第二十話 世界への一歩
目を覚ました時、しばらく自分がどこにいるのか分からなかった。
柔らかすぎるベッド。
身体を沈める上等な敷布。
窓の隙間から差し込む朝の光まで、森の湿った冷たさとも、洞窟の硬い地面ともまるで違う。
ぼんやりしたまま天井を見上げ、そこでようやく思い出す。
ヴァルンハート家の客間。
ローゼリアを送り届けて、そのまま泊めてもらったんだった。
「……朝か」
身体を起こすと、昨日よりは痛みが少ない。
なくなったわけじゃないが、どう動けば傷が響くのかはもう分かっている。
寝巻きの裾を整えながら、俺は小さく息を吐いた。
甘えていられるのは、たぶんここまでだ。
昨日の夜に考えた通り、今日からは自分で動く。
金の価値も、街のことも、この世界の仕組みも、知らないままじゃどうにもならない。
まずは情報だ。
読める本がある場所を探す。
そのために街へ出る。
ベッドを降り、昨夜選んだ落ち着いた色味の服へ着替える。
エレノアから贈られた服はどれも上等で、布地の滑らかさからして今まで触れてきたものと明らかに違う。
あの一番豪華な服は今日の朝にも目を引いたが、やっぱり今の俺には派手すぎる。
今日必要なのは目立つことじゃなく、街に溶け込むことだ。
身支度を整え終えたところで、扉が静かに叩かれた。
「失礼いたします」
「どうぞ」
入ってきたのはセバスだった。
昨日と変わらず無駄のない所作で一礼し、銀の盆を卓の上へ置く。
盆の上には小ぶりの革袋、折り畳まれた紙、畳んだ外套、それから簡素だが上等そうな替えの服が一式揃っていた。
「こちら、レオニード様よりお預かりした当面の生活費でございます。こちらはヴァリスの簡易地図。外套と替えの服も、外出に差し障りのないものを見繕わせていただきました」
「……すごいな。本当にここまでしてもらえるとは思ってなかったです」
「ローゼリア様をここまで送り届けてくださったのです。当然の礼にございます」
淡々とした声音なのに、そこに軽さはなかった。
ヴァルンハート家がアイリスという客人をどう扱うか、その答えがそのまま込められているようだった。
「助かります。大事に使わせてもらいます。セバスさん、本が読めるところはありますか?」
「ありますよ。それでしたら正門から大通りを南へ。しばらく進めば中央広場へ出ます。書物をお探しなら、広場の東側に公立書庫がございます」
「書庫……図書館みたいなものですか?」
「はい。閲覧のみであれば、どなたでもご利用になれます」
ちょうどいい。
俺が礼を言おうとしたところで、開いた扉の向こうに赤い髪が見えた。
「ローゼリア様」
セバスが一歩引く。
扉口に立っていたローゼリアは、昨日より顔色が良かった。
まだ本調子には見えないが、ちゃんと自分の足で立っている。
薄い色の部屋着姿は、屋敷の令嬢らしく整っているのに、その表情には少しだけ昨夜の続きを引きずった翳りがあった。
「起きていたのね」
「そっちも。無理してない?」
「してないわ。……少しだけ、見に来ただけ」
そう言ってから、ローゼリアは俺の服装を見て、ほんのわずかに口元を緩めた。
「その服、似合ってる」
「ありがと。今日は街を見て回ろうと思ってる。本を読める場所もあるらしいし」
「そう……」
ローゼリアはそれだけ言って、少し黙った。何か言いたげに唇が動く。けれど結局、言葉にはならなかった。
「ローゼリア?」
「……気をつけて」
やっと出てきたのは、それだけだった。
でも、その短い一言のあとにも、まだ続きがあるように見えた。
言いたいことを飲み込んでいるのが分かる。
俺は問い返しかけて、やめた。
今無理に聞き出すようなことでもない。
「ローゼリア、いろいろありがとう」
そう言うと、ローゼリアは小さく頷き、微笑んで見せた。
その目が一瞬だけ、昨日屋敷の前で見たのと同じ、心細さを滲ませた気がして、胸の奥が少し引っかかる。
セバスに見送られ、俺は客間を出た。
*
正門を抜けてヴァリスの街へ出た瞬間、屋敷の中とはまるで違う熱が頬を打った。
石畳の上を獣車が軋みながら通り、積まれた木材が揺れる。
鉱石の匂い、香辛料みたいな刺激のある香り、焼いたパンの香ばしさまで混ざって鼻をくすぐる。
露店の店主が声を張り、獣人の子どもが駆け抜け、その横を耳の長い女が静かに歩いていく。
背の低い、ずんぐりした体格の男たちが笑いながら樽を担いでいた。
文化レベルで言えば、中世寄りだ。
けど、ただ古いわけじゃない。
石造りの建物は整っていて、人の流れも物の流れもきちんとある。
生きた街だ。
「ほんと、知らないものばっかりだな……」
独り言が漏れる。
それでも不思議と怖さより先に、知りたい気持ちが勝っていた。
地図を頼りに中央広場へ向かう。
途中で何度か道を確かめたが、セバスの説明は驚くほど正確だった。
やがて開けた広場へ出る。
中央には噴水があり、その周囲を人と獣人が絶えず行き交っていた。
広場の東側に、他より少し静かな建物が見える。
白っぽい石でできた、落ち着いた造りの建物だ。
入口の上には看板のような板が掲げられている。
俺は足を止めた。
「……え」
書いてある文字が、読める。
見たこともない形だ。
アルファベットでも漢字でもひらがなでもない。
曲線と直線が混ざった奇妙な文字列。
なのに意味だけが、まるで昔から知っていたみたいに頭に入ってくる。
『ヴァリス公立書庫』
自然に読めた。
ぞくり、と背中を何かが走る。
「なんで……読めるんだ」
知らない世界の、知らない文字だろ。
なのに、読めてしまった。
広場の喧騒は変わらず耳に届いているのに、その瞬間だけ自分の周りの空気が薄くなったように感じた。
心臓が一つ、大きく鳴る。
俺は看板を見上げたまま、ゆっくり息を呑んだ。




