第四十三話 滝沢天海
第四十三話 滝沢天海
「アイリス・シエーレ」
イザベラに名を呼ばれた瞬間、教室の空気がわずかに変わった。
ローゼリアがこちらを見る。
セシリアも、ニカも、ダリウスも。
他の生徒たちの視線も、薄く俺へ集まっている。
昨日、核が双つに裂けた契約者。
その目が、そう言っていた。
俺はゆっくり息を吸い、椅子に座ったまま目を閉じた。
胸の奥で、火種のような衝動が微かに擦れている。
その輪郭を、冷たい何かが静かになぞっていた。
ラグナ。
ルナ。
そこへ触れればいい。
そう思った瞬間、イザベラの言葉が頭の奥に残った。
悪魔は、お前らの魂に引っかかった本性だ。
悪魔を見るな。
自分を見ろ。
俺は、胸の奥にある火種と冷たい輪郭から、ほんの少しだけ意識を離した。
さらに奥へ。
自分でも普段は触れない、もっと深い場所へ。
教室の音が遠くなる。
誰かの呼吸も、椅子の軋みも、外から差し込む風の音も、水の中へ沈むようにぼやけていく。
そして――。
ここは。
最初に、そう思った。
見覚えのある机。
白く冷たい天井照明。
薄く残ったコーヒーの匂い。
机の上には書類とノートパソコン。
壁際には、誰も座っていない来客用の椅子。
俺は、そこを知っていた。
滝沢天海のオフィスだった。
画面の中には、数字が並んでいる。
売上。
支払い。
予定。
次に打つべき手。
その画面を見ている男がいた。
茶色がかった髪。
紺のスーツ。
少し疲れた目。
それでも、表情は崩れていない。
滝沢天海。
俺だった男だ。
不思議な感覚だった。
見ている。
けれど、見られているようでもある。
そこにいる男は確かに俺なのに、今の俺はアイリスの身体で、その背中を別の場所から眺めている。
男は誰かに怒鳴るわけでも、弱音を吐くわけでもなかった。
ただ、画面を見て、少しだけ眉を寄せて、次にやることを決めていく。
感情を挟む暇はない。
決めなければ、止まる。
止まれば、誰かが困る。
だから決める。
迷っても、怖くても、疲れていても。
そういう生き方を、俺はしていた。
画面の光が、ふっと滲む。
次の瞬間、俺は揺れていた。
電車の中だった。
夜の車内。
窓の外には、流れていく街の灯り。
窓ガラスには、紺のスーツを着た男の顔が薄く映っている。
滝沢天海。
俺は、その顔を見ていた。
いや、見ていたのか、見られていたのか分からない。
手の中のスマホが震える。
通知。
確認しなければならないこと。
明日までに決めなければならないこと。
疲れていた。
けれど、疲れたから止まるという選択肢はなかった。
止まる方法を、あの頃の俺は知らなかったのかもしれない。
電車が揺れる。
吊り革が小さく軋む。
車内放送が流れる。
その時だった。
音が、遠くなった。
車輪の音。
人の息遣い。
スマホの振動。
窓の外を流れる光。
すべてが水の中へ沈むみたいに遠ざかっていく。
窓の中の俺が、こちらを見た。
次の瞬間、胸の奥が裂けた気がした。
痛みではない。
恐怖でもない。
ただ、自分というものが、二つの方向へ引かれる感覚。
片方は熱かった。
まだ動ける。
まだ守れる。
邪魔なものを壊してでも、前へ進めと叫んでいる。
もう片方は冷たかった。
見ろ。
考えろ。
間違えるな。
自分を失えば、何も守れないと告げている。
俺はその間にいた。
滝沢天海でもあり、もう滝沢天海ではない何かでもある場所に。
落ちる。
そう思った。
けれど、次に触れたのは地面ではなかった。
冷たい石。
湿った空気。
自分のものではない長い髪。
細い腕。
胸の重さ。
見知らぬ身体。
アイリスとして目覚めた日の記憶だった。
洞窟の暗がり。
冷えた皮膚。
喉の渇き。
空腹。
状況が分からない恐怖。
でも俺は、泣き叫ばなかった。
叫んでどうにかなる状況ではなかったからだ。
水を探す。
寝床を作る。
使えるものを拾う。
刃物を作る。
生きるために、次にやることを決める。
それは滝沢天海だった頃と同じだった。
分からないなら、観察する。
足りないなら、作る。
怖いなら、怖いまま動く。
俺は、そうやって生き延びた。
場面がまた揺れる。
川。
流れてきた赤髪の少女。
水の冷たさ。
迷うより先に飛び込んだ身体。
ローゼリア。
彼女を助けた時、俺は何も考えていなかったわけじゃない。
危険は分かっていた。
助けられない可能性もあった。
それでも、見捨てるという選択肢だけは、なかった。
さらに場面が飛ぶ。
路地裏。
男たちの声。
赤い髪の娘。
橋から落とした。
今度こそ確実にやる。
あの瞬間、胸の奥で何かが燃えた。
怒り。
嫌悪。
恐怖。
そして、それ以上に。
守りたい。
ローゼリアを傷つけるものを、放っておけない。
目の前の害意を、見過ごせない。
そのためなら、自分がどうなってもいいとさえ思った。
胸の奥で、火種が強く擦れる。
壊せ。
声ではなかった。
けれど、意味だけが落ちてくる。
邪魔なら壊せ。
奪われる前に燃やせ。
守るためなら、ためらうな。
胸の奥で、火が笑った気がした。
だが、同時に冷たい何かがその輪郭を縁取る。
見ろ。
こちらも声ではない。
けれど、確かに意味があった。
怒りに呑まれるな。
相手を見ろ。
状況を切り分けろ。
守るなら、自分を失うな。
冷たい雷が、燃え上がる火を薄く縁取る。
そこで、ようやく分かった。
ラグナは、俺の外から来た破壊じゃない。
ルナは、誰かに与えられた制御じゃない。
滝沢天海だった俺が抱えていたもの。
アイリスとして目覚めてから、必死に掴んだもの。
判断すること。
耐えること。
怖くても進むこと。
守りたいと思うこと。
壊してでも止めたいと願うこと。
それでも、自分を失いたくないと踏みとどまること。
その両方が、魔素を通して形を得た。
ただ、それだけだった。
意識が、急に浮上する。
「――っ」
息を吸った。
思っていたより深く潜っていたのか、肺が空気を求めるように震えた。
教室の景色が戻ってくる。
机。
椅子。
イザベラ。
こちらを見る生徒たち。
ローゼリアがわずかに身を乗り出している。
セシリアの表情は固い。
ニカは口を開きかけたまま止まっていて、ダリウスは眉間に皺を寄せていた。
イザベラだけは、俺をまっすぐ見ていた。
「……深く潜りすぎだ」
低い声だった。
怒鳴られたわけではない。
けれど、教室の空気がその一言でさらに締まる。
「初日でそこまで行く奴は、たいてい戻り方を間違える」
俺はすぐに返事ができなかった。
まだ胸の奥には、燃え残りのような感覚がある。
そのすぐそばで、冷たい輪郭だけが静かに残っていた。
イザベラはしばらく俺を見て、それから短く言った。
「だが、逃げてはいない」
その言葉が、妙に重く残った。
逃げてはいない。
俺は目を伏せる。
ラグナ。
ルナ。
二つの名が、胸の奥で静かに沈んでいる。
俺はまだ、それを扱えるとは言えない。
掴めたとも言えない。
けれど、ひとつだけ分かった。
ラグナも、ルナも。
俺の外から来たものじゃない。
滝沢天海だった俺と、アイリスとして生きる俺。
そのどちらにもあったものが、形を得ただけだ。




