第二十六話 赤い髪の娘
翌朝のハルヴェイ商会は、昨日とは少しだけ空気が違っていた。
開店して間もない時間。
まだ陽は高くないのに、入口の前で足を止める客が確かに増えている。
旅用の小物をまとめた棚の前で、立ち止まり、目を走らせ、手に取る。
その流れが昨日より自然だった。
「火打石と、それから……ああ、油もあるのか」
通りがかりの男がそう言って、まとめて品を抱えていく。
昨日までなら、そのまま素通りしていたはずの客だ。
帳場の横でその様子を見ていたレインが、小さく息を吐いた。
「入口だけで、ここまで変わるものなんですね」
驚き半分、安堵半分。
そんな声だった。
「入口だけじゃないです。入口で“入る理由”を作れたからです」
そう返しながらも、俺の意識は半分しかそこに向いていなかった。
昨日の帰り道、酒場裏で聞いた声が、朝からずっと頭の奥にこびりついている。
――前は流されたはずだ。
――赤い髪の娘だろ。
――今度こそ外へ出た時に。
何度考えても、偶然とは思えなかった。
レインは俺の返事の遅れに気づいたらしく、少しだけ首を傾げた。
「……アイリスさん?」
「え?」
「いえ。少し、疲れているように見えたので」
「平気です」
咄嗟にそう返した。
嘘ではない。
少なくとも、身体はまだ動く。
ただ、胸の奥に嫌な重さが沈んでいるだけだ。
入口の棚では、若い従業員が補充箱から小物を足していた。
昨日俺が指示した通り、棚の下にまとめて置いた箱から必要分だけ抜いている。
ぎこちなさはあるが、昨日より迷いが少ない。
番頭も相変わらず不機嫌な顔ではあったものの、今朝はもう「元に戻せ」とは言わなかった。
店は確かに動き始めていた。
死んでいた流れに、少しずつ血が通い始めている。
なのに、俺の頭は別の場所に引かれ続けている。
昼に近づく頃、客足が少し落ち着いた。
俺は帳場の横で並びの様子を確認してから、レインへ向き直った。
「少し外します」
レインが顔を上げる。
「何かありましたか」
「気になることがあるんです。戻れたら戻ります」
一拍だけ沈黙があった。
たぶん彼は、昨日の帰り際から俺の様子が少し違うことに気づいていたのだろう。
「……分かりました」
レインはそれ以上聞かなかった。
「無理はしないでください」
その言葉に、ほんの少しだけ救われる。
俺は短く頷いて、商会を出た。
*
昼のヴァリスは表通りこそ賑やかだが、一歩裏へ入れば空気が変わる。
細い路地。
湿った石壁。
酒の腐った匂い。
荷箱の陰に溜まる薄汚れた水。
人はいるのに、誰も他人の顔を見ない。
見たところで、自分に関わる厄介ごとになるだけだと知っている街の裏側だった。
俺は昨日声を聞いた酒場裏へ戻り、樽と崩れた木箱の陰へ身を潜めた。
本来なら、ここで正面から鉢合わせるつもりはない。
今の俺は、男だった頃の身体じゃない。
肩の幅も違う。
腕の太さも、重心も、踏み込みも違う。
二十キロの岩すら満足に持ち上げられないこの身体で、ならず者の男たちを相手に正面からやり合えば終わる。
そんなことくらい、嫌というほど分かっている。
だから、本来なら出る場面じゃない。
聞いて、確かめて、引く。
それが正しい。
なのに、喉の奥が妙に乾いていた。
しばらく待つと、奥の曲がり角から低い声が近づいてきた。
二人、いや三人。
靴音が重い。
酒場の壁際で止まる。
「屋敷の中にいる間は手ェ出すなってよ。余計な面倒になる」
「分かってる。だから外に出る時を待ってんだろうが」
「前は橋から落として流したんだ。あれで終わりだったはずなんだよ」
背中が冷えた。
「赤い髪は目立つ。見つけりゃすぐ分かる」
「今度こそ確実にやれよ。二度目はねぇ」
その言葉と同時に、川の冷たさが蘇った。
濁った水。
腕にかかった重み。
意識のない細い身体。
濡れた赤い髪。
あの時、抱え上げたローゼリアの冷たさが、今も手の中に残っている気がした。
聞き間違いであってほしかった。
ただの別人であってほしかった。
でも、もう無理だった。
あれはローゼリアだ。
胸の奥で、何かがずしりと沈んだ。
次の瞬間、それは熱に変わった。
「それにしてもよ」
別の男が笑う。
下卑た、粘つくような笑いだった。
「昨日の女、見たか? あの商会の近くにいた金髪」
「見た見た。ありゃ上玉だったな」
ぞっとした。
思わず息が止まる。
会話が、嫌な方へ滑っていく。
「顔もそうだが、ありゃ身体つきも――」
そこで、頭の中の何かが音もなく切れた。
いつ足が動いたのか、自分でも分からなかった。
気づいた時には、物陰を出ていた。
石畳の真ん中に立ち、男たちの視線を真正面から受けていた。
三人の男が一斉にこちらを見る。
最初の一瞬は驚き。
だが、そのあとの目が変わるのを、俺ははっきり見た。
顔。
首元。
胸元。
腰。
脚。
順番に、値札でもつけるみたいに視線が滑る。
その瞬間、背筋が粟立った。
怖いんじゃない。
気持ち悪かった。
風呂で身体を見るのとも、服を着るのとも、全然違う。
自分の身体が、他人の欲望と品定めの目に晒される。
それが、こんなにも生理的に不快なものだなんて、知らなかった。
「おいおい、なんだよ」
男の一人がにやついた。
「さっきの話、聞いてたのか?」
別の男は、隠す気もなく俺を見下ろして笑う。
「近くで見ると、ますますいいな」
胃の奥がひっくり返るような嫌悪感がこみ上げた。
「……誰の話をしてる」
声が出た。
けれど、それはもう整えた声じゃなかった。
低く、硬く、押し殺したような音だった。
「は?」
「赤い髪の娘って、誰のことだって聞いてんだよ」
自分で言ってから気づく。
口調が完全に崩れていた。
“私”じゃない。
もう、中の俺がそのまま出ている。
だが、そんなことを気にしている余裕はなかった。
男たちは一瞬だけ目を細めたあと、すぐにまた薄く笑った。
若い女が一人。
武器らしい武器もない。
身体つきだって細い。
どう見ても脅威じゃない――そういう笑い方だった。
「何だ、関係者か?」
「だとしたら都合がいいじゃねえか」
その言葉と同時に、また目が滑る。
顔から、胸元へ。
腰へ。
脚へ。
腹の底が焼けるみたいに熱かった。
「……見てんじゃねえよ」
吐き捨てるように言った瞬間、男の一人が肩を揺らして笑った。
「気が強えな。そういうのも嫌いじゃねえ――」
「ふざけんなよ、おまえら」
声が、思ったより大きく響いた。
路地の空気が、ぴたりと止まる。
俺は、自分が今どんな顔をしているのか分からなかった。
分かるのはただ、もう引けないということだけだ。
勝てない。
普通に考えれば、ここで正面からやり合えば終わる。
そんなことは分かっている。
それでも、今さら引けるわけがなかった。
男の一人が、にやつきを消した。
一歩、こちらへ踏み出す。
その動きが、やけにゆっくり見えた。




