第四十二話 それぞれの悪魔
第四十二話 それぞれの悪魔
「綺麗な顔で契約者をやれると思うな」
イザベラ・クロウの声が、教室の空気を削るように落ちた。
誰もすぐには動かなかった。
昨日の契約から一夜明けたばかりの教室には、まだどこか浮ついたような、あるいは怯えたような空気が残っていた。
契約に成功した。
悪魔を得た。
昨日までとは違う場所に立った。
そう思っていた生徒たちの顔から、少しずつ色が落ちていく。
イザベラは教卓の前に立ったまま、俺たちを一人ずつ見渡した。
左腕のない袖が、動きの余韻でかすかに揺れている。
黒い眼帯に覆われた左目。
澄んだ青の右目。
その視線には、教師というより戦場の人間の重さがあった。
「悪魔は、お前らの魂に引っかかった本性だ」
その言葉に、胸の奥が微かに軋んだ。
本性。
綺麗な言葉ではない。
才能でも、祝福でも、選ばれた証でもない。
魂に引っかかったもの。
つまり、自分でも見たくない何かまで含めて、昨日、形を得たということだ。
「隠しているもの、抑えているもの、見ないふりをしているもの。そこに触れずに悪魔だけ扱えると思うな」
イザベラは右手で教卓を軽く叩いた。
「今から一人ずつ確認する。目を閉じろ。外に探すな。内側に潜れ。声を聞こうとするな。姿を呼ぼうとするな。まず、自分の中で何が引っかかっているのかを掴め」
教室の中で、何人かが息を呑んだ。
俺も無意識に胸へ意識が向きかける。
左奥の熱。
右奥の痺れ。
だが、すぐにイザベラの言葉が頭をよぎった。
悪魔を見るな。
自分を見ろ。
それは、思っていたよりもずっと嫌な言葉だった。
「まず、ヴァルンハート」
最初に呼ばれたのはローゼリアだった。
ローゼリアは短く息を吸い、席に座ったまま背筋を伸ばした。
顎がわずかに上がる。
目を閉じる所作には迷いがなかった。
教室が静かになる。
何かが見えたわけではない。
魔素は、昨日の俺やエイフィズの時のような異常でもない限り、目で見えるものではない。
けれど、空気は変わった。
ローゼリアの周囲だけ、近づきにくくなったように感じた。
誰かが不用意に触れようとしたら、その前に止められる。
そんな張り詰め方だった。
ローゼリアの指先が、膝の上でわずかに握られる。
唇がきゅっと結ばれた。
苦しそうではない。
ただ、何かに耐えているようにも見えた。
イザベラはしばらく見ていたが、やがて低く言った。
「悪くない。だが、綺麗に立とうとしすぎだ」
ローゼリアの眉がわずかに動いた。
「崩れた自分も見ろ。誇りだけで悪魔は扱えない」
ローゼリアは目を開け、悔しそうにイザベラを見た。
何か言い返したそうだったが、言葉は飲み込んだらしい。
その横顔を見て、俺は少しだけローゼリアらしいと思った。
折れない。
でも、折れたくないからこそ、力が入る。
「次。コーネリア」
セシリアの肩がほんのわずかに揺れた。
けれどすぐに姿勢を整え、目を閉じる。
その姿は綺麗だった。
背筋も、指先の位置も、呼吸の深さも、まるで手本のように整っている。
王女として教育されてきた人間の所作。
昨日までなら、ただ美しいと思ったかもしれない。
だが今朝、俺はセシリアの後ろ髪を整えた。
自分で髪を直すことに慣れていなかった彼女。
強がりながらも、耳を赤くしていた彼女。
その姿を思い出すと、今の完璧な姿勢が、少しだけ別のものに見えた。
整えられた形。
誰かに教え込まれた姿。
自分自身というより、王女としてそこに置かれた形。
セシリアの指先が、小さく震えた。
ほんの一瞬、呼吸が乱れる。 彼女はすぐに整え直そうとしたようだったが、その瞬間に眉間へ皺が寄った。
「王女として潜るな」
イザベラの声が飛ぶ。
セシリアの目が開いた。
青ざめてはいない。
けれど、明らかに悔しそうだった。
「お前自身で潜れ。礼儀作法で悪魔を躾けられると思うな」
セシリアは唇を結んだ。
反論はしない。
ただ、その沈黙には棘があった。
俺は横目でそれを見ながら、胸の奥に沈んでいる痺れを少しだけ意識した。
整えること。
制御すること。
それはルナにも繋がるのかもしれない。
だが、セシリアを見ていると、整えすぎることもまた危ういのだと分かる。
「次、ラーテラル」
「はいはーい」
ニカは軽い返事をして、目を閉じた。
こういう場でも緊張感が薄いのが、ある意味すごい。
だが、目を閉じて数秒後、ニカの表情が変わった。
眉が寄る。
口元が曲がる。
拳がぎゅっと握られた。
「……なんか、腹立つ」
教室の何人かがそちらを見る。
ニカは目を閉じたまま、奥歯を噛んでいた。
肩が一度、小さく跳ねる。
逃げ出しそうな感じではない。
むしろ、何かに噛みつくのを我慢しているようだった。
「悪くない」
イザベラが言った。
「お前は考えるな。身体の方が先に分かってる」
ニカは片目だけ薄く開けた。
「それ褒めてる?」
「半分な」
「半分かぁ。まあいいけど」
ニカは不満そうに口を尖らせたが、どこか納得もしているようだった。
その姿を見て、俺は昨日の派手な悪魔を思い出す。
黒と桃色と金。
気怠げで、眠そうで、それでいて底に何か溜めているような悪魔。
ニカの拳は、まだ握られたままだった。
「次、グレイヴ」
ダリウスは露骨に面倒くさそうな顔をした。
それでも目を閉じる。
最初から力が入りすぎていた。
肩は強張り、呼吸は浅い。
眉間の皺が深くなる。
数秒後、机の端が小さく鳴った。
カタ、と乾いた音。
近くの生徒がびくりと肩を揺らす。
さらに床が一度だけ、鈍く震えた。
「やめろ」
イザベラの声が鋭くなる。
ダリウスは目を開けた。
「まだ何もしてねぇよ」
「している。引きずり出そうとするな。お前の悪魔は力比べの相手じゃない」
ダリウスの目が険しくなる。
「じゃあどうしろってんだよ」
「力任せに触るな。お前は扉を開ける前に蹴破ろうとしている」
教室がしんと静まった。
ダリウスは舌打ちしそうな顔をしたが、結局何も言わなかった。
荒い。
強い。
でも、制御という言葉からは一番遠い。
昨日の祭壇で見た衝撃を思い出す。
あれは確かに力強かった。
けれど、今のダリウスを見ていると、あの強さがそのまま危うさにも見えた。
その後も、何人かが順に呼ばれていった。
目を閉じた途端に肩を震わせ、何も掴めないまま顔を伏せる者。
呼吸だけが妙に荒くなり、イザベラに短く止められる者。
ほんの一瞬だけ指先を動かし、自分でも何が起きたのか分からない顔をする者。
逆に、何も起きず、ただ悔しそうに唇を噛む者。
契約者と一括りにされても、中身はまるで違う。 昨日、同じように祭壇へ立ったはずなのに、悪魔に触れる距離も、耐え方も、向き合い方も、それぞれ違っていた。
イザベラは全員に長く言葉をかけるわけではなかった。
ただ、必要な時だけ短く刺す。
「浅い」 「逃げるな」 「力を出すな。見ろ」 「綺麗にまとめるな」 「今のは悪魔じゃない。お前の怯えだ」
短い言葉ばかりだった。
けれど、その一言で表情を変える生徒が何人もいた。
ふと、教室の空席が目に入る。
エイフィズ・ハルヴィスの席。
そこには誰もいない。
医務室にいるのだろう。
昨日、彼は意識を失ったまま運ばれていった。
頭が高い。
あの声を思い出しただけで、膝の奥がわずかに重くなる。
教室の中にはもうあの圧はない。
それなのに、その席だけ、昨日の大講堂と繋がっているように見えた。
エイフィズは弱いんじゃない。
抱えたものが、大きすぎる。
気づけば、教室の空気は最初よりずっと重くなっていた。
契約者。
昨日その言葉で一つに分けられた俺たちは、同じものを得たわけではない。
それぞれ別の何かを抱えている。
そして、その何かは、本人ですらまだ扱い方を知らない。
イザベラは名簿へ視線を落とした。
「次」
そこで、一度だけ教室の空気が止まる。
「アイリス・シエーレ」
ローゼリアがこちらを見た。
セシリアも。
ニカは興味津々という顔で、ダリウスは不機嫌そうに眉を寄せている。
俺はゆっくり息を吸った。
胸の左奥に、熱。
右奥に、痺れ。
触れようと思えば、すぐそこにある。
けれど、イザベラの言葉が胸に残っていた。
悪魔は、お前らの魂に引っかかった本性だ。
俺はまだ、自分の中に何が引っかかっているのかを知らない。




