第百十八話 湯気とぷるぷる
第百十八話 湯気とぷるぷる
「お風呂行こ」
宿の廊下で、ニカはあまりにも自然にそう言った。
俺は、その場で固まった。
戦場で固まったことはない。
ルドーの蹴りを前にしても、足は動いた。
ワイヤーが視界の外から迫ってきても、身体は反応した。
なのに今、俺の足は一歩も動かない。
理由は簡単だ。
風呂。
ニカ。
俺。
この三つを同じ場所に並べてはいけない。
「なんで固まってるの?」
「いや、風呂は……」
「汗かいたし、血の匂いもするし、港の匂いもするし、白兎の嫌な感じも残ってる」
「最後だけ気分の問題じゃない?」
「気分も洗うの」
ニカは当然のように言い切った。
強い。
この子、こういう時の押しが強い。
「私は部屋で身体拭くだけでいいかな」
「だめ」
「早い」
「アイリス、絶対ちゃんと休まないから」
「いや、休むよ。ほら、今もすごく休む気持ちに満ちてる」
「顔が逃げる気の顔」
「顔でそんなに分かる?」
「分かる」
ニカの耳がぴくりと動く。
こういう時だけ、獣人の感覚を都合よく使わないでほしい。
「怪我も痛いし」
「温めた方がいい」
「疲れてるし」
「疲れてるからお風呂」
「明日に備えないと」
「明日に備えるからお風呂」
「ここ、他国の宿だから勝手が分からないし」
「だから一緒に行こ」
逃げ道が一つずつ塞がれていく。
ルドーより逃げ場を潰すのが上手いんじゃないか、この子。
その時、俺の荷物の中で、布袋がぷるんと揺れた。
ニカがすぐに覗き込む。
「ネルも行く?」
ぷるん。
「行くって」
「今ので分かるの?」
「分かる」
「ネル、お湯大丈夫なの?」
ぷるぷる。
「大丈夫だって」
「本当に? スライムの耐熱基準、私知らないんだけど」
ネルは淡い紫色の身体を小さく震わせた。
いつものように、何も分かっていないようで、何か分かっているようでもある。
結局、俺は負けた。
ニカに。
ネルに。
そして、汗と血と港の匂いに。
大浴場へ向かう廊下を歩きながら、俺は自分に言い聞かせた。
大丈夫。
これはただの入浴だ。
異世界の宿泊施設における衛生設備の確認。
文化調査。
明日の作戦に備えた体調管理。
やましいことは何もない。
……やましいと自分で思っている時点で終わっている。
脱衣所に入った時点で、俺の精神は半分くらい負けていた。
ここから先の細かい記憶について、俺はできるだけ封印することにする。
人には、守らなければならない尊厳がある。
俺にもある。
たぶん、ある。
いろいろな心の葛藤を経て、俺たちは大浴場へ入った。
夜も遅いせいか、中には誰もいなかった。
助かった。
本当に助かった。
いや、助かっていない。
誰もいないということは、つまり、俺とニカだけということでもある。
あとネル。
ネルは数に入れていいのか分からない。
「広い!」
ニカの声が湯気の中に弾んだ。
「泳がない」
「まだ何も言ってない」
「顔が泳ぐ気の顔」
「アイリス、あたしの顔読みすぎじゃない?」
「さっき私の顔読んだでしょ」
「ちょっとだけ」
「泳がない」
「静かに泳ぐ」
「静かならいいって話じゃない」
ニカは不満そうに頬を膨らませたが、さすがに飛び込むようなことはしなかった。
代わりに、ネルをそっと湯船へ浮かべる。
ぷかり。
紫色の丸い身体が、湯の上でゆっくり揺れた。
「ネル、気持ちよさそう」
「顔ないのに分かる?」
「丸さが気持ちよさそう」
「丸さで判断するんだ」
ネルは湯船の端で、ぷかぷかと漂っている。
温泉まんじゅうというより、少し高級なぶどうゼリーだった。
問題は、ニカだった。
湯気の向こうで、ニカが振り返る。 濡れた髪が首筋に張りつき、水滴が肩を伝って落ちる。
見てはいけない。
そう思った瞬間には、もう見ていた。
俺は即座に天井を見上げた。
梁が立派だった。
とても立派だった。
今の俺には、梁しか見えていない。
「アイリス、何見てるの?」
「け、建築」
「お風呂で?」
「湿気に強そうだなって」
「変なの」
変なのは分かっている。
でも今の俺にとって、天井は唯一の避難場所だった。
こういう時だけは、この身体でよかったと思う。
いや、よくはない。
全然よくはない。
ただ、前の身体だったら、今ごろもっと分かりやすく人生が終わっていた。
今の俺は、せいぜい顔が赤くなるだけで済んでいる。
済んでいる、はずだ。
……本当に済んでいるよな?
「アイリス、こっち」
「そこじゃないとだめ?」
「広いけど、離れる意味ある?」
「ある。人には適切な距離というものがある」
「お風呂で?」
「お風呂だからこそ」
ニカは首を傾げた。
通じていない。
まったく通じていない。
そして当然のように、俺の隣へ腰を下ろした。
湯が揺れる。
肩が触れそうな距離。
石鹸の匂いと、湿った熱が混ざる。
近い。
近すぎる。
この距離は友達の距離ではない。 いや、友達の距離なのかもしれない。 俺が知らないだけで、女子同士はこれが普通なのかもしれない。
だとしても、俺の中身は普通ではない。
「アイリス、背中流してあげる」
「大丈夫」
「怪我してるじゃん」
「怪我してるからこそ、一人で慎重に」
「届かないところあるでしょ」
「私は身体が柔らかい」
「でも痛そう」
「……正論で逃げ道を塞がないで」
ニカは桶に湯を汲み、布に石鹸をなじませた。
俺は観念して、背を向ける。
ニカの手が、俺の背中に触れた。
「ひゃっ」
「変な声」
「傷に響いた」
「そこ怪我してないよ」
「心が怪我してる」
「なにそれ」
分からなくていい。
今の俺の心は、かなり複雑に負傷している。
ぬるい湯。
石鹸の匂い。
近すぎる気配。
背中を洗われているだけだ。
それ以上でも以下でもない。
なのに、俺の精神は今、王国騎士を相手にした時より追い詰められていた。
「アイリスの肌、ほんとすべすべだね」
やめろ。
言葉にするな。
俺は今、“これはただの入浴”という防壁を必死に積み上げている。
そこへそういう言葉を投げ込むな。 防壁が崩れる。
「……ありがとう」
「なんで声震えてるの?」
「湯気のせい」
「声も湯気で震えるの?」
「震えることもある」
「ないと思う」
あることにしてほしい。
俺は助けを求めるようにネルを見た。
ぷかー。
駄目だ。
こいつは完全に湯を満喫している。
紫の丸い身体が、湯船の上で幸せそうに漂っていた。
俺よりよほど大人だった。
「じゃあ次、あたし」
「え」
「背中」
「……ですよね」
俺は泡立てた布を手にしたまま、数秒固まった。
落ち着け。
これは看護に近い。
いや、看護ではない。
入浴補助だ。
もっと危ない言葉になった気がする。
考えるな。
手を動かせ。
ニカの背中には、小さな傷がいくつも残っていた。
路地で転がった時のもの。
針を避けきれなかった時のもの。
ルドーの蹴りの余波で打った痕。
無防備に見える背中にも、今日の戦いはちゃんと残っていた。
「痛くない?」
「ちょっと」
「我慢しないで言って」
「アイリス、急に真面目」
「傷見たら、さすがにね」
「じゃあ優しくして」
言い方。
その言い方は、今の俺によくない。
俺は慎重に布を動かした。
傷に触れないように。
痛みを増やさないように。
それでも距離が近くて、湯気の中の空気が妙に熱い。
「アイリスの手、やさしいね」
「普通だよ」
「そうかな」
「そうだよ」
「じゃあ、普通に気持ちいい」
「……その言い方もやめようか」
「なんで?」
「私の心がまた怪我する」
「ほんと変なの」
ネルが湯船の中で、ぷるんと大きく揺れた。
俺とニカは同時にそちらを見る。
ネルの身体が、湯の流れに合わせて横に伸びる。
一瞬だけ、二つに分かれたように見えた。
「ネル!?」
次の瞬間、ぷるんと元に戻る。
「……今の何?」
「分かんない」
「進化?」
「やめて。お風呂で進化しないで」
ネルは何もなかったように、またぷかぷか浮いている。
この子、大物かもしれない。
いや、すでに普通のスライムではないのだけど。
風呂という名の精神修行を終え、俺はようやく部屋へ戻った。
勝った。
俺は勝った。
自分自身に。
たぶん。
「さっぱりしたね!」
「別の疲労が増えた」
「なんで?」
「説明できない」
「アイリスってたまに変だよね」
「今日は特にね」
ネルは桶の中でぷるぷるしている。 大浴場が気に入ったのか、妙に満足そうに見えた。
俺は寝間着に着替え、寝台へ倒れ込もうとした。
そこで、視界の端にニカが入る。
薄手の部屋着だった。
寝るための服だから当然なのだろう。
当然なのだろうが、布が少ない。
少なく見える。
少なくないのかもしれない。
いや、少ない。
俺は即座に窓を見た。
夜の港が綺麗だった。
とても綺麗だった。
今の俺には港しか見えていない。
「アイリス、そっち行っていい?」
「……え?」
「なんか、一人で寝る気分じゃない」
その声が、いつもより少しだけ小さかった。
断れない声だった。
だから俺は、返事を間違えた。
「少しだけなら」
ニカは当然のように寝台へ潜り込んできた。
近い。
近いどころではない。
風呂場より近い。
逃げ場がない。
湯気もない。
天井はある。
ありがとう、天井。
次の瞬間、ニカの腕が背中側から俺に回った。
「ちょ、ニカ」
「抱き枕」
「私は枕じゃない」
「あったかいから」
「理由になってるようで、なってない」
背中から伝わる体温が、逃げ場を奪ってくる。
薄い寝間着越しに、風呂上がりの熱がじんわり届く。
柔らかい気配。
湿り気の残る髪の匂い。
石鹸と湯気が混ざった、妙に甘い空気。
意識するな。
これはただ、友達が不安でくっついているだけだ。
そう言い聞かせるたびに、逆に意識してしまう。
最悪だ。
俺の理性は、言い訳が下手すぎる。
「アイリス」
「……なに?」
「いい匂いする」
俺の呼吸が、一瞬止まった。
「それは、石鹸の匂いじゃない?」
「んー……それもあるけど」
ニカが、背中に額を軽く寄せる。
「なんか、落ち着く匂い」
やめろ。
その言い方は駄目だ。
今の俺には、石鹸と湯気と友達の距離感だけで手一杯なのに、そこへ“落ち着く匂い”などという謎の追加情報を入れるな。
「アイリス」
「今度は何?」
「ドキドキしてる」
終わった。
俺は今、社会的に終わった。
「明日のことを考えてるから」
「ヘルドッグ?」
「そう。ヘルドッグ。裏格闘技。魔獣。人身売買。危険なことが多いから」
「でも、お風呂の時からずっと早かったよ?」
「危険が多かったからね」
「お風呂、危険だった?」
「私には危険だった」
「ふーん」
納得したのかしていないのか分からない声だった。
こういう時だけ、ニカの感覚が鋭いのは本当に困る。
「でも……あたしも、ちょっと変」
「変?」
「うん。なんか、胸の奥が落ち着かない」
「明日のこと?」
「それもあると思う」
ニカは少し黙ってから、俺を抱く腕に力を込めた。
「でも、アイリスの匂いすると、落ち着くのに、落ち着かない」
どっちだ。
頼むから、どっちかにしてくれ。
俺の心臓が、さらにうるさくなる。
今の俺は、せいぜい心臓がうるさいだけだ。
うるさいだけ。
……そのうるささを、本人に聞かれているのだが。
「アイリス、怖い?」
「……少しは」
「そっか」
ニカの声が、少しだけ柔らかくなる。
「あたしも少し怖い。人が売られるって聞いたら、なんか嫌。腹の奥が、ぎゅってなる」
「うん」
「だから、今日は近くにいて」
その言葉を聞いたら、もう離れろとは言えなかった。
「……分かった」
「ありがと」
ニカは俺を抱き枕にしたまま、すぐに寝息を立て始めた。
早い。
あまりにも早い。
俺だけが取り残された。
ヘルドッグ。
裏格闘技。
魔獣。
人身売買。
考えなければならないことは山ほどある。
なのに、俺の意識は、背中に感じるニカの体温と、自分のうるさい心臓に何度も引き戻された。
枕元では、ネルが小さくぷるんと揺れている。
世界は重い。
明日は危険だ。
それは分かっている。
分かっているのに。
今夜の俺は、ヘルドッグより先に、自分の心臓をどうにか黙らせる必要があった。




