第十六話 アイリスという名で
夜の音がしていた。
風が細く窓の隙間を抜け、どこか遠くで木々の葉が擦れ合う。
街にいるはずなのに、その音は妙に田舎の夜を思わせた。
静かで、暗くて、誰にも急かされない夜だ。
こんなふうに気を張らずに横になれたのが、ずいぶん久しぶりな気がした。
目を閉じたまま、ゆっくり息を吐く。
知らない場所で目が覚めた。
知らない身体になっていた。
それだけ聞けば冗談みたいだ。
だが、現実は冗談みたいに優しくはなかった。
洞窟、森、魔獣、崖、川、血の匂い、冷たい水、背中越しのぬくもり。
短いはずの時間が、やけに長く感じる。
ここは、もう俺のいた世界じゃない。
その事実だけは、考えれば考えるほど輪郭が濃くなる。
見たこともない生き物がいて、聞いたこともない国があって、魔法や悪魔なんてものが当たり前みたいに語られている。
テレビも、スマホも、電気の気配すらない。
知っている常識が、土台から別物だった。
そして、その極めつけがこの身体だ。
胸の重み。
腰の細さ。
肩幅の狭さ。
筋肉の薄い腕。
視界の位置が少し低い。
寝返りを打つだけでも、以前の身体では意識しなかった違和感がそこかしこにある。
立つ、歩く、屈む、服を着る、用を足す。
何をするにも、元の感覚と噛み合わない。
それを認めること自体に抵抗があるわけじゃない。
ただ、身体が変わるってのは、もっと生々しいものなんだと嫌でも思い知らされる。
頭では「そういうものだ」と割り切れても、実際に自分の身体として毎回突きつけられると、話は別だった。
俺はこの先、ずっとこのままなのか。
問いは浮かぶ。
けれど、浮かんだところで答えは出ない。
出ない問いを抱えたまま立ち止まるほど、今の俺には余裕がない。
結局のところ、考えても仕方のないことは、今やるべきことの後ろに回すしかないのだろう。
できることをやるしかない。
そう思って、そこでようやく気づく。
じゃあ、今の俺に何ができる。
この世界で、俺はまだ何も成していない。
ローゼリアを助けた。
そう思った次の瞬間には、逆に俺の方が助けられていた。
あの小さな身体で俺を背負って、街まで運んだのはあいつだ。
守ったつもりで、守られていた。
悔しい、と思う。
それを素直に認めるくらいには、俺はもうこの世界に足を突っ込んでいるらしい。
魔法はまだ使えない。
悪魔との契約もしていない。
剣なんて今までまともに握ったこともないし、格闘技の心得だってない。
今の俺は、何者でもない。
けれど同時に、何者でもないってことは、まだ何にでもなれるってことでもある。
そこまで考えて、胸の奥が少しだけ軽くなった。
魔法があるなら使ってみたい。
悪魔との契約だって興味がある。
剣術も覚えたい。
どう戦えば強いのか、そういう発想なら今まで散々ゲームや物語の中で考えてきた。
机の上だけの想像でも、何も持たないよりはましだ。
それに――どうせ新しく生きるなら、やりたいことを全部やればいい。
男だったとか、女になったとか、そんなことに縛られて縮こまるのは、どう考えても性に合わない。
俺は元の世界で、やれなかったことが山ほどある。
やりたかったことも、飲み込んだことも、きっと腐るほどあったんだろう。
なら、ここでくらい、自分で自分の生き方を決めてやればいい。
今の俺は、アイリスだ。
だったらアイリスとして、好きに生きる。
誰かの都合じゃなく、自分の意志で。
まずはローゼリアを家まで届ける。
話はそれからだ。
強くなるのも、戦い方を覚えるのも、この世界の理屈を知るのも、全部その先にある。
そこまで思考を巡らせたところで、ようやく瞼の奥の重さに気づいた。
静かな夜だった。
風の音が、葉の擦れる音が、いつのまにか遠くなっていく。
そのまま意識は、ゆっくり沈んだ。
*
「――ん……」
朝日が差し込んでいた。
目を開けると、昨日より少しだけ明るい部屋が見える。 窓から入る風はまだ冷たく、傷に障るほどではないが、肌の上をするりと撫でていった。
寝返りを打とうとして、脇腹に鈍い痛みが走る。
「っ、いた……」
思わず顔をしかめる。
治ってはいない。
当たり前だ。
だが、昨日よりはましだった。
身体のどこがどれくらい痛むのか、自分の中でようやく整理がついてきた。
その時、外から複数の車輪の音が聞こえてきた。
石を噛む硬い音。
昨日までなかった数だ。
人の声も混じっている。
慌ただしいが、騒然としているのとは違う。
何かを迎えるためではなく、何かを運ぶための音だった。
俺はゆっくり上体を起こす。
長い金髪が肩から胸に落ちた。
まだ見慣れないその色を指先で払いながら、窓の方へ目を向ける。
外では、数台の馬車が診療所の前に止まり、兵や使用人がせわしなく動いていた。
準備が始まっている。
ローゼリアをヴァリスへ戻すための準備だ。
そう思った瞬間、胸の奥で何かがすっと定まった。
昨夜の考えは、寝て起きても消えていなかった。
むしろ朝の光の中で、少しだけ輪郭を増している。
「さて……」
小さく息を吐く。
「俺も、準備するか」
まだ何者でもない。
でも、それでいい。
ここから先は、俺が選んでいく。
ベッドから足を下ろすと、床の冷たさが足裏に伝わった。
痛みはある。
違和感もある。
不安だって消えていない。
それでも俺は立ち上がる。
まずはローゼリアを家まで届ける。
アイリスとしての一歩は、そこからだ。




