第三十九話 双つに裂ける
第三十九話 双つに裂ける
「――次、アイリス・シエーレ」
名を呼ばれた瞬間、会場の空気がわずかに揺れた気がした。
ローゼリアの契約が終わり、ブライアの美しさと拒絶の気配がまだ場に残っている。
セシリアの契約も終わり、シルという静かな蜘蛛の悪魔が現れたことで、会場には微妙なざわめきと、言葉にならない温度差が生まれていた。
その中で、自分の名前だけが妙にはっきり響いた。
俺は小さく息を吸って、祭壇へ向かう。
足は止まらない。
けれど、落ち着いているわけでもない。
心臓の鼓動が少しだけ早い。
初めて見る悪魔。
二割しか成功しない契約。
今ここで何が起こるのか、俺にはまだほとんど分かっていない。
それでもここまで来た以上、立ち止まる理由はなかった。
視線を感じる。
ローゼリアが見ている。
セシリアも見ている。
教員たちも、他の新入生たちも、今は皆、中央へ歩く俺を見ていた。
祭壇へ上がり、円形の術式の中心へ立つ。
足元に刻まれた紋様は、近くで見ると想像以上に複雑だった。
幾重もの線が重なり、円と文字列と記号が組み合わさっている。
理屈は分からない。
ただ、ここが“何かを呼ぶための場所”であることだけは、立った瞬間に身体で理解できた。
「目を閉じ、力を抜け」
教員の声が飛ぶ。
俺は言われた通り、ゆっくり目を閉じた。
静かに呼吸する。
力まない。
頭を空にする。
――そのつもりだった。
最初に感じたのは、熱だった。
ほんのわずか、胸の奥に小さな火種が落ちるような感覚。
次の瞬間、その反対側から針を流し込まれたみたいな痺れが走る。
熱と痺れ。
真逆のものが、同時に身体の奥で目を覚ます。
その瞬間、背中に冷たいものが走った。
この感覚を、俺は知っている。
路地裏。
ローゼリアに害意を向けられたあの時。
理屈より先に何かが膨れ上がって、胸の奥で軋んだ、あの感覚に似ていた。
嫌な汗がにじむ。
いや、嫌なだけじゃない。
危うい。
このまま何かが起きる、と本能が先に理解しているのに、それが何なのかまでは分からない。
その時だった。
会場の空気が、低く唸った。
ざわ、と衣擦れのような音が波打つ。
だが風ではない。
目を閉じていても分かる。
空気が流れているのではなく、何かもっと細かく、もっと密なものが動いている。
空間そのものがざわついているような、不自然な揺れだった。
思わず目を開ける。
そこにあった光景に、言葉が出なかった。
祭壇の周囲、いや、大講堂の空間全体に満ちていた見えない何かが、俺の方へ引かれていた。
普段なら見えないはずのものが、濃すぎるせいで輪郭を持ち始めている。
淡い靄。
けれどただの靄じゃない。
「これは...魔素か」
誰かの声がかすかに聞こえた。
空気に溶けていた魔素が、尋常じゃない密度で視覚化されている。
「な……」
誰かが息を呑む音がした。
遠くの席にいた新入生の何人かが、たまらず一歩引くのが見えた。
教員たちの表情も変わっている。
さっきまでの契約とは、明らかに挙動が違っていた。
祭壇の魔法陣の光が、足元からではなく、俺を中心に巻き上がるように立ち上がる。
熱が増す。
痺れも増す。
胸の奥が軋む。
押し潰されるわけじゃない。
何かが、内側から出ようとしている。
魔素が集まる。
集まりすぎて、音を立て始める。
ゴウ、とも違う。
ヒュウ、とも違う。
もっと低く、もっと重い唸り。
空気と魔素が擦れ合い、濃度そのものが音になったみたいな不気味な響きだった。
その中心に――核が生まれた。
俺の目の前、胸元の少し先に、濃縮された魔素の塊が浮かんでいる。
光ではない。
もっと重く、もっと密度の高いものだ。
色を持つ前の“圧”そのもの。
見ているだけで喉が詰まる。
近くにいる生徒たちが、無意識に息を潜めているのが分かった。
前列にいた数人は明らかに腰が引けている。
教員ですら、一歩踏み込むべきか迷っているような顔をしていた。
それほどの威圧感が、その核から放たれていた。
俺自身も、身体の芯を掴まれているような感覚に身動きが取りづらい。
なのに、不思議と壊れそうな恐怖だけじゃなかった。
知っている。
俺はこれを知っている。
路地裏で、理性の外へ押し出されかけた時に、一瞬だけ触れたもの。
制御なんてできなかった。
理解もできなかった。
けれど確かにあの時、世界の側にある何かが、俺の内側と繋がりかけた。
今起きているのは、その延長だ。
違いは、今は壊すためじゃないこと。
これは契約だ。
この世界の根幹にある“力”の入口だ。
核が脈打つ。
一度。
二度。
三度目で、会場の空気が完全に止まった。
裂けたのだ。
ひとつであるはずの核が、真ん中から音もなく割れた。
誰かが小さく悲鳴を漏らす。
片方に、灼けるような黒い紅が宿る。
もう片方に、紫電を孕んだ白い蒼が走る。
熱。
痺れ。
相反する二つの気配が、そこではっきりと分かたれた。
ありえない、と場の空気が言っていた。
悪魔契約は一対一。
それがこの世界の前提なのだと、知識の浅い俺ですら知っている。
その前提が、今この場で、あっさり割れた。
赤い片割れからは、獣めいた衝動と、笑い出しそうなほど荒々しい熱が滲む。
青白い片割れからは、冷たく張り詰めた理性と、肌を刺すような雷の気配が滲む。
どちらもまだ人型ではない。
光の塊だ。
けれど、それぞれに明確な“意思”があった。
見ているだけで分かる。
これはただの現象ではない。
いる。
二つとも、そこにいる。
その時、頭の奥へ直接何かが落ちてきた。
声ではない。
音でもない。
名前だけが、意味としてまっすぐ刻み込まれる。
ラグナ。
胸の左側が熱を持つ。
燃え上がるような本能。
破壊と衝動を抱えた、荒れた獄炎のような気配。
ルナ。
胸の右側に紫電が走る。
冷たく澄んだ制御。
切り分ける理性と、研ぎ澄まされた雷光のような気配。
ラグナ。
ルナ。
その名を理解した瞬間、二つの核がすっと縮み、俺の胸の奥へ沈み込んだ。
途端に膝が少しだけ揺れる。
倒れるほどではない。
だが、立っている感覚が一瞬曖昧になる。
世界の輪郭が、薄く震えた。
熱と痺れが身体の内側へ潜り込み、そこに定着していく。
俺の中に、確かに二ついる。
目に見えない。
触れられない。
けれど、さっきまでとは決定的に違う。
会場は、静まり返っていた。
誰もすぐには声を出せない。
教員たちも、記録を取る手がわずかに止まっている。
最初に動いたのは、一番端にいた老教員だった。
目を見開いたまま、低く言う。
「記録を止めるな」
その一言で、ようやく周囲が現実へ戻ってくる。
ざわめきが爆ぜた。
「二つ……?」
「今、割れた……よな?」
「なんだあれ」
「契約、成功したのか?」
「いや、それ以前に……」
声が重なる。
ローゼリアの姿が視界の端に映る。
息を呑んだまま、まっすぐ俺を見ていた。
セシリアもいる。
白い顔からさらに血の気が引いているのに、その紫の瞳だけが強くこちらを捉えている。
教員の一人が俺に近づく。
警戒と観察が半分ずつ混ざった表情だ。
「……立てるか」
「はい」
答えてみると、声は思ったより普通だった。
だが自分の内側だけが、まるで別物になったように感じる。
俺は祭壇の中央に立ったまま、ゆっくり呼吸した。
熱い。
でも暴走しているわけではない。
痺れる。
でも制御を失っているわけでもない。
二つとも、まだ眠っているようでもあり、こちらをじっと見ているようでもある。
何が起きたのか、完全には分からない。
ただ一つだけはっきりしていることがあった。
俺はもう、普通の契約者じゃない。
路地裏で感じた異常は、気のせいでも事故でもなかった。
今日この場で、それが形になってしまった。
そしてそれを、学院は見た。
ローゼリアも、セシリアも、ここにいる全員が見た。
選抜試験はまだ終わっていない。
それなのに、もう何かが決定的に変わってしまった気がした。
胸の奥で、熱が脈打つ。
そのすぐ隣で、静かな雷が応える。
ラグナ。
ルナ。
二つの名だけが、焼きつくように残っていた。




