第三十四話 足りないもの
第三十四話 足りないもの
宿に戻ると、部屋の中はいつも通り静かだった。
机の上に革袋を置く。
中には、今日受け取った成果分の報酬が入っている。持ち上げれば、ずしりと重い。
軽くはない。
俺がこの世界で稼いだ金の重さだった。
洞窟で目を覚ました最初の日には、何もなかった。
水も、食料も、服も、寝床も、金も、武器も。
ただ生き残るために必要な物を、一つずつ拾い集めてきた。
今は違う。
宿がある。
商会に居場所がある。
武器がある。
軽装の防具もある。
ローゼリアに警告の手紙も出した。
少なくとも、あの子は今すぐ不用意に外へ出るような状況ではなさそうだ。
ここまで来れば、十分前に進んだと言ってもいいはずだった。
それでも、胸の奥にはどうしても消えない感覚が残っている。
足りない。
その一言だけが、妙に重く沈んでいた。
俺は壁際に立てかけていた二本の剣を手に取った。
鞘から少しだけ抜く。
薄い刃が、窓から差し込む夜の灯りを鈍く返した。
買った時よりは、少しだけ手に馴染んできた気がする。
けれど、馴染むことと扱えることは別だ。
朝の空き地で振った時の感触が、まだ腕に残っている。
右を意識すれば左が遅れる。
左を返そうとすれば、今度は体の軸が浮く。
頭の中には形がある。
ゲームの中で何度も見た動き、何度も使った型がある。
けれど、現実の身体はその通りには動いてくれない。
今の俺の身体は、軽い。
柔らかい。
大剣のように重さで叩き潰すより、細かく動いて隙間に入る方が向いている。
刀はまだこの世界で見ていない。
今ある選択肢の中で、一番理にかなっているのは双剣だと思う。
それでも、双剣を選んだことと、双剣で生き残れることは別だ。
ゆっくり鞘へ戻す。
武器は買った。
防具も揃えた。
何も持っていなかった時よりは、ずっとましだ。
でも、路地裏で起きたあの異常を思い出すと、それだけではどうにもならないと分かる。
あれは何だった。
怒りと嫌悪で、胸の奥が軋んだ。
次の瞬間には空気が重くなって、男たちが崩れた。
魔法なのか。
分からない。
もっと厄介なのは、分からない上に再現もできないことだった。
もう一度やれと言われても無理だ。
いや、やりたいとも思わない。
けれど、あれが偶然の一度きりなら、それは力とは呼べない。
助かった結果だけを見れば救いに見えても、次に同じ状況が来た時、あれに賭けるしかないなら何も変わっていない。
武器の扱いも甘い。
防具にも慣れていない。
異常の正体も分からない。
つまり、足りないのは装備だけじゃない。
知識も、技術も、制御も、何もかも足りていない。
椅子に腰を下ろし、革袋の口を開ける。
中の硬貨が小さく触れ合う音がした。
心強い。
この世界で、自分の頭と手で作った金だ。
けれど、この重み一つで全部が守れるわけでもない。
ローゼリアの顔が浮かぶ。
赤い髪。
金の瞳。
気の強い、けれど真っ直ぐな目。
手紙は届いたかもしれない。
少なくとも、無駄ではなかった可能性はある。
そして、あと三週間もすればローゼリアも学院へ入る。
学院。
これまでは、年齢になれば行く場所、悪魔契約をする場所、そのくらいの認識だった。
ローゼリアも行く。
俺も行くことになる。
制度としてそうなっている。
だから行く。
――その程度だった。
けれど、今は違う。
あそこは、契約の儀を受ける場所だ。
悪魔と繋がる場所だ。
力の扱い方を学ぶ場所だ。
この世界の当たり前を知る場所だ。
そして何より、今の俺に足りないものへ、一番近づける場所でもある。
もし学院へ行けば、契約について知れるかもしれない。
魔法についても、魔力圧についても、少なくとも今よりは分かる。
あの路地裏で起きた異常の正体にも、手がかりがあるかもしれない。
剣の扱いだって、独学で土を切っているよりはましな形で身につけられるはずだ。
それに、ローゼリアもそこへ来る。
学院に入れば、少なくとも今みたいに離れた場所から手紙一通でしか動けない距離じゃなくなる。
もちろん、学院が絶対安全な場所だなんて思っていない。
貴族も王族もいる。
派閥も身分差もあるだろう。
むしろ面倒は増えるかもしれない。
でも今の俺に必要なのは、安心できる場所じゃない。
足りないものを埋める場所だ。
知らないままでは駄目だ。
持っただけでも駄目だ。
偶然だけに頼るのは、もっと駄目だ。
窓の外を見る。
夜は深い。
それでも、もう迷ってはいなかった。
ローゼリアが学院へ入るまで、あと三週間。
敵がすぐに次を打ってこないなら、その猶予を使うべきだ。
怯えて過ごすためじゃない。
備えるために。
学院へ行く。
制度だからじゃない。
年齢だからでもない。
今の俺には、あそこへ行く必要がある。
そう思えた瞬間、不思議なくらい胸の中が静かになった。
全部が解決したわけじゃない。
むしろ、問題はまだ何一つ終わっていない。
それでも、次に進む理由だけははっきりした。
生きる場所はできた。
なら次は、守れるだけの力を手に入れなければならない。
学院へ行く理由は、もう十分だった。




