第四十一話 選ばれた教室
第四十一話 選ばれた教室
目が覚めた時、まず感じたのは胸の奥に残る熱だった。
左胸の奥に、小さく燻る火種のようなものがある。
右胸の奥には、細い雷の糸みたいな痺れが沈んでいる。
ラグナ。
ルナ。
昨日、俺の中に刻まれた二つの名。
耳で聞いたわけではない。
誰かに教えられたわけでもない。
それでも、そこにいると分かる。
俺は寝台の上でゆっくり息を吐いた。
怖い、という感覚は薄かった。
ただ、落ち着かない。
自分の身体の中に、昨日まで存在しなかった部屋ができて、その扉の奥に何かがいるような感覚だった。
「……起きたのね」
声のした方を見ると、セシリアはすでに制服に着替えていた。
濃紺の学院制服はきっちり整えられている。
襟元も乱れていないし、スカートの皺も少ない。
ただ、白い後ろ髪だけが妙に跳ねていた。
本人は気づいていないのか、それとも気づいていて直せなかったのか、いつもの冷たい顔でこちらを見ている。
その澄ました表情と、直りきっていない寝癖の落差が妙におかしかった。
俺は思わず、少しだけ笑ってしまう。
「……何?」
セシリアの眉がぴくりと動いた。
「いや、髪」
「髪?」
彼女は反射的に自分の横髪へ手を伸ばした。
けれど跳ねているのは後ろだ。触る場所が違う。
ああ、なるほど。
今まで自分で整えてこなかったんだ。
王女なら、朝の身支度は侍女がするのが当たり前だったのかもしれない。
制服は着られる。
でも、後ろ髪の細かい乱れまでは自分で直し慣れていない。
そう思うと、昨日まで刺々しく見えていたセシリアが、少しだけ年相応に見えた。
「後ろ、跳ねてるよ」
「……分かっているわ」
「分かってる場所じゃないと思うけど」
「分かっていると言っているでしょう」
セシリアは強めに言い返した。
けれど、耳のあたりがほんの少し赤い。
俺は寝台から降り、鞄の中から櫛を取り出した。
「こっち向いて」
「な、何をする気?」
「直すだけ」
「必要ないわ。自分でできるもの」
「じゃあ、やってみて」
セシリアはむっとした顔で後ろ髪へ手を回そうとした。
けれど、うまく届かないのか、指先が空を切る。
何度か試してから、彼女はぴたりと止まった。
「……今日は、たまたま調子が悪いだけよ」
「髪に調子とかあるんだ」
「あるわ」
「はいはい」
笑わないようにするのが、少し大変だった。
俺はセシリアの後ろに回り、跳ねている白い髪を指先で軽く押さえた。
見た目通り、手触りはかなり良い。
細くて、柔らかくて、よく手入れされている。
でも、扱い方を本人が分かっていない。
「動かないでよ」
「……命令しないで」
「じゃあお願い。動かないで」
「最初からそう言いなさい」
面倒くさいなと思いながらも、櫛を通す。
跳ねた髪を押さえ、絡まっているところを軽くほどく。
セシリアは黙っていた。
ただ、背筋だけは妙に固い。
「痛かった?」
「別に」
「ならよかった」
「……慣れているの?」
「何が?」
「こういうこと」
俺は少しだけ手を止めた。
正直、慣れているわけではない。
前の身体なら、誰かの髪を整える機会なんてほとんどなかった。
でも今は、自分の髪を整える必要がある。
この一ヶ月で、多少は覚えた。
「少しだけ」
「……そう」
セシリアはそれ以上聞かなかった。
最後に後ろ髪を整え、指先で流れを確認する。
これで、少なくとも寝癖には見えない。
「できた」
セシリアは振り返り、少しだけ警戒するようにこちらを見た。
「……変じゃないでしょうね」
「大丈夫。王女っぽいよ」
「王女っぽい、ではなく王女なのだけれど」
「じゃあ、ちゃんと王女」
そう言うと、セシリアは何か言い返そうとして、結局口を閉じた。
代わりに、ほんの少しだけ視線を逸らす。
「……余計なことをしたとは言わないでおくわ」
「それ、ありがとうって意味?」
「違うわ」
「そっか」
「違うと言っているでしょう」
強がる声だった。
けれど、さっきより棘は少しだけ丸くなっていた。
俺は自分の制服を整え、鞄を手に取る。
胸の奥では、左の熱と右の痺れが静かに沈んでいた。
寮の廊下を抜け、校舎へ向かう。
朝の学院は昨日よりも静かだった。
いや、静かなのではない。
俺たちが近づくと、会話が止まるのだ。
視線が集まる。
昨日までとは違う視線だった。
昨日までの視線は、俺の顔に向けられていた。
今日の視線は、俺の内側に向けられている。
あれが、双つに裂けた契約者。
そんな声が聞こえるわけではない。
けれど、目がそう言っていた。
セシリアも気づいているはずだった。
だが彼女は一切表情を変えず、背筋を伸ばして歩く。
見られることに慣れている歩き方だった。
第一契約者教室は、一般教室より広かった。
席の数は三十数名分。
すでに何人かの生徒が席についている。
俺とセシリアが入った瞬間、教室の空気が一度止まった。
俺を見た目。
セシリアを見た目。
その二つが、別々の意味で重なる。
無名の異例契約者。
王女セシリア・コーネリア。
その二つが同じ扉から入ってきたのだから、空気が止まるのも当然かもしれない。
「アイリス、こっち」
窓際にいたローゼリアが、こちらへ手を上げた。
昨日の重苦しさを引きずっているようでいて、その声にはいつもの強さがあった。
俺はローゼリアの近くへ向かう。
「おはよう」
「おはようじゃないわよ。昨日のあと、本当に平気だったの?」
「一応大丈夫だよ」
「その言い方が一番信用できないのよ」
ローゼリアは腕を組んで、俺を上から下まで見る。
「倒れてないならいいけど、変だったらすぐ言いなさいよ」
「分かった」
「ほんとに分かってる?」
「たぶん」
「だからその“たぶん”が駄目なの」
呆れたように言いながらも、ローゼリアの表情は少しだけ緩んだ。
そのやり取りを、周囲が見ている。
ヴァルンハート家の令嬢が、無名の俺に気安く話しかけている。
それが珍しいのか、何人かの視線がざわついた。
セシリアも無言でこちらを見ていた。
何か言いたげだったが、口にはしない。
ただ、ローゼリアと俺の距離を測るように、紫の瞳が細くなる。
「うわ、昨日のやばい組そろってんじゃん」
その空気をぶち壊すように、明るい声が飛んできた。
振り向くと、ニカ・ラーテラルが教室の入口に立っていた。
黒に近い灰色の髪に白いメッシュ。
ラーテルの耳と太い尻尾。
制服は相変わらず着崩され、首元の装飾が揺れている。
「やばい組って何?」
俺が聞くと、ニカはにっと笑った。
「あんたと、倒れた子と、あとあっちの乱暴そうなやつ」
「あっち?」
視線を追うと、教室の後ろ側にダリウス・グレイヴが入ってきたところだった。
周囲の生徒が自然と少し距離を取る。
ダリウスはそれを気にする様子もなく、荒い目つきで教室を見回した。
そして、ある席で一瞬だけ視線を止める。
空席だった。
エイフィズ・ハルヴィスの席だろう。
昨日、あれほどの契約をして意識を失った少年は、まだここには来ていない。
「……あいつ、まだ寝てんのかよ」
ダリウスが低く吐き捨てた。
「エイフィズのこと?」
俺が聞くと、ダリウスは鋭くこちらを睨んだ。
「知らねぇよ。いつもいつも面倒くせぇんだよ、あいつは」
心配している声ではなかった。
苛立ち。
鬱陶しさ。
近くでうじうじしている存在を振り払いたいような、そんな音だった。
けれど俺は、昨日の祭壇で見たエイフィズを思い出していた。
あの子は弱いんじゃない。
抱えたものが大きすぎる。
空席が、妙に重く見えた。
「白髪のあんた、昨日からずっと顔こわいよね」
ニカの声で、教室の空気がまた変わった。
言われたセシリアが、ゆっくりとニカを見る。
「……あなた、誰に向かって言っているの?」
「え、同級生?」
あまりにも自然に返したニカに、ローゼリアが小さく息を呑む。
俺は思わず少しだけ笑いそうになった。
セシリアは明らかに不快そうだったが、言い返す言葉を一瞬見失っていた。
身分も家名も関係なく距離を詰めてくる相手に、慣れていないのだろう。
その時、教室の扉が開いた。
空気が変わった。
入ってきたのは、暗い赤色の長髪を高く束ねた女性だった。
黒い眼帯で左目を覆い、見えている右目は澄んだ青。
筋肉質で引き締まった身体つきなのに、女性らしい線もはっきり残っている。
黒と深紅を基調にした軍服寄りの教師服。
腰には剣。
左腕側は、腕から先がない。
長袖だけが、空になったまま静かになびいていた。
教師というより、戦場が服を着て入ってきたみたいだった。
彼女は教壇に立ち、教室を見渡す。
王女にも、公爵令嬢にも、ビーストにも、無名の俺にも、同じ目を向けた。
「イザベラ・クロウだ。今日からこの契約者クラスを受け持つ」
声は低く、よく通った。
「昨日の契約で浮かれてる奴がいるなら、今すぐ捨てろ」
教室が静まり返る。
「契約したってことは、偉くなったってことじゃない。扱いを間違えれば、自分も他人も壊す力を抱えたってだけだ」
イザベラは、自分の空の袖を隠そうともしなかった。
「この教室は、選ばれた者の教室じゃない。危険なものを抱えた未熟者を、一か所に集めた箱だ」
誰も反論しなかった。
できなかった。
「王族だろうが、貴族だろうが、平民だろうが、ビーストだろうが関係ない。暴走すれば等しく危険物。扱えなければ等しく未熟者だ」
セシリアも、ローゼリアも、ニカも、ダリウスも黙っている。
「まず覚えろ。契約者が最初に学ぶべきは出力じゃない。制御だ」
イザベラは教卓に右手を置いた。
「悪魔は外から呼ぶものじゃない。お前らの魂に紐づいたものが、魔素を通して形を得た存在だ。なら、最初に見るべきは悪魔じゃない。自分自身だ」
その言葉に、胸の奥がかすかに揺れた。
「内側へ潜れ。綺麗な理屈じゃなく、本能まで降りろ。自分の中にあるものを、自分で掴め」
俺は無意識に息を止めた。
悪魔を見る。
そう言われれば、胸の奥にいるラグナとルナへ意識を向ければいいのだと思っていた。
けれど、違う。
あれは外から来たものじゃない。
俺の魂に紐づき、魔素を経由して形を得たもの。
なら、触れるべき場所は悪魔そのものではなく、その手前にある俺自身だ。
内なる自分。
本能。
衝動。
目を逸らしてきたもの。
「初日の課題は単純だ」
イザベラの声が、教室に落ちる。
「自分の中へ潜れ。そして、昨日得たものを自分の意思で掴んでみろ」
俺はゆっくり息を吸った。
左に、熱。
右に、痺れ。
それらはただの力ではない。
俺の中にある何かが、形を得たものだ。
ラグナ。
ルナ。
二つの名は、沈黙の奥でこちらを見ている気がした。




