第二十一話 知るために
第二十一話 知るために
入口の上に掲げられた板を、俺はしばらく見上げていた。
白っぽい石造りの建物。
整った柱。
開け放たれた扉の向こうに、静かな空気が見える。
そこに刻まれている文字は、間違いなく見たことのない形だった。
曲線と直線が混ざり合った、不思議な並び。
なのに、その意味だけが、まるで昔から知っていたみたいに頭へ入ってくる。
『ヴァリス公立書庫』
「……わかる」
読める、じゃない。
文字を一つずつ追っている感覚はない。
ただ見た瞬間に、意味だけがそのまま落ちてくる。
気味が悪い。
だが、そこで首を振った。
「今はそこじゃない」
理由は後だ。
わかるなら使う。
優先するべきは、生きるための情報を手に入れることだ。
俺は気持ちを切り替え、そのまま書庫の中へ足を踏み入れた。
*
中は外の喧騒が嘘みたいに静かだった。
石の壁に沿って背の高い棚が並び、そこへ本が隙間なく収められている。
窓から入る光はやわらかく、埃が白く漂って見えた。
木と紙と、少しだけインクの匂いがする。
古びているのに、不潔さはない。
人の手で丁寧に守られてきた場所の空気だった。
入口近くの机には、灰色の髪を後ろで束ねた年配の女が座っていた。
たぶん司書だろう。
眼鏡のような細い金具を鼻にかけ、帳面に何かを書きつけている。
「すみません」
声をかけると、女はゆっくり顔を上げた。
「ご利用ですか?」
言葉は自然に意味として入ってくる。
やっぱり会話も問題ない。
「はい。街に来たばかりで、基本的なことが知りたくて」
「でしたら、あちらの棚に初学者向けの案内書がございます。ヴァリスの地誌、王国概要、学院案内など。館内閲覧のみであれば自由ですので」
「ありがとうございます」
やはり、助かる。
違和感はあるが、今はそれ以上にありがたかった。
教えられた棚へ向かう。
背表紙に並ぶ見たこともない文字列を前にしても、手に取れば意味がわかった。
まず選んだのは、ヴァリスの案内書だった。
表紙を開き、最初の頁を眺める。
意味が、すっと頭に入る。
ヴァリスはヴェルドリア王国の重要な要塞都市。
周辺の森から木材が、山地から鉱石が運ばれ、物流と加工の拠点になっているらしい。
だからあの街には、あれだけ多くの獣車と商人がいたのか。
中央広場、南市場、北工区、居住区、そしてヴァルンハート家をはじめとする上位貴族の屋敷街。
地図と照らし合わせると、今いる位置もなんとなく掴める。
「なるほどな……」
次に手に取ったのは通貨と物価の入門書だった。
これも欲しかった。
これが今の俺には一番必要だ。
この世界の通貨単位はビル。
頁をめくり、貨幣の種類を確認していく。
鉄貨、銅貨、銀貨、金貨、白金貨。
さらにそれぞれに“大”があり、価値が一段上がる仕組みらしい。
紙幣は存在せず、すべて硬貨のみ。
俺はそこで、一度革袋を取り出した。
レオニードから渡された、あの生活費だ。
中身を机の上にそっと出す。
「……銀貨、三十枚」
厚みのある銀色の貨幣が、朝の光を鈍く返した。
本に書かれた説明を目で追う。
一銀貨は一万ビル。
つまり三十枚で三十万ビル。
さらに物価の頁を見ていく。
簡素な食事なら銅貨数枚から。
安宿でも一泊で銅貨数枚から大銅貨一枚前後。
切り詰めれば、一か月を銀貨十枚前後で乗り切ることはできるらしい。
「じゃあ、三か月分くらいか」
思わず呟く。
さすがに何年も遊んで暮らせるような金額ではない。
だが、いきなり今日明日の心配をしなくて済むくらいには十分だ。
ありがたいどころの話じゃない。
俺は革袋の口を結び直した。
ここで無駄に使えば、すぐに首が締まる。
だが、逆に言えば、焦って何かに飛びつかなくていい時間を買ってもらったとも言える。
もちろん、だからといって無駄遣いできる額でもない。
宿を取るのか、しばらく安い食事で繋ぐのか、そのへんの感覚は早めに掴まなきゃいけない。
「ふむ……」
冊子を閉じ、次は学院案内を探す。
アークレスト学院。
昨日マオが話していた場所だ。
入学時期、一六歳になる年に集められること、寮生活、授業科目、悪魔契約、契約者と非契約者で学ぶ内容が異なること。
ざっと眺めるだけでもかなり多い。
全部を頭へ入れるのは無理だが、少なくとも“学院へ行けば何とかなる”みたいな甘い場所ではないことは分かる。
試験もあるし、当然、落ちる者もいる。
「……面白そうじゃん」
口の端が少し上がる。
怖さがないわけじゃない。
でも未知の仕組みを知ること自体は、思ったより嫌じゃなかった。
むしろ好きかもしれない。
知らない世界のルールが、少しずつ形になっていくのは妙に落ち着く。
頁をめくる。
文字は相変わらず“わかる”。
目が形を追うより先に、意味が頭へ流れ込む。
そこまで来て、俺はふと別の本を手に取った。
棚の端に差してあった、少し厚めの本だ。
表題は理解できる。
王国成立史。
なら、これも読めるはずだ。
最初の数行は分かった。
だが、その先で急に流れが鈍る。
「……ん?」
単語そのものはなんとなく拾える。
だが文全体になると、意味がぼやける。
頭へ入ってくる速度が急に落ちた。
古い言い回しなのか、専門的すぎるのか。
さっきまでみたいに、意味がそのまま胸へ落ちてこない。
もう一度、同じ行を見る。
わかるところと、わからないところが混ざる。
この感覚は変だった。
「全部が全部、いけるわけじゃないのか」
小さく呟いて本を閉じる。
それでも十分だ。
日常の案内、通貨、地理、学院。
今欲しい情報は拾えている。
だったら今はそれでいい。
俺は机へ戻り、必要そうな冊子を重ねた。
正確には持ち出しはできないから、その場で読める分だけ読むしかない。
それでも、頭の中の霧はかなり晴れた。
ヴェルドリア王国。
ヴァリス。
ビル。
アークレスト学院。
バラバラだった情報が、ようやく地続きになっていく。
時間を忘れて何冊か眺めたあと、俺はゆっくり息を吐いた。
少し疲れた。
だが、昨日までの“何も分からない”よりはずっとましだ。
「まずはこんなもんか」
冊子を閉じ、背もたれに身体を預ける。
助かる。
ここまでわかるなら、生きていくための足場は作れる。
だが、そこでふと、最初に見上げた看板のことを思い出した。
見たこともない文字。
知らない言語。
なのに、意味だけが当たり前みたいに頭へ入ってくる。
助かる。
今はそれでいい。
そう切り替えたのは本心だ。
それでも。
「……なんで、わかるんだよ」
誰に聞かせるでもなく零した声は、静かな書庫の空気に吸われて消えた。
喧騒の外側にある静けさの中で、その違和感だけが妙に鮮明だった。
理由はまだ分からない。
たぶん、今すぐ追っても答えは出ない。
だからこそ、今は後回しにする。
使えるなら使う。
まずは生きる。
そのための情報は、確かに手に入った。
俺はもう一度、机の上の冊子に視線を落とした。
助かることと、気味が悪くないことは、別だった。




