街から回される低危険度の補助依頼があるらしい。
正式な冒険者として受けるものではなく、学院の保証付きで行う実地訓練のようなものだという。
危険度は最低。
報酬も最低。
だが、学生にとっては実地経験と小遣い稼ぎを兼ねられる。
「で、行く?」
「今からいくの?」
「今から。こういうの、早い者勝ちなんだよね。だいたい金欠組がすぐ取るから」
「ニカも金欠なの?」
「金は常に足りないものっしょ」
「あはは、なるほどね」
「だって飯食うし。道具買うし。学院って、地味に金かかるし」
それは分かる。
俺も今すぐ生活費に困っているわけではない。
ハルヴェイ商会からの報酬もあるし、最低限の蓄えもある。
だが、金があって困ることはない。
それに、訓練場で答えの出ないことを考え続けるよりは、外へ出た方がましな気もした。
「分かった。じゃあ行くよ」
「よし、決まり!」
ニカは俺の返事を聞くなり、満足そうに笑った。
「ちなみに、道具は?」
「支給される。スライム用の棒みたいなやつ。剣でもいけるけど、刃が汚れるし、感触きもいからあんまおすすめしない」
「経験者なの?」
「一回だけ。感触最悪だった」
それを聞いて少しだけ行く気が削がれたが、もう頷いたあとだった。
学院で簡単な手続きを済ませ、俺たちはヴァリスの外縁へ向かった。
街の中心部から離れるにつれて、石畳は少しずつ粗くなり、建物の密度も薄くなる。
やがて視界の先に、農地と排水路が見えてきた。
湿った土の匂い。
刈り取られた草の残り。
排水路の端に溜まった腐葉土。
スライムが発生しやすいというのも、なんとなく分かる場所だった。
「スライムって、基本は魔獣なんだよね?」
「そ。めっちゃ弱いけど魔獣」
「人を襲うの?」
「ほぼない。でも腐ったもんとか、魔獣の死骸とか、そういうの溶かして吸うから、増えると地味に迷惑。畑の端とか倉庫裏とかに溜まるし、作物も傷むし、臭いし」
「掃除屋みたいなものでもあるのか」
「まあ、森とかならそうかも。でも人の近くに出ると嫌われる。そういうもんっしょ」
ニカは支給された短い棍棒を肩に乗せて歩く。
俺も同じものを受け取っていた。
木製だが、先端だけ硬い樹脂のようなもので補強されている。
やがて、排水路沿いのぬかるんだ場所に、薄い水色の塊がいくつか見えた。
丸く、柔らかそうで、ぷるぷると揺れている。
「あれ?」
「そ。スライム」
ニカは棍棒を構えた。
「核っぽいとこを潰せば消えるから。あんま深く考えなくていいよ」
「核っぽいところ?」
「中に少し濃い色の部分あるっしょ。そこ」
言われて目を凝らすと、確かにスライムの中心近くに、少しだけ色の濃い部分があった。
ニカが先に動いた。
「うりゃっ」
軽い掛け声とともに棍棒が振り下ろされる。
ぽよん、と間の抜けた音を立てて、スライムの身体が大きくへこんだ。
「うわ、やっぱ感触きもっ」
「慣れてるんじゃないの?」
「慣れててもきもいもんはきもいっしょ」
ニカは文句を言いながらも手際よく核を潰していく。
スライムは抵抗らしい抵抗をしない。
時々、身体を跳ねさせる程度だ。
俺も棍棒を握り直し、一匹に向き合った。
動きは遅い。
攻撃してくる様子もない。
それでも、魔獣は魔獣だ。
狙う場所を確認し、棍棒を振り下ろす。
柔らかい感触が手に伝わった。
次の瞬間、中心の濃い部分が潰れ、スライムの身体が水のように崩れる。
嫌な感触ではあった。
ただ、戦闘というより、作業に近い。
「ね? 楽っしょ」
「感触以外はね」
「でしょ」
ニカは笑いながら、次のスライムへ向かう。
その時だった。
群れの端に、一匹だけ小さい個体がいるのに気づいた。
他のスライムより二回りほど小さい。
薄い水色の身体は丸く、泥の上でぽよぽよと頼りなく揺れている。
餌場になっている腐葉土へ近づこうとするたび、他のスライムに押し出される。
そのたびに丸い身体がぷにっと潰れ、少し遅れて元の形に戻った。
悪意があるのかどうかは分からない。
そもそも、スライムにそんなものがあるのかも分からない。
ただ、その小さな個体だけが、群れの中でうまく場所を取れていないようには見えた。
「ちっちゃ」
ニカも気づいたらしい。
「あれも対象っしょ。小さいうちにやっとこ」
ニカが棍棒を持ち上げる。
「ちょっと待って」
「ん?」
「あれは……いい」
「いいって、討伐依頼だけど」
「他のを先に片付けよう」
自分でも、なぜ止めたのか分からなかった。
小さいから。
弱そうだから。
他のスライムに押し出されていたから。
理由を並べようと思えば並べられる。
でも、どれも決定的ではない。
ただ、あれまで一緒に潰す気にはなれなかった。
ニカは少しだけ俺を見た。
それから、肩をすくめる。
「まあ、アイリスがそう言うならいいけど」
「なんか…ごめん」
「いいって。数足りれば問題ないっしょ」
ニカは深く聞いてこなかった。
そういうところは、意外と見ている。
俺たちは残りのスライムを討伐していった。
作業自体は難しくなかった。
泥に足を取られないようにしながら、核を狙って潰す。
それだけだ。
途中で一度、ニカが足を滑らせかけて「うわっ」と叫んだくらいで、大きな問題は起きなかった。
依頼に必要な数を確認し、証明用の核片を袋に入れる。
「よし、終わり。飯代ゲット」
「本当に飯代くらいなんだ」
「期待しすぎると泣くよ」
ニカはそう言って笑い、棍棒を肩に担いだ。
俺も帰ろうとして、一歩踏み出す。
ぽよん。
背後で小さな音がした。
「ねえ、アイリス」
「何?」
「あれ、ついてきてない?」
「気のせいじゃない?」
「気のせいで済ませる距離じゃないって。めっちゃ足元いるし」
振り返る。
さっきの小さいスライムが、俺の少し後ろでぽよぽよ揺れていた。
目も口もない。
表情なんて分かるはずもない。
それなのに、なぜかこちらを見ているような気がした。
「……なんで」
「懐かれたんじゃない?」
「スライムに?」
「知らんけど」
ニカはしゃがみ込み、指でつつこうとして、途中でやめた。
「これ、どうすんの?」
「どうするって……」
「ついてきてるし」
「放っておけば戻るんじゃない?」
俺はそう言って歩き出した。
ぽよん。
ぽよん。
小さいスライムは、少し遅れてついてくる。
止まる。
スライムも止まる。
歩く。
スライムも、ぽよぽよと跳ねる。
「めっちゃついてくるじゃん」
「……」
「名前つけたら?」
「名前?なんで?」
「呼びにくいじゃん。スライムって呼ぶのも雑だし」
「そもそも連れて帰るって決めてないよ」
「でもついてきてるし」
ニカの理屈は雑だった。
ただ、状況としては間違っていない。
俺は足元の小さな丸い粘体を見下ろした。
「じゃあ…スライムって、粘体だよね」
「まあ、そうじゃない?」
「じゃあ、ネルでいいんじゃない」
「粘るからネル?」
「そんな感じかな」
「雑っ。でも可愛いからアリ」
ニカが笑う。
ネル、と呼ばれた小さいスライムは、ぽよんと一度跳ねた。
名前に反応したのか、たまたまなのかは分からない。
たぶん、たまたまだ。
「で、ネルどうすんの?」
「……勝手に寮へ連れて帰るわけにはいかない」
「まあ、魔獣だしね」
「イザベラ先生に確認する」
「真面目か」
「だって魔獣だよ?」
「それはそう」
小さい。
丸い。
弱そう。
ほとんど害もなさそう。
けれど、スライムは魔獣だ。
討伐対象になる生き物を、勝手に学院の寮へ持ち込んでいいはずがない。
俺はネルをどう運ぶべきか少し迷った。
結局、支給品を返すための空いた木箱に、湿った草を敷いて入れることにした。
ネルは抵抗しなかった。
ただ、木箱の中で丸くなって、ぽよぽよと揺れている。
「なんか普通に収まってる」
「本当に何なんだろうね」
「スライムっしょ」
「それは分かってるけど…」
学院へ戻る頃には、日が少し傾き始めていた。
依頼の報告を済ませ、報酬を受け取る。
確かに、ニカの言う通り大きな金額ではない。
だが、昼食数回分にはなる。
ニカは報酬袋を手の上で弾ませた。
「よし、これで明日の飯が少し豪華になる」
「使うの早くない?」
「金は使うためにあるんで」
「貯めるためでもあると思うけど」
「アイリス、そういうとこ商人っぽいよね」
「否定はしないけどね」
そんな話をしながら、俺は木箱を抱えてイザベラのもとへ向かった。
事情を説明すると、イザベラはしばらく無言だった。
そして、木箱の中のネルを見下ろす。
「討伐依頼に行って、討伐対象を連れて帰ってきたのか」
「……そうなります」
「お前は何をしている」
「私にも少し分かりません」
イザベラは眉間にしわを寄せた。
怒鳴りはしない。
だが、明らかに呆れている。
ニカは隣で口笛を吹くふりをしている。
巻き込んだ本人なのに、他人事の顔をしていた。
「スライムは最低危険度の魔獣だ。通常、人に害を与えることは少ない。だが、魔獣であることに変わりはない」
「はい」
「寮に入れるなら、管理責任はお前が持て」
「では……」
「許可は出す。ただし条件付きだ」
俺は背筋を伸ばした。
「目を離すな。寮内を勝手に動き回らせるな。異常があればすぐに報告しろ。他の生徒に被害や迷惑が出た場合は、即座に学院側で処分する」
「はい」
「それと、記録をつけろ」
「記録…ですか?」
「餌、動き、色、形、魔素反応。変化があれば残せ。拾ったなら観察しろ。感情だけで魔獣を飼えると思うな」
イザベラらしい言い方だった。
許可は出す。
だが、甘くはない。
「分かりました」
「なら行け」
「ありがとうございます」
頭を下げ、木箱を抱える。
去り際、イザベラがもう一度だけ言った。
「アイリス」
「はい」
「可愛いから安全、とは考えるな」
「分かっています」
「ならいい」
それ以上、イザベラは何も言わなかった。
部屋へ戻ると、セシリアが机に向かっていた。
俺が木箱を抱えて入った瞬間、紫の瞳がこちらへ向く。
「……それは何?」
「ス、スライム…だよ」
「見れば分かるわ。なぜ部屋にいるのかと聞いているの」
「許可は取ったよ」
「そういう問題ではないでしょう」
セシリアは椅子から立ち上がり、木箱の中を覗き込んだ。
ネルは丸くなって、ぽよぽよ揺れている。
目も口もない。
ただ、小さい。
「……小さいわね」
「他のより二回りくらい小さかった」
「それで連れてきたの?」
「ついてきたから」
「理由が雑すぎるわ」
「そうなんだけど…」
セシリアは額に手を当てた。
「私の荷物に近づけないで」
「分かった」
「机にも、ベッドにも、服にもよ」
「分かってる」
「絶対よ」
「分かったって」
セシリアはまだ不満そうだったが、それ以上は言わなかった。
イザベラの許可が出ている以上、無理に追い出すつもりはないらしい。
俺は部屋の隅に木箱を置いた。
湿った草を少し足し、ネルの様子を見る。
ネルは箱の中で一度だけぽよんと跳ね、それから丸く収まった。
そうして、討伐対象だったはずの小さなスライムは、俺の部屋の隅でぷるぷると揺れることになった。
名前はネル。
理由は、粘体だから。
……我ながら、雑だとは思う。
けれど呼んでみると、ネルは返事をするように小さく跳ねた。
たまたまかもしれない。
たぶん、たまたまだ。
その日から、俺の部屋には小さな魔獣が一匹増えた。




