第三十六話 積み上げた三週間
ここまで読んで下さりありがとうございます!
この話で転オレの第一章は終わりを迎えます!
次回から第二章に突入しアイリスの物語もさらに加速します!
では、第一章最終話楽しんで下さい!
第三十六話 積み上げた三週間
三週間は、思っていたより短かった。
学院へ行くと決めた翌日から、俺の生活はかなり単純になった。
朝は身体を動かし、昼は本を読み、時間が空けばハルヴェイ商会へ顔を出す。
夜は剣を握る。
その繰り返しだ。
劇的に何かが変わるわけじゃない。
たった三週間で別人みたいに強くなれるほど、現実は都合よくできていなかった。
それでも、何もせずに学院へ入るのと、少しでも積み上げてから入るのとでは違うと思った。
朝はまだ日が高くなる前に起きて、宿の裏手か、人目の少ない場所で走った。
最初はこの身体の軽さに振り回されることが多かった。
前へ出たつもりが思ったより踏み込みすぎたり、逆に止まる時に重心が浮いたりする。
元の身体の感覚で動くと、どうしても噛み合わない。
けれど、一ヶ月も経てば少しは変わる。
女の身体にも、ほんの少しだけ慣れた。
正確には、慣れたというより扱い方を覚え始めた、という方が近い。
歩幅も、立つ時の重心も、走る時の腕の振り方も、最初の頃ほどちぐはぐではなくなった。
長い髪を束ねる動作にも手間取らなくなったし、服の上からでも分かる身体の線にいちいち意識を引っ張られることも減った。
もちろん、完全に慣れたわけじゃない。
風呂上がりに濡れた髪を払う瞬間や、胸元に触れる布の感触に、ふと「やっぱり違う」と思うことはある。
それでも、その違和感のたびに立ち止まっている暇はなかった。
剣も同じだ。
剣術はまだ全然だ。
構えた瞬間のぶれはだいぶ減ったし、右と左の動きがちぐはぐになることも少なくなった。
振る、止める、踏み替える、受ける。
そういう基礎の基礎だけなら、なんとか形にはなってきたと思う。
ただ、それだけだ。
今の俺は、ようやく「振っている」から「扱おうとしている」に変わった程度でしかない。
片方の剣に意識を寄せれば、もう片方が遅れる。
足運びと手の動きを繋げようとすると、今度は視線が甘くなる。
独学でできることには、はっきり限界があった。
知識も増えた。
文字の読み書きにはだいぶ慣れたし、ヴェルドリア王国の貴族階級、学院の制度、この街ヴァリスの役割、契約者と非契約者の違いくらいは頭に入った。
商会での仕事を通して、物の流れや金の動き、人の目線がどこに向くのかも前より見えるようになった。
でも、見えるようになったからこそ分かることもある。
俺は、本当に簡単なことしか知らない。
悪魔契約が何なのかも、魔法がどう扱われるのかも、契約者が戦場でどういう意味を持つのかも、まだ輪郭を触った程度だ。
この世界で生きるなら、それじゃ足りない。
自分を守るにも、ローゼリアを守るにも、足りなさすぎる。
ハルヴェイ商会へ通う日々も続いた。入口の空気はもう前とは違う。
立ち止まる客は増え、売れる品の流れも少しずつ整ってきた。
レインは相変わらず誠実で、コルバンも不承不承ながら棚の配置や補充の導線を受け入れ始めていた。
仕事の合間に、俺は紙切れに気づいたことを書きつけた。
どの時間に客が多いか。
どの品が一緒に買われやすいか。
どこで視線が止まり、どこで流れるか。
学院へ入ってから毎日顔を出せなくなっても、ここで積んだものが無駄にならないように。
ローゼリアのことを忘れた日はなかった。
あの手紙はちゃんと届いた。
大事なのは、彼女が少なくとも俺の言葉を受け取ったということだ。
だからこそ、余計に思う。
今のままじゃ足りない。
その実感だけは、三週間のあいだ、一度も薄れなかった。
そして三週間は終わる。
入寮の日の朝、荷物はもうほとんどまとめ終えていた。
最初にこの街へ流れ着いた時よりは増えたが、それでも抱えて歩ける程度のものしかない。
階段を下りると、いつものように食堂には温かい匂いが満ちていた。
焼いたパンと、鍋で温められたスープの匂い。
この一ヶ月、何度も嗅いできたはずなのに、今日は妙に胸の奥に残った。
「おはよう。今日は早いねぇ」
カウンターの向こうで、女将――ピア・メルセデスがいつもの調子で声をかけてくる。
その何でもない声音に、少しだけ肩の力が抜けた。
「……今日、寮に入るんです」
「ああ、学院だったね」
ピアは手を止めて、俺――いや、私の方を見た。
大げさに驚くこともなく、ただ自然に頷く。
「そっか。いよいよかい」
「はい」
短く返して、それきり言葉が続かなかった。
こういう時に何を言えばいいのか、まだよく分からない。
でも、このまま何も言わずに出ていくのは違うと思った。
「……その、ここには、本当にお世話になりました」
ピアは少しだけ目を丸くして、それからふっと笑った。
「急に改まるねぇ」
「改まりますよ」
自分でも少しおかしくなって、苦笑が漏れる。
けれど、それでも言葉は止めたくなかった。
「最初、この街に来た時、正直、何も分かってなかったんです。今も、分かってないことの方が多いですけど」
「そんなふうには見えなかったけどね」
「見えないようにしてただけです」
そう言ってから、少し息を吐く。
「でも、ここに帰ってきたら、いつも温かいご飯があって。……変に何か聞かれることもなくて」
そこで一度、言葉が詰まった。
喉の奥が、急に狭くなる。
何でもないふうに話していたはずなのに、胸の奥のどこかが、じわじわと熱を持ち始めていた。
「それが、その……思ってたより、ずっと……」
最後まで言い切る前に、視界が滲んだ。
一粒、頬を伝う。
自分でも、一瞬何が起きたのか分からなかった。
「あ……」
慌てて拭おうとしたのに、次の一粒が落ちる方が早かった。
それを追うみたいに、また一つ、また一つと溢れてくる。
止めようと思った。
こんなことで泣くつもりなんてなかった。
ちゃんと礼を言って、ちゃんと出ていくつもりだった。
なのに、一度緩んだらもう駄目だった。
この一ヶ月、ずっと気を張っていた。
目が覚めたら知らない世界で、知らない身体で、知らない文字と、知らない常識に囲まれていた。
立ち止まれば終わる気がして、とにかく前へ進むことだけを考えてきた。
ローゼリアのことも、商会のことも、学院のことも。
考えることは山ほどあった。
分からないことも、足りないものも、怖いことも、全部後回しにしていた。
でも、ここに帰ってくると、温かい食事が出てきた。
何も聞かれなかった。
ただ、泊まる場所があった。
その当たり前みたいなことが、どれだけ自分を助けていたのか。
離れる今になって、ようやく分かってしまった。
「……っ、ごめ、なさ……」
声がうまく出ない。
涙を止めようとしても、余計に溢れる。
喉の奥が震えて、呼吸まで乱れそうになる。
その時、カウンターの向こうからピアが出てきた。
「謝るんじゃないよ」
低くて、でも柔らかい声だった。
次の瞬間、ふわりと身体が包まれる。
ピアは何も言わず、そのまま私を抱きしめた。
広くも細くもない、働く女の腕だった。
硬さも温かさもある、ちゃんと生きてきた人の抱擁だった。
それに触れた瞬間、堪えていたものが本当に切れた。
「……っ、ぅ……」
声が漏れる。
みっともないと思う余裕も、もうなかった。
ピアの胸元に顔を埋めるみたいな格好になって、俺はそのまま泣いた。
肩が震えて、息が詰まって、涙が止まらない。
子どもみたいに、声を押し殺しきれないまま泣いた。
張り詰めていたものが、少しずつ、でも確かにほどけていく。
壊れるんじゃなくて、やっと緩められるみたいに。
ピアは何も聞かなかった。
ただ背中をゆっくり撫でてくれる。
「よく頑張ったね」
その一言で、また涙が溢れた。
頑張ったなんて、誰にも言われると思っていなかった。
分からないことだらけで、必死で取り繕って、前へ進もうとしていただけだ。
それでも、その言葉は胸の奥に真っ直ぐ落ちてきた。
どれくらいそうしていたのか分からない。
泣き声が少しずつ小さくなって、呼吸が落ち着いてきた頃、俺はようやくピアの胸から顔を上げた。
目元は熱くて、きっとひどい顔をしている。
ピアはそんな私を見て、困ったように、それでも少しだけ優しく笑った。
「学院に行くんだろ」
「……はい」
「じゃあ、ちゃんと前向いて行きな」
その言葉に、私は何とか頷いた。
今の俺には、まだ足りないものが多い。
守れるものも少ない。
ローゼリアを守るには、今のままじゃ全然足りない。
だから行く。
知るために。
掴むために。
自分を守るために。
そして、誰かを守れるところまで行くために。
でも、その前に。
「……本当に、ありがとうございました」
今度こそ、ちゃんと言えた。
ピアはいつもの調子で肩をすくめる。
「また顔出しな。今度は泣かずに食べていきな」
思わず、涙の残る顔のまま少し笑う。
「……努力します」
「よし」
その返事が、なんだか少しだけ嬉しかった。
足りないものは多い。
まだ何もかも足りない。
けれど、だからこそ行く。
知るために。
掴むために。
自分を守るために。
ローゼリアを守るために。
俺は荷物を持ち直し、宿の扉へ向かった。
外の空気は少しだけ冷たくて、でも前よりちゃんと前を向ける気がした。




