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転生したら美少女だったオレ  作者: ウルティ
第三章 自由と支配

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第百十七話 ヘルドッグ

第百十七話 ヘルドッグ

 ヴェスカの屋敷へ戻る頃には、俺の身体は完全に重くなっていた。

 戦っている最中は、まだ動けた。

 痛みも、息苦しさも、腕の痺れも、全部あと回しにできた。

 けれど、路地を抜け、港の喧騒が戻り、白黒の海獣紋が刻まれた門をくぐった瞬間、身体が思い出したように悲鳴を上げた。

 肩が痛い。

 背中が痛い。

 肋骨の奥が痛い。

 足にも力が入りにくい。

 ルドーの蹴りを受けた衝撃が、まだ骨の中に残っているようだった。


「アイリス、顔色悪いよ」


 ニカが横から覗き込んでくる。


「ニカも、けっこう悪いよ」


「あたしは元気」


「それ、元気な人の顔じゃない」


「アイリスに言われたくない」


 ニカはそう言って、少しだけ笑った。

 その笑い方に、俺は少し安心する。

 少なくとも、今は笑える。

 ヴェスカは屋敷へ戻ると、すぐにルドーを別棟へ運ばせた。

 尋問は、ヴェスカの従者たちが行う。

 俺たちは参加しない。

 当然だと思った。

 俺がそこに立っても、できることはない。

 ルドーを捕まえたのは俺たちでも、ここから先はヴェスカの領域だ。

 白黒の海獣紋に手を出した者を、どう扱うのか。

 それは、この港の流れを守ってきた者の仕事だった。

 俺たちは別室へ通された。

 大きな窓のある、簡素だが質のいい部屋だった。港を見下ろせる位置にあり、遠くで船の帆が揺れている。

 レインはすでにそこにいた。

 俺とニカの姿を見るなり、立ち上がる。


「アイリスさん、ニカさん」


「レインさん」


「ご無事で何よりです」


 レインの声には、いつもの落ち着きがあった。

 けれど、指先が少し硬い。

 商人としての冷静さと、知人を心配する感情が、同じ顔の下で並んでいる。


「すみません。いろいろ壊しました」


「でしょうね。でも…人命より安い」


「商人として、その言い方は大丈夫なんですか?」


「今回に限っては」


 レインが少しだけ笑った。

 俺も笑おうとしたが、肋骨が痛んで顔が歪んだ。


「笑わない方が良さそうですね」


「はい。しばらく無表情で生きます」


「アイリス、無理だと思う」


 ニカが即座に言った。


「なんで」


「すぐ変な顔するから」


「変な顔はしてない」


「してるよ。さっきから痛いの我慢してる顔」


 返す言葉がなかった。

 やがて、扉が開いた。

 入ってきたのはヴェスカとホルジスだった。

 ヴェスカは変わらず静かだ。

 ホルジスは不機嫌そうな顔をしている。

 けれど、路地で見たような荒い熱は少し引いていた。

 自分の名を使われた怒り。

 自分の力が届かなかった場所。

 それらがまだ腹の中で燻っているのだろう。

 ヴェスカは椅子に腰を下ろすと、すぐに口を開いた。


「ルドーが吐いた」


 部屋の空気が締まる。

 俺は背筋を伸ばした。

 痛い。

 でも、聞かなければならない。


「まず、あの白兎はある組織に属している」


「組織、ですか」


「殺し、人攫い、人身売買、荷抜き、脅し。港の裏や街外れで、汚れ仕事を請け負う連中だ」


 言葉だけで、胃の奥が重くなる。

 グレイヴ商会。

 リィナ。

 ロッカ。

 檻の奥で見た鎖。

 思い出したくないものが、勝手に浮かぶ。

 俺は拳を握った。

 この海の向こうにも、同じような流れがある。

 人を荷のように動かす流れ。


「ルドーは、その組織のナンバー二だ」


 ニカの耳が動く。


「あいつが二番目?」


「そうだ」


 ヴェスカは頷く。


「だが、忠誠はないらしい」


「忠誠がないのに、二番目なんですか?」


「腕が立つ。汚れ仕事ができる。逃げ足がある。現場を回せる。そういう者は、忠誠がなくとも使われる」


 ルドーらしいと思った。

 名前も顔も、恐怖も怒りも、使えるなら使う男。

 なら、組織もルドーを道具として使っているのだろう。

 互いに利用しているだけ。

 そこに信頼はない。


「組織の頭は、ヘルドッグ」


 ヴェスカが言った。

 低い声だった。


「犬の獣人だ。腕っぷしで成り上がった男だ。魔力圧の扱いは上手く、うでっぷしも強い」


「犬の獣人……」


 ニカが眉を寄せる。


「匂いでかなり拾うタイプ?」


「通常の獣人よりさらに鋭い。本人の性質もあるだろう。隠れて近づくには向かない相手だ」


 ヘルドッグ。

 名前からして、ろくな相手ではない。

 ホルジスが吐き捨てるように言った。


「昔から鼻につく奴だ。女と金と血の匂いがする場所に、必ず顔を出す」


「知っているんですか」


「港の裏で名前を知らねえ方がおかしい」


 ホルジスの歯が覗く。


「腕は立つ。だが、気に入らねえ」


 即答だった。

 ヴェスカは続ける。


「最近、ヘルドッグは裏格闘技に力を入れている」


「裏格闘技?」


「表に出せない者たちを戦わせる見世物だ。借金で縛られた者、攫われた者、荒事屋、魔獣。金を賭け、血を流させ、恐怖と興奮を売る」


 ニカの尻尾が静かに膨らんだ。


「最低」


「その通りだ」


 ヴェスカは否定しなかった。


「しかも、最近は魔獣を大量に集めている。人と魔獣を戦わせるためだ」


「魔獣を、かなりの数持っているということですか」


 レインが商人の顔で問いかける。


「そう見ていい。餌、鎖、薬、輸送具、防水布、油、保存食。今回抜かれた荷は、そのための一部だろう」


 海獣油。

 防水布。

 乾物。

 貝殻細工。

 表から見れば、ただの荷だ。

 でも、使い方を変えれば、別の場所へ流れる。

 俺が海水浴のために作った流れ。

 その中に、ヘルドッグが手を突っ込んだ。


「今回は、大きな取引があるらしい」


 ヴェスカの声が少し低くなる。


「それに伴って、大量の物資が必要だった。だから、白黒紋の荷へ手を出した」


「取引の内容は?」


 俺が聞くと、ヴェスカは首を横に振った。


「ルドーは知らない」


「取引先は?」


「それも知らない」


「ヘルドッグは?」


「おそらく、詳細までは知らされていない」


 俺は眉を寄せた。


「トップなのに、知らないんですか」


「ヘルドッグは、この街での実行役だ。組織の頭ではあるが、今回の流れの頭ではない」


 流れの頭。

 その言葉が、胸の奥に沈んだ。

 ヘルドッグは危険な男だ。

 でも、まだ先がある。

 ルドーの後ろにヘルドッグ。

 ヘルドッグの後ろに、取引を持ち込んだ誰か。

 末端の奥に、さらに手がある。


「ルドーが耳にしていた噂がある」


 ヴェスカの目が細くなる。


「今回の取引には、大量の人身売買が絡むらしい」


 部屋の音が消えた気がした。

 ニカが息を止める。

 レインの表情から、商人の色が消えた。

 俺は、何も言えなかった。

 人身売買。

 その言葉は知っている。

 この世界に来てから、もう見ている。

 人が名前を奪われ、番号や商品にされる場所を。

 リィナの首輪。

 灰鴉の印。

 薄暗い部屋。

 値をつけられる身体。

 胃の奥が冷える。


「アイリス」


 ニカが小さく呼んだ。


「大丈夫?」


「……大丈夫じゃないけど、聞く」


 俺はヴェスカを見た。


「その人身売買は、どこで行われるんですか」


「まだ分からん」


「でも、ヘルドッグは関わっている」


「少なくとも、準備には関わっている」


 ヴェスカは静かに言った。


「だから押さえる」


 その一言には、迷いがなかった。


「ヘルドッグを、ですか」


「そうだ。明日、ヘルドッグの巣を押さえる」


 巣。

 屋敷でも拠点でもなく、巣。

 その呼び方だけで、ヴェスカがヘルドッグをどう見ているのか分かる。


「殺すんですか」


 ニカが聞いた。

 声は少し硬い。

 ヴェスカはニカを見る。


「必要ならな。だが、先に吐かせる」


「取引先を?」


「それと、人がどこに集められているかだ」


 ヴェスカの声は冷静だった。

 怒っていないわけではない。

 ただ、怒りで動いていない。

 どこを止めるか。

 どこを噛むか。

 どこを残して吐かせるか。

 それを見ている。

 俺は路地で、自分が言った言葉を思い出す。

 止めるなら、ただ壊すんじゃなくて、どこを止めるのか見ないといけない。

 ヴェスカは、それをずっとやってきたのだ。


「私たちは?」


 俺が聞くと、レインが少し反応した。

 止めたいのだろう。

 当然だ。

 俺も怪我をしている。

 ニカも疲れている。

 ここはヴェスカの領域で、俺たちが出る必要はない。

 でも、聞かずにはいられなかった。

 ヴェスカは俺を見た。


「今夜は休め」


「明日は?」


「状況次第だ」


「それは、来るなという意味ですか」


「判断を保留するという意味だ」


 ヴェスカらしい答えだった。

 完全には拒まない。

 でも、無条件に許すわけでもない。

 俺は頷いた。


「分かりました」


 ホルジスが鼻を鳴らす。


「怪我人が首突っ込む話じゃねえ」


「ホルジスにだけは言われたくないです」


「あ?」


「あなたも怪我してるでしょう」


「この程度は怪我じゃねえ」


「それ、だいたい怪我してる人が言うやつです」


 ニカが横から言った。

 ホルジスが睨む。


「陸のラーテル、口が回るな」


「ホルジスほどじゃないよ」


「俺は口が回るんじゃねえ。噛みついてるだけだ」


「そこ、自覚あるんだ」


 少しだけ空気が緩んだ。

 けれど、重さは消えない。

 ヘルドッグ。

 裏格闘。

 魔獣。

 人攫い。

 人身売買。

 どれも、軽く笑って流せる言葉ではなかった。

 ヴェスカが立ち上がる。


「詳しい動きは、夜のうちに詰める。レイン、お前には荷の流れを洗ってもらう」


「承知しました」


「ホルジス」


「分かってる。俺の周りも洗う」


「見落とすな」


「……ああ」


 今朝なら、ホルジスは反発したかもしれない。

 でも今は、短く頷いた。

 ルドーとの路地裏戦は、彼にも何かを残していた。

 ヴェスカは最後に、俺とニカを見た。


「お前たちは宿へ戻れ。食え。湯を浴びろ。眠れ」


「そうさせてもらいます」


「ああ、なにがあるかわからないからな」


「早く休みにいこ!」


 ニカが少し笑う。

 ヴェスカはほんのわずかに口元を緩めた。


「明日、動ける身体でいろ。動く必要があるかどうかは、その時に決める」


「はい」


 俺たちは部屋を出た。

 廊下に出ると、港の夕暮れが窓の向こうに広がっていた。

 赤く染まった海。

 黒く伸びる船の影。

 遠くから聞こえる波の音。

 綺麗だった。

 綺麗なのに、その下に人を売る流れが沈んでいる。

 そのことが、どうしようもなく気持ち悪かった。


「アイリスさん」


 レインが背後から声をかけてきた。


「宿までは、護衛をつけます」


「ありがとうございます、レインさん」


「それと、今日は本当に休んでください。明日、何が起こるか分かりません」


「はい」


 返事をしながら、自信はなかった。

 眠れる気がしない。

 頭の中には、ルドーの笑みと、ヘルドッグという名前と、人身売買という言葉が残っている。

 宿へ向かう道で、ニカはしばらく黙っていた。

 珍しい。

 いつもなら、何かしら文句を言うか、腹が減ったと言うか、俺の歩き方をからかうところだ。


「ニカ?」


「ん?」


「静かだね」


「考えてた」


「何を?」


「人が売られるって、嫌だね」


 短い言葉だった。

 でも、重かった。


「うん」


「あたし、そういうの嫌い」


「私も」


「じゃあ、止めようね」


 ニカは前を見たまま言った。


「できることがあるなら」


 俺は少しだけ笑った。


「うん。できることがあるなら」


 その夜、俺たちは宿へ戻った。

 戦いは終わった。

 でも、流れはまだ止まっていない。

 明日、ヘルドッグの巣を押さえる。

 人が荷のように動かされる流れが、本当にあるのなら。

 俺は、それを見ないふりはできない。

 そう思っていた。

 その時の俺は、まだ知らなかった。

 重い話を聞いたあとで待っていたのが、別の意味で逃げ場のない戦場だということを。

 宿の廊下で、ニカが唐突に振り返った。


「アイリス」


「なに?」


「お風呂行こ」


 俺は、その場で固まった。


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