第百十七話 ヘルドッグ
第百十七話 ヘルドッグ
ヴェスカの屋敷へ戻る頃には、俺の身体は完全に重くなっていた。
戦っている最中は、まだ動けた。
痛みも、息苦しさも、腕の痺れも、全部あと回しにできた。
けれど、路地を抜け、港の喧騒が戻り、白黒の海獣紋が刻まれた門をくぐった瞬間、身体が思い出したように悲鳴を上げた。
肩が痛い。
背中が痛い。
肋骨の奥が痛い。
足にも力が入りにくい。
ルドーの蹴りを受けた衝撃が、まだ骨の中に残っているようだった。
「アイリス、顔色悪いよ」
ニカが横から覗き込んでくる。
「ニカも、けっこう悪いよ」
「あたしは元気」
「それ、元気な人の顔じゃない」
「アイリスに言われたくない」
ニカはそう言って、少しだけ笑った。
その笑い方に、俺は少し安心する。
少なくとも、今は笑える。
ヴェスカは屋敷へ戻ると、すぐにルドーを別棟へ運ばせた。
尋問は、ヴェスカの従者たちが行う。
俺たちは参加しない。
当然だと思った。
俺がそこに立っても、できることはない。
ルドーを捕まえたのは俺たちでも、ここから先はヴェスカの領域だ。
白黒の海獣紋に手を出した者を、どう扱うのか。
それは、この港の流れを守ってきた者の仕事だった。
俺たちは別室へ通された。
大きな窓のある、簡素だが質のいい部屋だった。港を見下ろせる位置にあり、遠くで船の帆が揺れている。
レインはすでにそこにいた。
俺とニカの姿を見るなり、立ち上がる。
「アイリスさん、ニカさん」
「レインさん」
「ご無事で何よりです」
レインの声には、いつもの落ち着きがあった。
けれど、指先が少し硬い。
商人としての冷静さと、知人を心配する感情が、同じ顔の下で並んでいる。
「すみません。いろいろ壊しました」
「でしょうね。でも…人命より安い」
「商人として、その言い方は大丈夫なんですか?」
「今回に限っては」
レインが少しだけ笑った。
俺も笑おうとしたが、肋骨が痛んで顔が歪んだ。
「笑わない方が良さそうですね」
「はい。しばらく無表情で生きます」
「アイリス、無理だと思う」
ニカが即座に言った。
「なんで」
「すぐ変な顔するから」
「変な顔はしてない」
「してるよ。さっきから痛いの我慢してる顔」
返す言葉がなかった。
やがて、扉が開いた。
入ってきたのはヴェスカとホルジスだった。
ヴェスカは変わらず静かだ。
ホルジスは不機嫌そうな顔をしている。
けれど、路地で見たような荒い熱は少し引いていた。
自分の名を使われた怒り。
自分の力が届かなかった場所。
それらがまだ腹の中で燻っているのだろう。
ヴェスカは椅子に腰を下ろすと、すぐに口を開いた。
「ルドーが吐いた」
部屋の空気が締まる。
俺は背筋を伸ばした。
痛い。
でも、聞かなければならない。
「まず、あの白兎はある組織に属している」
「組織、ですか」
「殺し、人攫い、人身売買、荷抜き、脅し。港の裏や街外れで、汚れ仕事を請け負う連中だ」
言葉だけで、胃の奥が重くなる。
グレイヴ商会。
リィナ。
ロッカ。
檻の奥で見た鎖。
思い出したくないものが、勝手に浮かぶ。
俺は拳を握った。
この海の向こうにも、同じような流れがある。
人を荷のように動かす流れ。
「ルドーは、その組織のナンバー二だ」
ニカの耳が動く。
「あいつが二番目?」
「そうだ」
ヴェスカは頷く。
「だが、忠誠はないらしい」
「忠誠がないのに、二番目なんですか?」
「腕が立つ。汚れ仕事ができる。逃げ足がある。現場を回せる。そういう者は、忠誠がなくとも使われる」
ルドーらしいと思った。
名前も顔も、恐怖も怒りも、使えるなら使う男。
なら、組織もルドーを道具として使っているのだろう。
互いに利用しているだけ。
そこに信頼はない。
「組織の頭は、ヘルドッグ」
ヴェスカが言った。
低い声だった。
「犬の獣人だ。腕っぷしで成り上がった男だ。魔力圧の扱いは上手く、うでっぷしも強い」
「犬の獣人……」
ニカが眉を寄せる。
「匂いでかなり拾うタイプ?」
「通常の獣人よりさらに鋭い。本人の性質もあるだろう。隠れて近づくには向かない相手だ」
ヘルドッグ。
名前からして、ろくな相手ではない。
ホルジスが吐き捨てるように言った。
「昔から鼻につく奴だ。女と金と血の匂いがする場所に、必ず顔を出す」
「知っているんですか」
「港の裏で名前を知らねえ方がおかしい」
ホルジスの歯が覗く。
「腕は立つ。だが、気に入らねえ」
即答だった。
ヴェスカは続ける。
「最近、ヘルドッグは裏格闘技に力を入れている」
「裏格闘技?」
「表に出せない者たちを戦わせる見世物だ。借金で縛られた者、攫われた者、荒事屋、魔獣。金を賭け、血を流させ、恐怖と興奮を売る」
ニカの尻尾が静かに膨らんだ。
「最低」
「その通りだ」
ヴェスカは否定しなかった。
「しかも、最近は魔獣を大量に集めている。人と魔獣を戦わせるためだ」
「魔獣を、かなりの数持っているということですか」
レインが商人の顔で問いかける。
「そう見ていい。餌、鎖、薬、輸送具、防水布、油、保存食。今回抜かれた荷は、そのための一部だろう」
海獣油。
防水布。
乾物。
貝殻細工。
表から見れば、ただの荷だ。
でも、使い方を変えれば、別の場所へ流れる。
俺が海水浴のために作った流れ。
その中に、ヘルドッグが手を突っ込んだ。
「今回は、大きな取引があるらしい」
ヴェスカの声が少し低くなる。
「それに伴って、大量の物資が必要だった。だから、白黒紋の荷へ手を出した」
「取引の内容は?」
俺が聞くと、ヴェスカは首を横に振った。
「ルドーは知らない」
「取引先は?」
「それも知らない」
「ヘルドッグは?」
「おそらく、詳細までは知らされていない」
俺は眉を寄せた。
「トップなのに、知らないんですか」
「ヘルドッグは、この街での実行役だ。組織の頭ではあるが、今回の流れの頭ではない」
流れの頭。
その言葉が、胸の奥に沈んだ。
ヘルドッグは危険な男だ。
でも、まだ先がある。
ルドーの後ろにヘルドッグ。
ヘルドッグの後ろに、取引を持ち込んだ誰か。
末端の奥に、さらに手がある。
「ルドーが耳にしていた噂がある」
ヴェスカの目が細くなる。
「今回の取引には、大量の人身売買が絡むらしい」
部屋の音が消えた気がした。
ニカが息を止める。
レインの表情から、商人の色が消えた。
俺は、何も言えなかった。
人身売買。
その言葉は知っている。
この世界に来てから、もう見ている。
人が名前を奪われ、番号や商品にされる場所を。
リィナの首輪。
灰鴉の印。
薄暗い部屋。
値をつけられる身体。
胃の奥が冷える。
「アイリス」
ニカが小さく呼んだ。
「大丈夫?」
「……大丈夫じゃないけど、聞く」
俺はヴェスカを見た。
「その人身売買は、どこで行われるんですか」
「まだ分からん」
「でも、ヘルドッグは関わっている」
「少なくとも、準備には関わっている」
ヴェスカは静かに言った。
「だから押さえる」
その一言には、迷いがなかった。
「ヘルドッグを、ですか」
「そうだ。明日、ヘルドッグの巣を押さえる」
巣。
屋敷でも拠点でもなく、巣。
その呼び方だけで、ヴェスカがヘルドッグをどう見ているのか分かる。
「殺すんですか」
ニカが聞いた。
声は少し硬い。
ヴェスカはニカを見る。
「必要ならな。だが、先に吐かせる」
「取引先を?」
「それと、人がどこに集められているかだ」
ヴェスカの声は冷静だった。
怒っていないわけではない。
ただ、怒りで動いていない。
どこを止めるか。
どこを噛むか。
どこを残して吐かせるか。
それを見ている。
俺は路地で、自分が言った言葉を思い出す。
止めるなら、ただ壊すんじゃなくて、どこを止めるのか見ないといけない。
ヴェスカは、それをずっとやってきたのだ。
「私たちは?」
俺が聞くと、レインが少し反応した。
止めたいのだろう。
当然だ。
俺も怪我をしている。
ニカも疲れている。
ここはヴェスカの領域で、俺たちが出る必要はない。
でも、聞かずにはいられなかった。
ヴェスカは俺を見た。
「今夜は休め」
「明日は?」
「状況次第だ」
「それは、来るなという意味ですか」
「判断を保留するという意味だ」
ヴェスカらしい答えだった。
完全には拒まない。
でも、無条件に許すわけでもない。
俺は頷いた。
「分かりました」
ホルジスが鼻を鳴らす。
「怪我人が首突っ込む話じゃねえ」
「ホルジスにだけは言われたくないです」
「あ?」
「あなたも怪我してるでしょう」
「この程度は怪我じゃねえ」
「それ、だいたい怪我してる人が言うやつです」
ニカが横から言った。
ホルジスが睨む。
「陸のラーテル、口が回るな」
「ホルジスほどじゃないよ」
「俺は口が回るんじゃねえ。噛みついてるだけだ」
「そこ、自覚あるんだ」
少しだけ空気が緩んだ。
けれど、重さは消えない。
ヘルドッグ。
裏格闘。
魔獣。
人攫い。
人身売買。
どれも、軽く笑って流せる言葉ではなかった。
ヴェスカが立ち上がる。
「詳しい動きは、夜のうちに詰める。レイン、お前には荷の流れを洗ってもらう」
「承知しました」
「ホルジス」
「分かってる。俺の周りも洗う」
「見落とすな」
「……ああ」
今朝なら、ホルジスは反発したかもしれない。
でも今は、短く頷いた。
ルドーとの路地裏戦は、彼にも何かを残していた。
ヴェスカは最後に、俺とニカを見た。
「お前たちは宿へ戻れ。食え。湯を浴びろ。眠れ」
「そうさせてもらいます」
「ああ、なにがあるかわからないからな」
「早く休みにいこ!」
ニカが少し笑う。
ヴェスカはほんのわずかに口元を緩めた。
「明日、動ける身体でいろ。動く必要があるかどうかは、その時に決める」
「はい」
俺たちは部屋を出た。
廊下に出ると、港の夕暮れが窓の向こうに広がっていた。
赤く染まった海。
黒く伸びる船の影。
遠くから聞こえる波の音。
綺麗だった。
綺麗なのに、その下に人を売る流れが沈んでいる。
そのことが、どうしようもなく気持ち悪かった。
「アイリスさん」
レインが背後から声をかけてきた。
「宿までは、護衛をつけます」
「ありがとうございます、レインさん」
「それと、今日は本当に休んでください。明日、何が起こるか分かりません」
「はい」
返事をしながら、自信はなかった。
眠れる気がしない。
頭の中には、ルドーの笑みと、ヘルドッグという名前と、人身売買という言葉が残っている。
宿へ向かう道で、ニカはしばらく黙っていた。
珍しい。
いつもなら、何かしら文句を言うか、腹が減ったと言うか、俺の歩き方をからかうところだ。
「ニカ?」
「ん?」
「静かだね」
「考えてた」
「何を?」
「人が売られるって、嫌だね」
短い言葉だった。
でも、重かった。
「うん」
「あたし、そういうの嫌い」
「私も」
「じゃあ、止めようね」
ニカは前を見たまま言った。
「できることがあるなら」
俺は少しだけ笑った。
「うん。できることがあるなら」
その夜、俺たちは宿へ戻った。
戦いは終わった。
でも、流れはまだ止まっていない。
明日、ヘルドッグの巣を押さえる。
人が荷のように動かされる流れが、本当にあるのなら。
俺は、それを見ないふりはできない。
そう思っていた。
その時の俺は、まだ知らなかった。
重い話を聞いたあとで待っていたのが、別の意味で逃げ場のない戦場だということを。
宿の廊下で、ニカが唐突に振り返った。
「アイリス」
「なに?」
「お風呂行こ」
俺は、その場で固まった。




