第四十話 頭が高い
第四十話 頭が高い
祭壇を降りるまでの数歩が、やけに長く感じた。
足は動いている。
意識もある。
倒れそうなほどではない。
それなのに、身体の内側だけが、さっきまでとは決定的に違っていた。
左胸の奥に、熱がある。
小さな火種のようで、けれど油断すれば一気に燃え広がりそうな荒い熱。
右胸の奥には、痺れがある。
冷たく澄んでいて、細い針のように神経の奥をなぞってくる。
ラグナ。
ルナ。
二つの名は、まだ耳で聞いた言葉ではない。
誰かに教えられたわけでもない。
ただ、俺の中に直接刻まれていた。
俺は一歩ずつ祭壇を降りる。
大講堂は、まだ静まり返っていた。
さっきまで続いていたざわめきが嘘みたいに消えている。
新入生たちも、教員たちも、誰もすぐには口を開かない。
息を呑んだまま、俺を見る者。
理解できないものを見たように固まっている者。
恐る恐る隣の顔色を窺う者。
その中で、記録係の筆だけが紙の上で止まっていた。
筆先から落ちた黒い墨が、白い紙の一点に小さく滲んでいく。
「……二つ」
誰かが、そう漏らした。
それ以上の言葉は続かなかった。
続けられなかったのだと思う。
俺自身、何が起きたのか説明できない。
胸の奥にいる二つの気配が、悪いものではないことだけは分かる。
けれど、それがこの世界でどういう意味を持つのかは分からない。
ただ一つだけ確かなのは、俺はもう普通には見られないということだった。
待機席へ戻ると、最初に立ち上がりかけたのはローゼリアだった。
「アイリス」
声は抑えている。
けれど、その目は明らかに怒っているようにも、心配しているようにも見えた。
「大丈夫なの、あんた」
「たぶん」
「たぶんじゃないでしょ」
即座に返された。
ローゼリアは俺の顔を覗き込むように見て、眉を寄せる。
「顔、少し白いわよ」
「そう?」
「そう。自分の顔くらい自分で分かりなさい」
「無茶言わないでよ」
「倒れるなら先に言って。肩貸してあげるから」
強い言い方だった。
でも、その奥にあるものは分かる。
ローゼリアは、俺を化け物みたいには見ていなかった。
ただ、俺が立っていられるのかを気にしている。
それだけで、胸の奥が少しだけ落ち着いた。
その横で、セシリアは腕を組んだままこちらを見ていた。
顔色は悪い。
けれど紫の瞳だけは、いつも以上に鋭かった。
「……本当に厄介なものを抱えたのね」
「私が望んだわけじゃない」
「でしょうね。だから余計に面倒なのよ」
棘のある言い方。
でも、いつものような単なる不機嫌とは少し違う。
セシリアは俺を見ているようで、その奥にある何かを測ろうとしているようだった。
俺は席に腰を下ろす。
そこでようやく、少しだけ息が深く入った。
祭壇では、しばらく止まっていた空気が動き出していた。
教員の一人が短く何かを告げる。
記録係が止めていた筆を動かす。
だが、さっきまでとは明らかに違う。
式は続くらしい。
この学院は、異常が起きたからといってすべてを止める場所ではない。
決められた手順があり、記録があり、次に進むための仕組みがある。
それが妙に冷たくもあり、同時にこの学院の強さのようにも見えた。
「――次、ニカ・ラーテラル」
呼ばれた名前に、待機席の一角から勢いよく少女が立ち上がった。
黒に近い灰色の髪に、白いメッシュ。
頭には獣人特有の耳があり、後ろには太めの尻尾が揺れている。
制服はかなり着崩していて、首元や腕には安っぽい装飾がいくつも光っていた。
彼女は周囲の重苦しい空気など気にする様子もなく、片手をひらひら振りながら祭壇へ向かう。
「はいはーい。次あたしね」
何人かが呆気に取られた顔をした。
分かる。
この空気でその調子はなかなかすごい。
ニカは術式の中心に立つと、肩を回して軽く息を吐いた。
「んじゃ、よろしくってことで」
軽い。
あまりにも軽い。
だが次の瞬間、足元の魔法陣が淡く光った。
魔素が揺れ、ニカの周囲に黒と桃色の光が混じり始める。
現れたのは、ひどく派手な悪魔だった。
黒に近い長い髪に、鮮やかな桃色の筋。
眠たげに垂れた目。
頭には角があり、背には翼、腰の後ろには悪魔らしい尾が揺れている。
黒と桃色と金。
鎖のような装飾がいくつも垂れ、派手なのに、どこか気怠げな空気を纏っている。
悪魔は、まるで寝起きみたいな目でニカを見下ろした。
……ギャルかよ。
思わず内心でそう呟いてしまった。
この世界にそんな言葉はない。
でも俺の感覚では、それ以外の表現が一番近かった。
ニカは悪魔を見上げ、少しだけ目を丸くしたあと、にやっと笑った。
「うわ、派手。あんた絶対めんどくさいでしょ」
悪魔は眠そうな顔のまま、わずかに口端を上げた。
その反応を見て、ニカはなぜか満足げに頷く。
「ま、いっか。嫌いじゃないし」
会場の何人かが、また呆気に取られていた。
契約の場で悪魔にそんな態度を取る新入生は、そう多くないのだろう。
やがて悪魔の姿は薄れ、ニカの中へ沈むように消えた。
ニカは自分の胸元を軽く叩き、祭壇を降りてくる。
「なんか変な感じ。ま、成功っぽいからいいけど」
その気楽さに、少しだけ空気が緩んだ。
さっきの俺の異常で張り詰めていた会場に、ほんのわずかだが呼吸が戻る。
だが、それも長くは続かなかった。
「――次、ダリウス・グレイヴ」
呼ばれた少年は、ゆっくり立ち上がった。
体格がいい。
同年代の中では明らかに鍛えられていて、歩き方にも迷いがない。
荒っぽい顔つきで、周囲の視線など気にも留めていないように見える。
ダリウスは祭壇に上がると、術式の中心で腕を組んだ。
目を閉じるでもなく、身構えるでもない。
まるで、来るなら来いと言っているような立ち方だった。
魔法陣が光る。
次の瞬間、空気が弾けた。
爆発ではない。
けれど、胸の奥を叩かれるような衝撃が走る。
見えない拳が祭壇を殴りつけたみたいだった。
数人の生徒が肩を跳ねさせる。
ダリウスの髪が乱れ、制服の裾が揺れる。
それでも彼は、一歩も退かなかった。
荒い。
乱暴だ。
でも、強い。
そんな印象だけがはっきり残る。
現れた悪魔の輪郭は、短い時間しか見えなかった。
鋭く、重く、叩きつけるような気配。
それがダリウスの身体へ沈むと、彼はゆっくり目を開けた。
その顔には、当然だと言わんばかりの自信が浮かんでいた。
けれど一瞬、彼の視線が俺の方へ向いた。
すぐに逸らされたが、そこには苛立ちのようなものがあった。
自分の契約が成功しても、会場の中心に残っているのは俺の異常。
それが気に入らないのかもしれない。
ダリウスは舌打ちしそうな顔で祭壇を降り、席へ戻った。
そして、次の名前が呼ばれる。
「――次、エイフィズ・ハルヴィス」
その少年が立ち上がった瞬間、会場の空気はまた少し緩んだ。
細い肩。
伏せがちな目。
制服に着られているような頼りない立ち姿。
歩き方も危うく、今にも足を止めそうだった。
彼を見て、誰かが小さく息を吐く。
さっきまで続いた異常の反動だろう。
ニカもダリウスも契約に成功した。
でも、今度こそ大きなことは起きない。
そう思いたくなるような弱々しさが、エイフィズにはあった。
エイフィズは祭壇に上がり、術式の中心に立つ。
指先が震えている。
目を閉じた顔は、今にも泣き出しそうにすら見えた。
最初は、何も起きなかった。
光もない。
風もない。
魔素の揺れも見えない。
静寂だけが数秒続く。
失敗か。
誰かがそう思った気配がした。
その瞬間だった。
『頭が高い』
声が、落ちた。
耳に届いたのではない。
頭蓋の内側を、直接叩かれたような声だった。
次の瞬間、大講堂そのものが沈んだ。
「――っ!」
膝が落ちる。
自分で膝をついたのではない。
立っていることを許されなかった。
見えない何かが上から押さえつけたのではない。 もっと根本的な、上下の関係そのものを書き換えられたような感覚だった。
お前たちは下だ。
そう決められたように身体が勝手に屈した。
周囲では悲鳴すら上がらない。
悲鳴を上げるための息が、圧に潰されている。
生徒たちの大半が床に這いつくばっていた。
立っている者など一人もいない。
机も椅子もない広い大講堂の床に、何十人もの新入生が伏せている。
教員の何人かも膝をついていた。
歯を食いしばり、片手を床につきながら、辛うじて身体を支えている。
記録係の筆が床を転がり、墨が石床に黒い線を引いた。
ローゼリアも片膝をついていた。
顔を歪めながらも、どうにか上体を保っている。
セシリアは床に片手をつき、青ざめた顔で祭壇を睨んでいた。
その瞳には恐怖だけではなく、屈辱の色も混じっている。
ニカは歯を食いしばり、腕一本で身体を支えていた。
「っ、なん、なの……これ……!」
ダリウスも膝をついていた。
強引に立ち上がろうとしているのに、肩が震え、身体がそれを許さない。
そして祭壇の中心で、エイフィズは倒れていた。
彼だけは、膝をつくことすらできていない。
完全に意識を失い、床に崩れ落ちている。
なのに、異常は彼の周囲にあった。
影が見えた。
いや、影と呼んでいいのかも分からない。
あまりにも大きい。
あまりにも遠い。
それでいて、目の前にいるような圧がある。
人型にも見える。
王にも見える。
獣にも、武器にも、巨大な城壁にも見える。
形が定まらないのではない。
こちらの認識が、追いついていない。
ただ一つだけ、分かる。
あれは、力だ。
炎でも、水でも、風でも、土でもない。
理屈でも、技術でもない。
ただ、力。
誰が上で、誰が下か。
誰が膝をつき、誰が見下ろすか。
存在するだけで、それを決めてしまうもの。
俺の時とは違う。
俺の時は、内側から裂けた。
自分の中にあるものが、二つに分かれて形になった。
でもこれは違う。
外から、上から、場そのものをねじ伏せている。
エイフィズが弱いんじゃない。
あの少年が抱えたものが、あまりにも大きすぎる。
その影がふっと薄れる。
圧が、ゆっくりと引いていく。
肺に空気が戻った瞬間、あちこちで咳き込む音が上がった。
「医務班!」
最初に声を取り戻したのは、壇上近くの教員だった。
その一声で、止まっていた空気が動き出す。
教員たちが立ち上がり、倒れている生徒の確認に走る。
床に伏せていた者たちが、震える腕で身体を起こそうとしていた。
俺もゆっくり膝を持ち上げる。
足が少し震えていた。
祭壇には、意識を失ったままのエイフィズがいる。
医務班らしき大人たちが駆け寄り、彼の身体を抱え上げた。
記録係は床に落ちた筆を拾おうとして、まだ指を震わせていた。
震える手で紙に向かい、少しだけ唇を動かす。
「……頭が、高い」
その呟きは、小さかった。
けれど、俺にははっきり聞こえた。
式は、一時停止になった。
重傷者はいないようだったが、しばらく誰もまともに言葉を発せなかった。
ニカでさえ、口を閉じている。
ダリウスは床を睨みつけたまま、奥歯を噛みしめていた。
そして俺は、運ばれていくエイフィズの背中を見ていた。
あれほどの存在を抱えたまま、あの少年は立てなかった。
それを弱さと言っていいのか、俺には分からない。
ただ、放っておけない気がした。
やがて式は再開された。
残りの契約は、どれも淡々と進んだ。
成功する者。
何も起きず、肩を落とす者。
泣きそうな顔で祭壇を降りる者。
強がって笑う者。
けれど、会場の空気はもう戻らなかった。
アイリス・シエーレの核が双つに裂けたこと。 エイフィズ・ハルヴィスの契約で、全員が膝をつかされたこと。
その二つが、今日の選抜試験を完全に塗り替えていた。
すべてが終わる頃には、窓の外の光が少し傾いていた。
壇上の教員が、手元の名簿を見ながら淡々と告げる。
「契約に成功した者は、明日より契約者クラスに所属する。該当者はこの後、第一契約者教室へ移動。契約に至らなかった者は、別途案内に従い、非契約者クラスへ向かうこと」
それだけだった。
たったそれだけの言葉で、人の流れが二つに分かれた。
契約者。
非契約者。
その線は床に描かれているわけではない。
扉に書かれているわけでもない。
それなのに、誰もが分かっていた。
こちら側と、あちら側。
俺は契約者側に立っていた。
ローゼリアも、セシリアも、ニカも、ダリウスも。
意識を失ったエイフィズも、おそらくこちら側だ。
だが、非契約者側へ向かう生徒たちの背中を見た時、胸の奥に妙な違和感が残った。
その中に、一人の少年がいた。
深い緑の髪。
黒に近い、沈んだ森のような色。
制服はきっちり着ている。
背筋は伸びていて、周囲の失敗した生徒たちのように肩を落としてはいない。
彼が、こちらを見た。
目が合う。
灰緑の瞳。
羨望でもない。
恐怖でもない。
恨みと呼ぶには、まだ静かすぎる。
ただ、測っていた。
俺という存在を。
契約者側に立つ者を。
この学院が引いた線の、向こう側から。
名前も知らない少年だった。
けれど、その視線だけが妙に残った。
胸の奥で、熱が小さく脈打つ。
その隣で、静かな痺れが沈黙している。
俺は契約者側にいる。
それは事実だ。
けれど、自分が本当にこちら側の人間なのかは、まだ分からなかった。




