第十七話 獣車に揺られて
翌朝。
診療所の前は、昨日までよりずっと慌ただしかった。
冷たい朝の空気の中を、人の声と荷の軋む音が行き交っている。
窓から見えていた獣車が、何台も並んでいた。
獣車。
この世界で馬車にあたるものだと聞いた。
正確には、馬ではなく獣に曳かせるから獣車らしい。
言葉の意味は分かる。
分かるが、実際に目にするとやっぱり妙な感じがした。
診療所の外へ出ると、先頭の獣車の手綱を握っていた人物がこちらを見た。
「お、あんたがアイリスかニャ」
思わず足が止まる。
猫耳。
しなやかな身体。
揺れる尻尾。
作り物じゃない。
飾りでもない。
本物の獣人が、朝の光の下に当たり前みたいな顔で立っていた。
「……獣人」
声が漏れていた。
相手はきょとんとして、それから少しだけ笑う。
「私はマオ。御者だニャ。そんなに珍しいか?」
「あ、いや……ごめん。初めて見たから、ちょっと驚いて」
「変なやつだニャ。獣人なんて、街じゃ別に珍しくもないのに」
そう言いながらも、マオは気を悪くした様子はなかった。
むしろ面白がっているように見える。
「へぇ、顔立ちはお嬢様みたいなのに、ずいぶん傷だらけだニャ。短い間だけど、よろしくニャ」
「ありがとう。色々あって……。こちらこそ、よろしく」
答えながら、俺は改めてマオを見た。
異世界に来たことは、もう嫌というほど思い知らされている。
なのに、こうして初めて見る“人ではない誰か”を前にすると、その実感がもう一段深くなる。
いや、獣人はこの世界ではヒトなのだろう。
ここは、本当に俺のいた世界じゃない。
少し離れたところでは、ローゼリアが家紋の入った豪華な獣車へ移されていた。
まだ顔色は良くないが、昨日よりはずっとましだ。
騎士や使用人が周囲を固める中、その姿だけがやけに目立って見えた。
「おい、嬢ちゃん」
振り向くと、あの医者だった。
相変わらず無愛想な顔で、茶色い鞄をこちらへ放ってくる。
慌てて受け取ると、中で小瓶と包帯が音を立てた。
「当面の薬と包帯だ。傷口、無理に動かして開くなよ」
「……でも、私、何も払ってない」
「代金なら赤髪の嬢ちゃんから先にもらった」
ローゼリア、か。
胸の奥が少しだけ熱くなる。
「そういうことなら、ありがたく受け取るね。先生、ありがとう」
「礼はいい。もう無茶すんな」
ぶっきらぼうに言い捨てて、医者は踵を返した。
たぶん、あれがあの人なりの優しさなんだろう。
俺は鞄を抱えたまま、マオの獣車へ乗り込んだ。
*
街を抜け、石で整えられた道へ出ると、獣車は本格的に速度を上げた。
――最悪だ。
「っ、いた……」
揺れが脇腹の傷に響く。
車輪が石の継ぎ目を拾うたびに、身体の中まで揺さぶられるようだった。
車なんて快適なものに慣れていた身からすると、これは拷問に近い。
「大丈夫かニャ?」
前からマオの声が飛んでくる。
「全然大丈夫じゃない……これ、いつまで続くの?」
「順調なら一日ってところだニャ」
一日。
思わず天井を見上げた。
絶望という言葉が、ずいぶん素直に胸へ落ちてくる。
ローゼリアも、あの中で揺れに耐えているんだろうか。
揺れに耐えるだけでは気が滅入りそうで、俺は前に声を投げた。
「ヴァリスって、どんな街なの?」
「大きい街だニャ。要塞都市ってやつ。森の木材も山の鉱石も集まるし、人も多い。物も揃う。王都ほどじゃないけど、かなり栄えてるニャ」
「へぇ……」
窓の外を流れていく景色を見る。
森と道と、遠くに見える丘陵。
ここを越えた先に、その要塞都市がある。
「それに、ヴァリスには学院もあるニャ」
「学院?」
その単語に自然と食いついた。
「知らないのかニャ?」
「ちょっと記憶が曖昧でさ。学院って、学校みたいなもの?」
「そんな感じだニャ。アークレスト学院っていって、一六歳になる年の連中が身分に関係なく集められる。そこで勉強して、悪魔契約も行われる」
悪魔契約。
その響きだけで胸の奥が少し熱くなる。
「……誰でも契約できるの?」
「そんなわけないニャ。契約できるのは一部だけ。二割に届くかどうか、ってところかニャ」
前を向いたまま、マオは肩をすくめた。
「私はできなかったけど」
「マオは、契約してないの」
「してないニャ。してたら、たぶん御者なんてしてないニャ」
軽く笑って言うが、言葉の奥には少しだけ乾いたものがあった。
「でも、契約できなくても生きてはいける。御者だって立派な仕事だニャ」
「そうだね」
俺は素直に頷いた。
悪魔との契約。
魔法。
学院。
この世界に来てから、分からないことばかりだった。
でも今、その分からなさが少しだけ別の色を帯びてくる。
恐怖や戸惑いじゃなく、興味だ。
魔法があるなら使ってみたい。
悪魔と契約できるなら、してみたい。
剣も、戦い方も、知りたい。
昨日、決めたばかりのことが、また胸の中で形を持つ。
「アイリスは、学院に行きたいのかニャ?」
不意に聞かれて、少しだけ笑った。
「興味はある。かなり」
「へぇ。顔のわりに、ずいぶん欲張りだニャ」
「顔のわりには余計だよ」
「本当のことだニャ」
前で尻尾が揺れる。
その軽いやりとりだけで、少しだけ気が紛れた。
獣車は揺れる。
傷は痛む。
先のことは何ひとつ分からない。
けれど、ヴァリスへ向かうこの道の先には、少なくとも“知らないままではいられないもの”が待っている。
俺は揺れる車内で小さく息を吐いた。
まずはローゼリアを送り届ける。
その先に、学院がある。
悪魔契約がある。
魔法がある。
窓の外を流れていく景色を見ながら、俺は静かに思う。
悪くない。
この世界は、まだ痛いくらいに分からないことだらけだ。
それでも、知りたいと思えるものがあるだけ、少し前よりましだった。




