第二十七話 理性の外
男の一人が、石畳を鳴らして一歩前へ出た。
そのたった一歩だけで、嫌というほど分かる。
肩の厚み。
腕の太さ。
腰の低さ。
踏み込みの重さ。
勝てるわけがない。
男だった頃の身体なら、まだ違ったかもしれない。
だが今の俺は違う。
軽い。
細い。
腕力も足りない。
二十キロの岩ひとつ持ち上げるのにも苦労するこの身体で、ならず者の大人の男を正面からどうこうできるはずがなかった。
そんなことは、分かっている。
分かっているのに、下がれなかった。
「威勢だけはいいな」
男が笑った。
さっきまでの下卑た調子は残っているのに、もう完全にこちらを舐め切った声ではない。
目の前に出てきた若い女が、予想より噛みついてきた。
その程度の警戒は乗っている。
「で、どうする。ここで一人で何ができる?」
答えられない。
喉が焼けるみたいに熱いのに、言葉だけがうまく出てこない。
逃げろ。
頭のどこかでは、まだそう言っていた。
今なら、まだ間に合う。
ここで背を向けて、人を呼んで、別の手を探すべきだ。
それが正しい。
それくらい、分かっている。
それなのに、足は石畳に縫いつけられたみたいに動かなかった。
「黙ったか」
男が、さらに半歩だけ詰めた。
手が伸びる。
掴むのか、突き飛ばすのか、それともただ怯ませるつもりなのか。
そんなことはどうでもよかった。
そんなことより、力に任せられない怒り、感じた事のない嫌悪感が俺の体と思考を支配していった。
そして男の指先が視界の端に入った瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。
ぎし、と。
骨が鳴ったわけじゃない。
もっと内側。
心臓の裏か、肺の底か、自分でも分からない場所で、目に見えない何かがきしんだ。
「……っ」
呼吸が、止まる。
男の手が途中で止まった。
止まったように見えた、のかもしれない。
「……なんだ?」
別の男が低く呟く。
その声に、さっきまでの余裕はなかった。
空気が重い。
狭い路地そのものに、見えない何かが満ちていく。
酒場裏に積まれていた空樽がごと、と短く鳴った。
壁際に置かれた木箱が小さく揺れ、足元の砂がかすかに跳ねる。
「おい」
前に出ていた男が喉を押さえた。
顔が歪む。
「なん……だよ、これ……!」
息が吸えないのだろう。
胸を掻く。
一歩下がろうとして、膝が落ちる。
石畳に片手をついたまま、俺を見上げる目だけが大きく見開かれた。
別の一人も、壁に背を打ちつけるようによろめいた。
「ふざ、け……るな……!」
怒鳴ろうとしているのに、声にならない。
喉が潰れたみたいに掠れ、短く途切れる。
分からない。
何が起きている。
どうしてこうなっている。
俺は何もしていない。
少なくとも、そういうつもりでは。
ただ、腹の底が熱かった。
怒りとも嫌悪ともつかない熱が、全身を駆け上がっていく。
視界の端がじりじりと白く焼け、男たちの輪郭だけがやけにくっきり見えた。
耳鳴りがする。
なのに、男たちの荒い呼吸だけが妙に近い。
「ローゼリアに……何するつもりだった」
自分の声が遠い。
低く、硬く、押し殺しているはずなのに、路地の空気を震わせて広がっていく。
「い、言う……! 言うから……!」
膝をついた男が何度も頷いた。
だが、言葉はうまく繋がらない。
「俺じゃ、ねぇ……っ、上から、言われて……あ、ああ、やめろ、やめろやめろやめろ……!」
そのまま自分の頭を両手で掻きむしる。
爪が皮膚を裂いても、痛みを感じている様子がない。
もう一人は壁際で尻餅をついたまま、目を見開いて意味のない音だけを漏らしていた。
最後の一人は口をぱくぱく開閉するだけで、何も言えない。
笑っていた顔が、理解不能と恐怖の中間みたいに崩れていく。
路地の空気は、さらに重くなる。
石壁が、またみし、と鳴った。
そこで初めて、俺は自分の指先が小刻みに震えていることに気づいた。
息が浅い。
胸が痛い。
頭の芯がじんじんと痺れている。
なのに、熱は引かない。
「ふざけるな」
言葉が、また勝手に零れた。
「ふざけるなよ。勝手に人の命を決めて、勝手に流して、今度こそ、だ?」
最後の方は、自分でも何を言っているのか分からなかった。
怒鳴っているつもりはない。
なのに、空気の方が先に軋む。
ぎし、ぎし、と。
男たちが一斉に悲鳴を呑み込んだ。
一人はその場に崩れ落ち、もう一人は壁に背を打ちつけたまま腰が抜け、最後の一人は目を見開いたまま、喉の奥で壊れた笛みたいな音を漏らす。
その時だった。
路地の奥、荷箱の影が動いた。
男たちとは少し距離を取った位置。
最初から近くへ寄らず、様子だけを窺っていた気配がある。
黒っぽい外套の裾が翻る。
そいつは一歩、二歩と後ずさり、俺が視線を向けた瞬間、弾かれたように身を翻した。
逃げる。
追わなければ、と思った。
だが足が動かない。
影はそのまま路地の奥へ消えた。
石畳を蹴る足音だけが、やけに鮮明に残る。
次の瞬間、膝が揺れた。
壁に手をつく。
吐き気が込み上げる。
視界がぐらりと傾いた。
目の前では、男たちがまだ壊れたように呻いている。
一人は意味のない謝罪を繰り返し、一人は嗚咽だけを漏らし、一人は目を見開いたまま何も言えなくなっていた。
勝った、とは思えなかった。
殴ったわけでもない。
刃を振ったわけでもない。
それなのに、路地は完全に壊れていた。
荒い呼吸だけが、狭い空間に残る。
その中心に立っているのが自分だと、すぐには理解できなかった。
手のひらの下で、石壁が冷たい。
なのに、身体の奥はまだ熱い。
――今の、何だ。
心の中でそう呟いたはずなのに、その声さえひどく遠かった。




