第二十二話 勝てる土俵
第二十二話 勝てる土俵
公立書庫を出たあとも、俺の頭の中には文字より先に、別の数字が残っていた。
三十万ビル。
銀貨三十枚。
切り詰めれば三か月は持つ。
けれど、三か月“もある”じゃない。
三か月“しかない”だ。
学院に入れば、寮も食事も学費も国が持つ。
そこまではいい。
問題はその先だった。
学院を出たあと、どこで、どうやって生きていくか。
そこまで見据えなければ、結局また誰かの厚意に寄りかかるしかなくなる。
「それは嫌だよね」
小さく呟いて、俺は中央広場を見回した。
活気はある。
物も人も動いている。
だからこそ分かることもあった。
この世界の商売は、勘と経験と信用で回っている。
悪いことじゃない。
むしろ、それ自体は強い。
だが、その強さに頼りきっている。
並べ方、見せ方、客の流れ、単価、ついで買い――そういう“仕組み”が弱い。
だったら、俺が入るべき場所は決まっている。
商会だ。
この世界の経済、物流、物の価値、人の金の使い方。
全部を知りたいなら、そこが一番早い。
しかも、今の俺が価値を出せる可能性も高い。
可哀想な店を助けたいわけじゃない。
俺の強みが刺さる場所を選ぶ。
それが先だ。
*
俺は市場の通りをゆっくり歩いた。
露店では、香辛料や乾物、焼き菓子、雑貨、布、革小物が売られている。
客を呼ぶ声は大きい。
だが、よく聞けばどこも似たようなことしか言っていない。
何が売りなのか、誰に向けて勧めているのかが曖昧だ。
一軒の雑貨店の前で足を止める。
旅人向けの火打石と、家庭用の鍋敷きと、子ども向けの木製玩具が、同じ棚に雑然と置かれていた。
品物自体は悪くない。
なのに、何の店なのか一目で分からない。
「もったいない……」
思わず声に出た。
別の布屋を覗けば、良い布は奥にしまわれていて、入口には地味な反物ばかりが掛かっていた。
これでは初見の客は入る前に去る。
客の目を引くべき一枚が、まるで分かっていない。
なるほど。
物が悪いわけじゃない。
売り方が雑なんだ。
何軒か見て回るうちに、切るべき店も見えてきた。
立地が死んでいる店は駄目。
品が弱い店も駄目。
人間が腐っている店も駄目。
欲しいのは、まだ死んでいない店だ。
品はある。
場所も悪くない。
なのに回っていない――そういう“惜しい店”。
その時、一軒の商会の前で足が止まった。
外套、旅用鞄、革ベルト、布地、簡易の裁縫道具。
表に見える品だけでも、この店が旅人と日常客の両方を相手にしていることが分かる。
扱っている物の幅も広い。総合商会寄りだ。
なのに、店先が死んでいる。
旅用品と衣類の並びが分散していて、客の動線が散っている。
入口で足を止めさせるべき物が奥へ引っ込んでいる。
良い品が埋もれている。
何より、店の空気が硬い。
看板には、ハルヴェイ商会とあった。
「惜しい、どころじゃないな……」
そう思った直後だった。
「何度言わせりゃ分かる! これは表に出す品じゃねぇだろうが!」
怒鳴り声が、店の空気をさらに冷やした。
古株らしい男が、若い従業員を客前で叱りつけている。 従業員は肩を縮め、持っていた布束を胸に抱えたまま謝っていた。
近くの客が一人、居心地悪そうに顔をしかめて店を出ていく。
俺は小さく息を吐いた。
「……ここも駄目か」
品が良くても、空気が悪ければ客は離れる。
まして、客前で人を潰すような店なら尚更だ。
踵を返しかけた、その時。
「申し訳ありません。見苦しいところをお見せしました」
静かな声が、場を断った。
振り返ると、奥から一人の青年が歩いてくる。
深い青灰色の髪。
淡い青を混ぜた灰色の瞳。
首筋にかけて、白斑模様が薄く見えた。
商会服は上質だが実務向きで、若旦那という言葉がそのまま形になったような青年だった。
彼はまず、怒鳴っていた男ではなく、俺へ頭を下げた。
「不快な思いをさせてしまい、申し訳ありません」
謝罪の順番を分かっている。
それだけで、少しだけ評価を上げる。
彼はすぐに従業員の方へ向き直った。
「何を表に出そうとしていたんだ?」
「は、はい……旅の方が増えていたので、少しでも目を引く物をと……」
「気持ちは分かる。でも、それは値付けがまだだ。表へ出す前に、一度こちらへ通してほしい」
「……はい」
責めるだけじゃない。
理由を確かめて、改善点だけを伝える。
その後で、彼は古株の男へ目を向けた。
「客前で怒鳴るのはやめてください」
「しかし坊ちゃん、この程度のことも――」
「この程度のことだからです。店の空気まで悪くする必要はありません」
声は強くない。
だが、引いていない。
古株の男は不満を飲み込むように口を閉じた。
従業員たちは萎縮しているが、彼自身には敵意を向けていない。
むしろ、その背を見て少しだけ肩の力を抜いている。
俺はそこで、最初の判断を修正した。
この店は死んでいない。
空気を悪くしているものはある。
だが、芯は残っている。
「何かお探しでしたか?」
彼がこちらへ向き直る。
「働き口を探してます」
彼は一瞬だけ目を丸くし、それから困ったように眉を下げた。
「……それはありがたい話です。ただ、申し訳ありません。今のうちには、新しく人を雇う余裕がありません」
俺は少しだけ視線を細めた。
「余裕がないっていうのは、金の話ですか?」
彼はすぐには答えなかった。
だが、誤魔化しもしなかった。
「ええ。商会の売上が落ち続けています。正直に言えば、今は赤字です。私の力不足です」
そこを認めるのか。
俺は、その誠実さを好ましいと思った。
無能な人間は、失敗を隠す。
未熟な人間は、失敗を認めた上で立ち尽くす。
そして、立て直せるのはせめて後者だ。
その時、さっきの従業員が小さく彼を呼んだ。
「レイン様……」
なるほど。
彼が、この店のボスか。
「なるほど」
だったら、話は早い。
「その赤字、黒字にできます」
空気が止まった。
番頭の視線が刺さる。従業員たちも動きを止めた。
レインだけが、信じられないものを見るように俺を見ている。
「……少しだけ時間をもらえますか」
俺は店先を軽く見回した。
「ここでする話じゃないので」
レインは戸惑いを隠せなかったが、それでも目を逸らさなかった。
「……分かりました。奥へどうぞ」
俺は頷き、店の奥へ足を向けた。
勝てる土俵は、ここだ。




