第三十五話 次の三週間
第三十五話 次の三週間
翌朝、目が覚めた時には、不思議なくらい頭の中が静かだった。
問題が解決したわけじゃない。
路地裏で起きたあの異常の正体は分からないままだし、双剣もまだ身体に馴染みきっていない。
ローゼリアの件だって、終わったとは到底言えない。
それでも、昨日の夜まで胸の奥に沈んでいた迷いだけは、もう形を失っていた。
学院へ行く。
制度だからじゃない。年齢だからでもない。
今の自分に必要だからだ。
そこまで決まると、逆に今やるべきことがはっきり見えた。
三週間。
入学まで残されたその時間を、どう使うか。
そこを決めなければならない。
机の上に置いた革袋へ視線を向ける。
昨日受け取った成果分の報酬。
持ち上げれば、やはりずしりと重い。
洞窟で目を覚ました最初の日には、何もなかった。
水も、食料も、服も、寝床も、金も、武器も。
今は違う。
宿がある。
商会に居場所がある。
自分で稼いだ金がある。
武器もある。
最低限の防具もある。
ローゼリアへ警告の手紙も出した。
足場はできた。
なら、その上に何を積むかだ。
小さく息を吐いて、俺は宿を出た。
*
朝のハルヴェイ商会は、開店前からもう動いていた。
入口脇では若い従業員が補充箱の位置をずらし、奥では布棚の前で色糸の並びを整えている。
誰かに怒鳴られて慌てているわけではない。
やるべきことが分かっていて、その順番で手が動いている。
入口から店内を見渡した瞬間、最初にここへ来た日の空気との差がはっきり分かった。
旅用小物の棚。
その先の布棚。
会計前の関連商品。
客がどこで止まり、どこへ流れ、どこで一つ余分に手を伸ばすのか。
最初は俺が無理やり作った流れが、今は少しずつ店そのものの癖になっている。
たった七日。
けれど、七日あれば店の空気は変わる。
「おはようございます」
若い従業員の一人が、もう自然にそう言った。
前は、俺をどう扱っていいか分からない顔をしていたのに、今は違う。
完全に仲間だと思っているわけじゃないだろうが、少なくとも“店を前に進める側の人間”としては見ている。
「おはようございます」
そう返してから、帳場へ向かう。
レインは帳面を開いていたが、俺を見るとすぐに顔を上げた。
昨夜のうちに何かを決めていたらしい。
いつもより、待ち構えていたような目をしている。
「アイリスさん」
「はい」
「七日間は終わりました」
その切り出し方に、少しだけ口元が緩みそうになる。
“終わり”の話じゃない。
ここから先を決めるための言葉だ。
「そうですね」
「だから、続きの話をしたいです」
俺は黙って頷いた。
レインは一度だけ帳面を閉じ、真っ直ぐこちらを見る。
「学院へ行くんですよね」
「はい」
「いつからですか」
「申請に行くのは今日です。実際の入学は三週間後になります」
その言葉に、レインは小さく息を吐いた。
「三週間……」
「長いようで短いです」
「そうですね」
一拍置いてから、レインは続けた。
「その三週間をどう使うつもりですか」
いい問いだった。
そして、それはたぶん俺自身が今朝から頭の中で反芻していたことでもある。
「商会との関わりは切りません」
俺がそう言うと、レインの目がわずかに動いた。
「学院に入っても、ここで作った足場を捨てる気はありません。外出が自由なら、なおさらです。最低限の衣食住が保証されたとしても、自由に使えるお金は別ですし、せっかく形にしたものを自分から手放すのは無駄が多い」
言っていて、かなり俺らしい理屈だと思った。
感情がまったくないわけじゃない。
けれど、それ以上に、ここを切る合理性が見当たらない。
「週に一度は必ず顔を出します」
レインは黙って聞いている。
「その一日で、売り場だけじゃなく、店全体の流れを見る。従業員の動き、仕入れ、卸先、今後の販路。見たいところはまだ多い」
「……やっぱり、そう考えていたんですね」
「意外ですか?」
「いえ。むしろ、安心しました」
レインは苦笑混じりに言った。
「正直、学院に入ったらここでの関わりは終わるのかと、少しだけ考えていました」
「終わらせるには、世話になりすぎました」
「それもあります。でも、それ以上に――」
そこでレインは言葉を切り、少しだけ視線を落とした。
「ここで終わるのは、もったいないです」
その一言に、妙に納得した。
そうだ。
これは情だけの話じゃない。
商会にとっても、俺にとっても、ここで切るのはもったいない。
「なら、改めてお願いしたいです」
レインは帳場の上で指を組んだ。
「学院に入ってからは、ハルヴェイ商会のアドバイザーとして、継続して関わってもらえませんか」
「臨時の手伝いじゃなく」
「はい。店全体を見てもらう前提で」
その言い方に、七日間の意味がちゃんと形になった気がした。
売り場の改善だけじゃ終わらない。
ここから先は、店そのものの成長に関わる。
「報酬の話も、今ここで決めたいです」
「固定給ですか」
「いえ。固定だと違うと思っています」
俺も同感だった。
週一で顔を出し、数字と流れを見て、店全体を調整していく。
やることは店員の延長じゃない。
なら、固定の手当より結果と連動する方が筋が通る。
「割合にしましょう」
俺が先に言うと、レインはすぐ頷いた。
「俺もそのつもりでした」
「何を基準にしますか」
「月間粗利です」
予想より即答だったので、少しだけ眉を上げる。
売上ではなく粗利。ちゃんと考えている。
「粗利の何割で?」
レインは一拍置いた。
「一割」
短く、はっきりと言った。
「月間粗利の一割を、助言料として受け取ってください」
思わず言葉が止まる。
一割。
安くはない。
むしろ踏み込んだ数字だ。
「……かなり出しますね」
「それくらいの価値はあると思っています」
レインはまっすぐだった。
「この七日で、あなたは売り場だけじゃなく、店全体の見方を変えました。俺一人では、たぶん今も目の前のことしか見えていなかった。今後も残ってもらえるなら、それくらい払う価値はあります」
そこで横から低い声が飛んだ。
「妥当だな」
振り向くと、コルバンが帳場の脇に立っていた。
いつから聞いていたのかは分からないが、驚くほどでもない。
「安く買い叩こうとして逃げられる方が面倒だ。しかも固定じゃねぇ。儲かった分から払うなら筋も通る」
「珍しく全面的に同意ですね」
「珍しく、は余計だ」
コルバンは腕を組んだまま続ける。
「週一で来るなら、その一日で何を見るかはっきりさせとけ。売り場だけ見て帰るなら高い。仕入れも卸も、店の外も見るなら安い」
相変わらず言い方は悪い。
だが、妙な情緒もない。
ただ店に残る側の実務として、筋を通している。
それがコルバンらしかった。
「分かりました」
俺は小さく息を吐いた。
「その条件で受けます」
レインの表情が、ようやく本当に緩む。
「ありがとうございます」
「学院に入っても、毎日来られるわけじゃないですよ」
「それでもゼロよりはずっといいです」
「かなり現実的ですね」
「商会主なので」
そこで少しだけ笑いが生まれる。
重い話をしているはずなのに、息苦しさはなかった。
レインは帳場の下から小さな布包みを取り出した。
「それと、これも」
「何ですか?」
「細い筆と紙です。学院でも何か書き留めることがあるかもしれないでしょう」
包みを開く。
筆と、数枚の上質紙。
金額にすれば大したことはない。
けれど、その細やかさがレインらしい。
「気が利きますね」
「こういう時に何を渡せばいいか、正直よく分からなかったので」
「でも、考えた」
「はい」
それで十分だった。
その時、コルバンがぶっきらぼうに口を開く。
「行くのか」
「行きます」
「そうか」
それだけ言って、伝票束を帳場へ置いた。
短すぎて、逆にこっちの方が拍子抜けする。
「……それだけですか」
「何だ。止めてほしいのか」
「そういうわけじゃないです」
「ならいい」
コルバンは鼻を鳴らした。
「行くなら行け。店の都合まで背負った顔でぐずぐずされる方が邪魔だ」
「言い方がひどいですね」
「優しく送り出されたいなら、よそへ行け」
即答だった。
でも、それがこの男らしい。
「こっちはこっちで回す。お前はお前で、足りねぇもん埋めてこい」
その言葉に、少しだけ胸の奥が温かくなる。
情で送るんじゃない。
残る側の現実として言っている。
それがかえって、コルバンらしい送り出しに思えた。
*
話がひと段落したあと、昼前まで店の流れを一通り見た。
入口脇の小物。
その先の布棚。
会計前の関連商品。
若い従業員の動き。
コルバンの補充位置。
レインの帳面のつけ方。
最初にここへ来た時、俺はただ利用するつもりだった。
勝てる土俵を見つけて、稼いで、生きるための足場にする。
それだけのはずだった。
けれど今は違う。
ここには、変わり始めた店がある。
誠実な若旦那がいる。
文句を言いながらも流れを守る番頭がいる。
そして、俺が自分の手で動かして、結果を残した時間がある。
切れるわけじゃない。
ここはもう、ただ通り過ぎる場所じゃなかった。
商会を出たあと、宿へ戻り、申請に必要なものだけを持つ。
革袋。
レインに渡された筆と紙。
ローゼリアには会いに行かない。
手紙は出した。
無駄ではなかったかもしれない。
今はそれでいい。
学院へ入れば、いずれ同じ場所に立つことになる。
無理に今、距離を詰める必要はない。
宿の女将に挨拶をして、表へ出る。
風は少し乾いていて、空は高かった。
学院へ向かう道は、街の中心から外れた上り坂の先にある。
歩きながら、何度も今の自分の足取りを確かめる。
何も持たずに飛び出していた時より、ずっとましだ。
坂を上り切った先で、ようやくそれは見えた。
アークレスト学院。
白と黒を基調にした大きな建物群。
尖塔の先には銀の意匠が光っている。
学び舎というには威圧感があり、要塞というには洗練されすぎていた。
剣も、知識も、身分も、全部がここへ集まるのだと、一目で分かる場所だった。
思わず足が止まる。
ここから先は、ただ生きるだけでは足りない。
力も、知識も、制御も、知らなければならない。
知らないままでは守れないものがあると、もう分かってしまった。
怖くないわけじゃない。
面倒は確実に増える。
貴族も王族もいる。
ローゼリアもいる。
想像しているより、きっとずっと厄介だ。
それでも、引き返す理由はなかった。
学院の門へ近づくと、受付用の小さな建物が脇に見えた。
入学予定者の登録、年齢確認、契約の儀の日程通知。
学院の門をくぐるのは今日ではない。
実際の入学と入寮は三週間後だと、窓口の男は事務的な声で告げた。
手続きは思ったよりあっさり終わった。
名前を書き、年齢を告げ、三週間後の日付が記された札を受け取る。
三週間。
短いようで、何もしないには長い。
長いようで、足りないものを全部埋めるには短い。
でも、今の俺には十分だった。
商会はまだ見られる。
双剣もまだ練れる。
学院へ入る前に、積めるものはまだある。
窓口を出て、もう一度だけ学院を見上げる。
学院は、もう“行くことになっている場所”じゃない。
三週間後、自分の意思で踏み入る場所になった。
学院は三週間後。
それまでは、まだこの街でやることがある。
受付札を革袋へしまいながら、俺は来た道をゆっくり引き返し始めた。




