第四十五話 魔力圧
第四十五話 魔力圧
授業が終わる頃には、教室の空気は朝とは別物になっていた。
悪魔と契約した者たちの教室。
昨日までは、その言葉に少し浮ついた響きがあったのかもしれない。
けれど今は違う。
ローゼリアは荊のようなものを一瞬だけ形にした。
セシリアは見えない細線のような兆候で紙の端を揺らした。
ニカは拳に何かが溜まる感覚を掴み、ダリウスでさえ、荒いながらも机を鳴らす程度には抑えていた。
そして俺だけが、何も起こせなかった。
ラグナも、ルナも、確かに俺の中にいる。
それなのに、外から見える事実としては何もなかった。
席を立つと、ローゼリアがすぐにこちらへ歩いてきた。
「アイリス、一人で行くの?」
「呼ばれただけだよ」
「だから心配なのよ!」
言い方はきつい。
でも、その目は本気で俺を案じていた。
「大丈夫。訓練場に行くだけだから」
「あんたの、その“大丈夫”が一番信用できないのよ」
ローゼリアは不満そうに眉を寄せる。
その横から、セシリアが腕を組んだまま口を挟んだ。
「初日から教師に呼び出されるなんて、騒がしい人ね」
「心配してるの?」
「してないわ。あなたがまた面倒を増やしそうだから見ているだけよ」
「それを心配って言うんじゃない?」
「言わないわ」
セシリアは即答した。
けれど、朝よりも少しだけ声の棘が薄い気がした。
「放課後呼び出しとか、アイリス目立ちすぎじゃん」
ニカが椅子の背に寄りかかりながら、にっと笑う。
「あたしでもまだ呼び出されてないのに」
「呼び出されたいの?」
「内容によるかなー。飯付きなら行く」
「絶対違うと思うけど…」
「だよねー」
軽い声だった。
少しだけ救われる。
さっきまで教室中の視線が重かった。
ダリウスの言葉も、まだ胸の奥に刺さっている。
それでも、俺は完全に一人ではなかった。
「行ってくる」
そう言って、俺は教室を出た。
放課後の訓練場は、夕方の光に照らされていた。
広い砂地。
壁際に並ぶ木剣と模擬剣。
いくつもの的。
魔法訓練用らしい黒ずんだ石壁。
隅には、防護用の結界石らしきものが等間隔に置かれている。
ここは学ぶ場所であり、戦うための場所でもあるのだと、見ただけで分かった。
訓練場の中央には、すでにイザベラ・クロウが立っていた。
黒い眼帯。
暗い赤色の長髪。
風に揺れる、左腕のない空の袖。
腰には剣。
教室よりも、ここにいる方が似合っていた。
戦場の人間。
そう思った印象は、間違っていなかったらしい。
「逃げずに来たか」
「呼ばれたので」
「その返しができるなら、折れてはいないな」
イザベラは小さく笑ったように見えた。
ただし、優しい笑みではない。
状態を測るような顔だった。
「悪魔が形にならないなら、悪魔以外を鍛えろ」
いきなり本題だった。
「まずは魔力圧だ」
「魔力圧……?」
「魔法ではない」
イザベラは短く言った。
「自分の中にある魔力が、感情と結びつく。怒り、恐怖、闘志、守りたいという衝動。そういったものに引かれて、蓋が外れたように魔力が外へ漏れ出す。あるいは押し出される。それが圧になる」
俺は黙って聞いた。
「契約者だけのものでもない。非契約者でも、訓練すれば扱える」
その言葉に、胸の奥がかすかに軋んだ。
魔法ではない。
契約者だけのものでもない。
感情と結びつき、蓋が外れるように外へ出る力。
路地裏の記憶が、脳裏に浮かんだ。
赤い髪の娘。
橋から落とした。
今度こそ確実にやる。
胸の奥から溢れた、あの圧。
「……先生」
「あ?」
「それ、契約前でも起こることはあるんですか?」
イザベラの青い右目が、わずかに細くなった。
「理屈の上ではある。だが、狙ってできる奴は少ない。大半は、自分が何をしたのかも分からん」
喉が乾いた。
「……たぶん、私、それをやっています」
イザベラは何も言わなかった。
続きを促すように、ただこちらを見ている。
「契約の前です。路地裏で、男三人を倒しました。魔法を使ったつもりはありません。ただ、怒って、守りたいと思って……気づいたら、三人とも倒れていました」
「怪我は」
「外傷は、たぶんそこまで。でも、ただ気絶しただけには見えませんでした。目の焦点が合ってなくて、呼吸も乱れていて……何か、大事な部分が壊れたみたいに見えました」
言葉にすると、改めて喉の奥が冷えた。
守りたかった。
止めたかった。
でも、あの時の俺は何をしたのか分かっていなかった。
イザベラはしばらく黙っていた。
そして、地面に落ちていた木剣を拾い、その先で砂地に一本の線を引いた。
「話だけで断定はしない」
そう前置きしてから、続ける。
「だが、内容だけ聞けば、第一層・放出のフェーズ1――偶発に近い」
「第一層……?」
「魔力圧には大きく三つの段階がある」
イザベラは砂地に、さらに二本の線を引いた。
「第一層。放出。感情によって魔力の蓋が外れ、外へ漏れ出す、あるいは押し出される段階だ。威圧、重圧、相手を押し込む圧になる」
木剣の先が、次の線へ移る。
「第二層。定着。圧を身体や武器に留める。自己強化、武器強化だ。契約者なら、魔法への上乗せもある」
武器に留める。
その言葉が少しだけ引っかかった。
「第三層。共鳴。周囲の魔素を感じ、読み、干渉する領域だ。王冠十五座でも届かない者がいる。今のお前が考える段階じゃない」
軽く言っているようで、その言葉には重みがあった。
世界の上澄みですら届かない者がいる領域。
今の俺には遠すぎる。
「フェーズは四つ。フェーズ1は偶発。勝手に出る。フェーズ2は初歩。自分で出し、自分で止める。フェーズ3は実用。戦いの中で使える。フェーズ4は熟練。無意識に近い精度で扱える」
イザベラは木剣を肩に乗せる。
「お前がまず目指すのは、第一層・放出のフェーズ2だ」
「自分で出して、自分で止める」
「そうだ」
イザベラは頷いた。
「見ていろ」
次の瞬間、訓練場の空気が重くなった。
光はない。
炎もない。
風が吹いたわけでもない。
ただ、身体に重さが乗った。
足元の砂が、薄く沈む。
壁際に立てかけられていた木剣の束が、ぎしりと軋む。
膝の奥に重みがかかり、呼吸が少し浅くなる。
魔法ではない。
けれど、そこには確かに力があった。
そして次の瞬間、それはふっと消えた。
砂の重さも、呼吸の詰まりも、最初からなかったみたいに消える。
「これが放出だ」
イザベラは何でもないことのように言う。
「出すことだけを見るな。止めるところまで見ろ」
俺は足元の砂を見た。
出す。
止める。
俺に足りないのは、たぶん後者だ。
「やってみろ」
イザベラが言った。
俺はゆっくり息を吸う。
路地裏を思い出せば、出る気がした。
怒り。
嫌悪。
守りたいという感情。
あれをもう一度なぞれば、蓋は外れるかもしれない。
でも、それでは同じだ。
男たちが倒れた光景が頭をよぎる。
目の焦点が合わず、呼吸だけが乱れていた顔。
あれを繰り返すために、ここに来たんじゃない。
「感情を殺すな」
イザベラの声が飛んだ。
「だが、感情に乗られるな」
難しいことを言う。
そう思いながらも、俺は呼吸を整える。
胸の奥にあるものを押し潰すのではなく、蓋に指をかけるように意識する。
怒りではない。
恐怖でもない。
ただ、そこにある力へ触れる。
ほんの少しだけ。
蓋を、開ける。
その瞬間だった。
足元の砂が沈んだ。
ほんの少しではない。
俺を中心に、円を描くように砂地が低く落ち込んでいく。
最初は足裏の周囲だけだった。
けれど次の瞬間には、その沈み込みが波紋のように広がった。
ざ、と砂が擦れる音がした。
まるで見えない重しを上から置かれたみたいに、訓練場の砂地が一斉に押さえ込まれる。
俺の靴底が砂へ沈む。
足首の周りに細かな砂粒が盛り上がり、すぐに潰れる。
円の外縁では、乾いた砂が小さく跳ね、また地面へ叩きつけられた。
壁際の木剣が、一斉に鳴った。
一本ではない。
束になって立てかけられていた木剣が、ぎし、ぎし、と互いに擦れ合う。
乾いた音が連なり、訓練場の端から端へ、軋みが波みたいに走る。
的の柱が震えた。
吊るされた布の標的が、風もないのにびくりと跳ねる。
黒ずんだ石壁の表面から、ぱらぱらと古い砂埃が落ちた。
隅に置かれた結界石が、低く唸る。
音が増えていく。
砂が潰れる音。
木が軋む音。
石が震える音。
自分の心臓が、耳のすぐ内側で鳴る音。
空気が重い。
吸い込もうとしても、肺の手前で押し返される。 まるで見えない水の底へ、身体ごと沈められたみたいだった。
喉の奥が狭くなる。
胸が広がらない。
息を吸うために、普段よりずっと強い力が必要だった。
俺のものだ。
そう分かる。
分かるのに、俺の意思ではなかった。
違う。
路地裏の時とは、まるで違う。
あの時も異常だった。
男たちは倒れ、目の焦点を失い、呼吸だけを乱していた。
けれど、今のこれは、その比ではない。
深い。
重い。
広い。
俺の内側にあるものが、契約を経て、別物みたいに膨れ上がっている。
アイリスだけじゃない。
ラグナ。
ルナ。
二つの名に繋がった何かが、俺の奥で出口を求めている。
蓋を少し開けたつもりだった。
けれど、内側にあったものは、少しどころではなかった。
イザベラの右足が、砂へ深く沈んだ。
彼女は膝をつかない。
けれど、空の左袖が荒くはためき、腰の剣が鞘の中でかすかに鳴っていた。
平然としているわけではない。
それでも、彼女は俺から目を逸らさなかった。
「……ほう」
重く沈んだ空気の中で、イザベラの声が低く響いた。
「蓋を開けただけでこれか。厄介な器だな、お前は」
その声に、背筋が冷えた。
すごい。
そう思うより先に、怖かった。
これが人に向いたら。
これが、ローゼリアたちのいる教室で漏れていたら。
俺は、また誰かを壊していたかもしれない。
「止めろ」
イザベラが言った。
怒鳴り声ではない。
けれど、その声だけが、重く沈んだ空気の中でまっすぐ届いた。
「私が止めるんじゃない。お前が止めろ」
喉が冷える。
止める。
どうやって。
分からない。
分からないのに、このままでは駄目だということだけは分かった。
これは守るための力にしなければならない。
壊すだけのものにしてはいけない。
俺は歯を食いしばった。
押さえつけるんじゃない。
潰すんじゃない。
蓋を戻す。
出てしまったものを、なかったことにはできない。
でも、これ以上広げないことはできる。
息を吐く。
指先の震えを意識する。
足裏に触れる砂の感覚を拾う。
胸の奥で暴れかけたものへ、ゆっくり蓋を下ろす。
砂の沈みが止まった。
木剣の軋みが止まる。
結界石の唸りが途切れ、重かった空気が少しずつ薄れていく。
最後に、肺の奥まで空気が入った。
俺はそこで初めて、自分が息を止めていたことに気づいた。
「今のは成功じゃない」
イザベラは、わずかに乱れた息を整えながら言った。
「だが、全部失敗でもない」
「……止められたから、ですか」
「ああ。偶発で開いた蓋を、自分で閉じた。汚い形だが、フェーズ2の入口だ」
フェーズ2。
自分で出し、自分で止める。
俺はまだ、出すことすらまともにできない。
けれど、止めるという感覚だけは、指先に残っていた。
イザベラは木剣をこちらへ投げた。
俺は慌てて受け取る。
「構えろ」
「今からですか?」
「今からだ」
イザベラが踏み込んだ。
速い、と思った時には、木剣が俺の構えを打っていた。
腕が弾かれる。
足が砂を噛めず、身体が流れる。
一撃。
たったそれだけで、俺の姿勢は崩された。
「剣、身体、圧。全部ばらばらだ」
イザベラは木剣を肩に戻す。
「第二層・定着はまだ早い。だが、いずれ必要になる」
「武器強化……ですか」
「そうだ。武器に圧を定着させられれば、魔法がなくても戦える」
魔法がなくても戦える。
その言葉は、今の俺には重かった。
「明日は合同基礎訓練だ」
イザベラは続ける。
「非契約者も混ざる」
「非契約者……」
「悪魔を持たない奴でも、お前より第一層を扱える者はいる。よく見ろ。お前の進む道の一つだ」
その言葉を聞いた瞬間、脳裏に浮かんだのは、深い緑の髪の少年の目だった。
羨望でも、恐怖でもない。
ただ、こちら側に立つ俺を測っていた目。
訓練場を出る頃には、手のひらが少し震えていた。
魔法は使えない。
ラグナもルナも、まだ形にならない。
けれど、砂を沈めた感覚と、それを止めた感覚だけは、身体に残っている。
放出。
フェーズ1、偶発。
俺がかつて、人を壊しかけた力。
それを、今度は自分の意思で出し、自分の意思で止める。
明日は合同基礎訓練。
非契約者も混ざる。
悪魔を持たない者。
けれど、俺より先に進んでいる者。
明日、俺はそれを見る。




