第二十九話 手がかり
投稿が遅くなってしまいました。
ごめんなさい。
それでは29話お楽しみください!
第二十九話 手がかり
昼前、俺は布棚の前にしゃがみ込んでいた。
並んでいるのは、丈夫な麻布、補修用の端切れ、旅人向けの簡易外套に使う厚手の布。
昨日まではただ積まれているだけだったそれらを、今日は用途ごとに寄せ直している。
「針と糸は、こっちです」
近くの若い従業員にそう言うと、相手は慌てて頷いた。
「布の近くに置くんですか?」
「布だけ見せても、その場では終わりやすいです。買う理由がまとまって見えた方がいい」
俺は立ち上がって、一度棚全体を見渡した。
まだ粗い。
だが、入口を変えた時と同じで、流れはもう見えている。
入口で止まった客が、そのまま奥へ入るようになった。
旅小物を手に取った客が、ついでに外套を見るようになった。
昨日は「偶然かもしれない」で済んだ変化が、今日はもうそうではない。
商会は確かに動き始めている。
それでも、頭の片隅から昨夜の路地裏は消えなかった。
崩れ落ちた男たち。
軋んだ空気。
逃げていった黒い影。
そして――ローゼリア。
俺は無意識に指先を握り込んでいた。
昨夜の熱はもう暴れ回ってはいない。
だが、胸の奥に小さく残っている。
消えたわけじゃない。
「アイリスさん」
帳場の方からレインが声をかけてきた。
「少し、いいですか」
俺は布棚から離れて、帳場へ向かった。
そこには今朝からの売上帳と、簡単な在庫札が並べられている。
昨日の時点では、記録はあるが活かされていなかった。
今はまだ粗いにしても、少しずつ“見て使う”形へ寄せ始めていた。
「朝からの動きです」
レインが帳面をこちらへ向ける。
「火打石、携帯油、紐、小針。入口側に寄せたものは、やはり昨日より動いています。布も、見るだけで終わる人が減りました」
「ええ」
数字を追いながら答える。
間違ってはいない。
入口を変えた効果は、もう感覚だけじゃなく、ちゃんと売上の流れに乗り始めていた。
レインは少しだけ表情を和らげたが、そのあとで俺の顔を見て言った。
「……でも、今日は昨日より考え込んでいますよね」
「そう見えますか」
「見えます」
ごまかすほどのことでもない。
ただ、全部を話す気にもなれなかった。
今からヴァルンハート家へ行くことはできる。
門を叩いて、ローゼリアか、せめてエレノアに会わせてほしいと頼むこともできる。
でも、その先はどうする。
証拠はない。
誰が敵かも分からない。
屋敷の内側の誰まで信用していいかも見えていない。
昨夜、自分の身に起きたことすら説明できない今の状態で飛び込んでも、ただ騒ぎを大きくするだけかもしれない。
今、欲しいのは告発じゃない。
まずはローゼリアが不用意に外へ出ないこと。
そこだ。
「レイン」
「はい」
「貴族街へ品を届けることってありますか」
レインが少しだけ目を瞬かせた。
「あります。頻度は多くありませんけど、使用人が買いに来るだけじゃなく、こちらから届けることもあります」
「個人宛の封書を添えることは?」
「礼状や取り置きの連絡なら。そこまで珍しくはありません」
その返答を聞いた瞬間、頭の中で線が一本繋がった。
直接行けないわけじゃない。
でも、今は行かない方がいい。
なら、届く形で警告だけを先に送る。
そこで奥から、いつもの不機嫌な声が飛んできた。
「名のある家なら、宛名がちゃんとしてりゃ本人まで行く」
振り向くと、コルバンが棚卸札の束を片手にこちらを見ていた。
「ただし、中身まで雑に書くなよ。読む前に怪しまれりゃ終わりだ」
「……聞いてたんですか」
「聞こえるところで喋ってるからだ」
ぶっきらぼうに吐き捨てて、コルバンは帳場の端に札を置く。
「貴族は表の礼を崩さん。本人宛の封をその辺の雑用が勝手に開くような真似は、そうそうせん。だが、下手な文面なら別だ」
それだけ言って、また奥へ引っ込もうとする。
「コルバン」
呼び止めると、面倒そうに肩越しに振り返った。
「何だ」
「ありがとうございます」
「礼を言われるほどのことは言ってねぇ」
鼻を鳴らして去っていく背を見送り、俺は小さく息を吐いた。
レインが困ったように笑う。
「コルバンさんなりに、使える情報だけは落としてくれたんだと思います」
「そうでしょうね」
素直じゃない。
だが、現場を知っているのは本当だ。
俺は帳場の上に置かれていた紙束へ手を伸ばした。
「紙、借ります」
「どうぞ」
レインがすぐに筆記具とインク壺を寄せる。
俺は封筒を一枚抜き、表に丁寧な字で書いた。
先日のお礼 ローゼリア様宛
それから中の紙へ、短く書く。
ローゼリア、あの事件はまだ終わってない。なるべく外出は控えて、この手紙の事は口外しないで。
そして、読んだらこの手紙はすぐに燃やして。
アイリス
書き終えて、ほんのわずかに迷う。
もっとぼかすべきかとも思った。
だが、回りくどくして伝わらなければ意味がない。
ローゼリアなら、これで分かる。
紙を折って封筒へ入れる。
封を閉じる指先に、昨夜の震えはもうなかった。
「届けられますか」
レインは封筒の宛名を見て、静かに頷いた。
「できます。今日のうちに、屋敷側の手へ渡るようにします」
「中は見ないでください」
「見ません」
即答だった。
その言葉に嘘がないことは、もう分かっている。
「返事もいりません」
「承知しました」
それで十分だった。
敵を捕まえたわけじゃない。
逃げた影もそのままだ。
昨夜、自分の中から漏れ出したあの異常が何だったのかも分からない。
何一つ、終わっていない。
それでも、何もしないよりはいい。
まず一つ、ローゼリアを不用意に外へ出させない。
今の俺に必要なのは、派手な勝ち方じゃなくて、その一手だった。
店の方へ視線を向ける。
入口で立ち止まった男が、旅用の小さな革袋を手に取り、そのまま布棚の方まで歩いていく。
昨日までなら、そこで終わっていた客だ。
商会は前に進み始めている。
ただ稼ぐためだけじゃない。
この商会にいる意味が、もう一つできた。




