第四十四話 制御出来ない力
第四十四話 制御できない力
目を開けると、教室の景色はさっきと何も変わっていなかった。
机。
椅子。
教卓の前に立つイザベラ。
こちらを見る生徒たち。
けれど、胸の奥に残った感覚だけは、潜る前とはまるで違っていた。
ラグナ。
ルナ。
二つの名は、確かに俺の中にある。
外から与えられたものじゃない。
滝沢天海だった俺と、アイリスとして生きてきた俺。
そのどちらにもあったものが、魔素を通して形を得た。
それは分かった。
けれど、分かったからといって、扱えるわけではない。
「次は、形にする」
イザベラの声が、静まり返った教室に落ちた。
さっきまでの内側へ潜る訓練とは違う。
今度は、自分の中に触れたものを外へ出す。
「完全に顕現させろとは言わん。初日でそこまでできる奴は少ない。だが、契約したなら何かしら兆候は出る。影、声、温度、音、匂い、指先の震え。何でもいい。外に現れたものを見ろ」
イザベラは教室を見渡した。
「悪魔を扱う第一歩は、自分が何を出しているかを知ることだ」
最初に呼ばれたのは、ローゼリアだった。
ローゼリアは一度だけ小さく息を吸い、目を閉じた。
背筋は伸びている。
さっきイザベラに
「綺麗に立とうとしすぎだ」
と言われたせいか、今度は少しだけ肩の力が抜けているようにも見えた。
しばらく、何も起きない。
けれど次の瞬間、ローゼリアの右手の指先に、小さな影が絡んだ。
いや、影ではない。
細い荊のようなものだった。
白銀に、淡い薔薇色を混ぜたような細い線。
それが一瞬だけ、彼女の指に巻きつくように現れ、すぐにほどけて消えた。
教室がざわつく。
ローゼリア自身も、少しだけ目を見開いていた。 完全な悪魔の姿ではない。
けれど、そこには確かに形があった。
「悪くない」
イザベラが言う。
「まだ細い。だが、形にはなっている」
ローゼリアは唇を引き結びながらも、どこかほっとしたように息を吐いた。
続いて、何人かが順に試した。
小さな冷気が机の上を撫でる者。
指先に一瞬だけ火花のようなものを散らす者。 椅子の脚をかすかに軋ませる者。
目を閉じたまま、耳元で何かが鳴ったように肩を震わせる者。
もちろん、上手くいかない者もいた。
何も出せずに顔を伏せる者もいる。
けれど、それでも大半の者には、何かしら外から分かる兆候があった。
セシリアは、ほんの一瞬だけ指先を動かした。
糸のようなものが見えたわけではない。
だが彼女の爪先近くで、机の上に置かれていた紙の端が、まるで見えない細線に引かれたみたいにぴくりと揺れた。
セシリアはそれを見て、悔しそうに眉を寄せる。
「今の感覚を覚えろ」
イザベラは短く言った。
ニカは目を閉じて拳を握った。
何かが見えたわけではない。
ただ、彼女の拳の周囲だけ、空気が少し重くなったように感じた。
本人もそれを感じたのか、片目を開けて自分の拳を見る。
「……なんか、溜まった?」
「その感覚だけ覚えろ。理屈は後でいい」
「やっぱ半分くらい褒めてる?」
「調子に乗るな」
ニカは口を尖らせながらも、どこか嬉しそうだった。
ダリウスは相変わらず荒かった。
目を閉じた直後、机がまた小さく鳴る。
ただ、今度は床までは震えなかった。
本人もさっきよりは抑えようとしているらしい。
「まだ強い」
イザベラが言う。
「だが、さっきよりはマシだ」
ダリウスは不満そうに舌打ちしたが、何も言い返さなかった。
周りは、少しずつ前へ進んでいる。
そう感じた。
完璧ではない。
誰もまだ悪魔を自在に扱えているわけじゃない。 それでも、みんな何かしら掴み始めている。
そして、俺の番が来た。
「アイリス・シエーレ」
名を呼ばれた瞬間、教室の空気が少し変わった。
昨日、核が双つに裂けた契約者。
さっき、深く潜りすぎた者。
その俺が何を出すのか。
視線が集まる。
俺はゆっくり息を吸い、目を閉じた。
胸の奥へ意識を向ける。
火種のような衝動が、そこにある。
その輪郭を、冷たい何かが静かになぞっている。
いる。
ラグナも、ルナも、確かにいる。
俺はそこへ手を伸ばすように意識を沈めた。
形にする。
外へ出す。
ローゼリアの荊のように、セシリアの細い揺れのように、ニカの拳に溜まったもののように。
何かひとつでもいい。
外から見える形に。
けれど、何も起こらなかった。
目を閉じたまま、俺はもう一度意識を深くする。 胸の奥で、火種が擦れる。
冷たい輪郭がそれをなぞる。
どちらも確かにある。
だが、外へ出ない。
指先も震えない。
机も鳴らない。
空気も揺れない。
赤黒い光も、蒼白い光も現れない。
ただ、俺の中にあるだけだった。
教室が、ざわついた。
「……何も起きてない?」
誰かの小さな声が聞こえた。
「昨日のあれで?」
「悪魔、出せないのか?」
言葉が、耳に刺さる。
言い返したかった。
違う、と言いたかった。
俺の中にはいる。
ラグナも、ルナも。
確かに、そこにいる。
でも、周りから見れば何も起きていない。
それが、何より悔しかった。
「おいおい」
後ろの方で、低く笑う声がした。
ダリウスだった。
「あんな派手な契約しておいて、なんもできねぇのかよ。拍子抜けもいいとこだぜ」
教室の空気が一瞬固まる。
ローゼリアが鋭くダリウスを見た。
セシリアも眉を寄せる。
ニカが「うわ」と小さく漏らした。
俺は、すぐには言い返せなかった。
腹は立つ。
悔しい。
でも、ダリウスの言葉を完全には否定できなかった。
昨日あれほど異常な契約をしておいて、今の俺が外に出せたものは何もない。
それが事実だった。
「グレイヴ」
イザベラの声が落ちた。
怒鳴ってはいない。
けれど、ダリウスの表情がわずかに強張るくらいには重い声だった。
「他人を笑えるほど、お前は扱えていたか?」
ダリウスは口を閉じた。
イザベラはそれ以上、彼を責めなかった。
視線を俺へ戻す。
「原因は知らん」
はっきりとした声だった。
「二つに裂けた契約など、私も聞いたことがない。今ここで知った顔をして語る気はない」
その言葉に、教室が静まる。
「ただ、今見えた事実は一つだ。お前はまだ、外に何も出せていない」
その言葉は、ダリウスのヤジよりもずっと深く刺さった。
外に何も出せていない。
俺は目を伏せる。
その時、記憶がよぎった。
路地裏。
男たち。
赤い髪の娘。
橋から落とした。
今度こそ確実にやる。
あの時、俺は魔法を使おうとしたわけじゃない。 何かを制御しようとしたわけでもない。
ただ、怒りと嫌悪と、守りたいという感情が胸の奥から溢れた。
結果として、男たちは倒れた。
三人とも、意識を失った。
ただ気絶しただけではなかった。
目の焦点が合わず、呼吸は乱れ、何か大事な部分が壊れたように見えた。
俺は、何をしたのか分からなかった。
けれど、結果だけは残った。
制御できない力が、どういう結果を招くのか。
俺はもう、知っている。
守りたかった。
助けたかった。
止めたかった。
けれど、あの時に溢れたものは、俺の意思を超えていた。
もし、ラグナとルナをこのまま無理に引き出したら。
もし、守りたいと思った力が、また誰かを壊したら。
そう思った瞬間、喉の奥が冷えた。
「アイリス・シエーレ」
イザベラが俺の名を呼ぶ。
「悪魔が形にならないなら、悪魔以外を鍛えろ」
俺は顔を上げた。
「身体を鍛えろ。魔力圧を鍛えろ。剣を磨け。お前自身の器が育たなければ、掴めるものも掴めん」
イザベラの青い右目が、俺を真っ直ぐ見ていた。
「使えないものに縋るな。使えるものを積み上げろ」
その言葉は、思っていたよりすっと胸に落ちた。
分からないなら、分かるところから積み上げる。 足りないなら、作る。
怖いなら、怖いまま動く。
それは、俺がこの世界で最初にやってきたことだった。
授業が終わる頃には、教室の空気は朝とはまるで違っていた。
契約者。
そう呼ばれる者たちは、それぞれ少しずつ悪魔への入口を見つけ始めている。
俺だけが、まだ扉の前に立っている。
けれど、立ち尽くしているわけにはいかない。
制御するために鍛える。
いつか、顕現させるために鍛える。
守るための力を、守るために使えるようにするために。
生徒たちが席を立ち始めた時、イザベラが俺の名を呼んだ。
「アイリス・シエーレ」
「はい」
「放課後、訓練場に来い」
「……私だけですか?」
「ああ」
イザベラは名簿を閉じた。
「悪魔を使えないから終わりだと思うな。非契約者にも、お前より先に進んでいる奴はいる」
「非契約者……?」
「明日は合同基礎訓練だ。そこで見れば分かる」
非契約者。
その言葉を聞いた瞬間、昨日の深い緑の髪の少年の目を思い出した。
羨望でも、恐怖でもない。
ただ、こちら側に立つ俺を測っていた目。
俺はまだ、あの少年の名前を知らない。
けれどなぜか、その視線だけが、胸の奥に引っかかっていた。




