第百十九話 犬の巣
第百十九話 犬の巣
眠れなかった。
理由は、ヘルドッグ。
裏格闘技。
魔獣。
人身売買。
……ということにしておきたい。
実際には、背中に残っていた体温とか、耳元に近かった寝息とか、やたら鋭く心音を拾ってくるニカの感覚とか、そういうものが頭の中で何度も暴れていた。
俺は寝台の上で、そっと息を吐く。
隣では、ニカが気持ちよさそうに眠っていた。
強い。
精神が強い。
昨夜あれだけ俺の心臓を攻撃しておいて、本人は何も覚えていない顔で寝ている。
枕元の桶では、ネルがぷるんと揺れていた。
こいつも落ち着いている。
スライムに睡眠があるのかは知らないが、少なくとも俺よりはよく休んでいるように見えた。
「……アイリス?」
ニカが目をこすりながら身を起こす。
「おはよう」
「おはよう」
「眠れた?」
「……まあ」
「嘘っぽい顔」
「朝から顔を読むのやめて」
「変な顔してるから」
「それは元からではない」
「元から?」
「違う。今のは忘れて」
ニカは首を傾げたが、それ以上は追及しなかった。
助かった。
これ以上、昨夜のことを掘り返されると、俺は朝から天井を見上げることになる。
身支度を整え、俺たちはレインの手配した護衛とともにヴェスカの屋敷へ向かった。
港は朝から動いていた。
荷を運ぶ人足。
船へ声を張る男たち。
箱に焼きついた白黒の海獣紋。
潮の匂い。
油の匂い。
魚と木材と人の熱。
昨日までは、そこに活気を見ていた。
けれど今は、少し違って見える。
この流れのどこかに、ヘルドッグが手を入れた。
俺が作った海辺の流れも、その一部になっている。
そう思うと、胸の奥が重かった。
屋敷へ入ると、すでにヴェスカ、ホルジス、レインが揃っていた。
レインの前には、帳簿と荷札、倉庫の記録が何枚も並んでいる。
目の下に疲れが見えた。
「レインさん、寝ました?」
「必要最低限は」
「それ、寝てない人の言い方です」
「アイリスさんも似たような顔をしていますよ」
「私は……必要最低限は」
「でしょうね」
レインは少しだけ笑い、すぐに表情を戻した。
ヴェスカが俺たちを見る。
「動けるか」
「はい」
「無理はしているな」
「少し」
「正直でいい」
ヴェスカは短く頷いた。
ホルジスは腕を組んだまま、壁に背を預けている。
昨日の傷は残っているはずだが、本人はそれを怪我として扱う気がないらしい。
「では、報告します」
レインが帳簿の一枚を押さえた。
「昨夜、荷の流れを追いました。結論から言えば、白黒紋の荷は直接抜かれたのではありません。三つの倉を経由する途中で、一部がずらされています」
「ずらす?」
「はい。帳簿上は遅延、積み替え、検品待ちとして処理されています。完全に消すのではなく、少しずつ流れを曲げている」
俺は眉を寄せた。
「だから最初は気づきにくい」
「その通りです」
レインは別の紙を示す。
「アイリスさんの海辺事業で、海獣油、防水布、乾物、貝殻細工の注文量が増えました」
「それは、分かります。海辺で使うものですから」
「はい。問題は、量です」
レインの指が、品目ごとの数字をなぞる。
「海獣油は、以前は革や船具、防水処理に多く使われていました。ですが今は、陽除け香膏、浜履き、海辺施設の維持にも流れています」
俺は頷く。
陽除け香膏。
浜履き。
休憩所。
更衣場所。
足洗い場。
全部、俺が作った海辺の仕組みと繋がっている。
「防水布は、船荷や雨除けだけではありません。更衣場所、休憩所、荷物置き、仮設屋台、日除けにも使われます。乾物や塩魚は、旅や船の保存食から、海辺で食べる軽食へ。貝殻細工は、ただの装飾品から、海へ行った記念品へ」
「用途が増えたんですね」
「はい。用途が増えれば、買う人が増える。買う人が増えれば、運ぶ量が増える。運ぶ量が増えれば、流れは太くなります」
「……隙も増える」
「正確には、隙を作ろうとする者が寄ってきます」
その言葉は、妙に重かった。
俺は、海辺に人が笑える場所を作ったつもりだった。
水着。
浜履き。
陽除け香膏。
清香布。
休憩所。
更衣場所。
人が海へ行く理由を作って、そこで楽しく過ごせるようにしたかった。
でも流れは、俺の望む場所だけを通ってくれるわけではない。
ヴェスカが静かに口を開く。
「流れが細ければ、手を入れても大した得にはならん。だが、太くなれば話は別だ」
その声は、海の底のように低かった。
「魚が増えれば、噛みつく獣も寄る。金が動けば、奪う者が寄る。荷が増えれば、抜く者が寄る。それだけの話だ」
「……私の事業が、原因ですか」
「原因の一つではある」
ヴェスカは否定しなかった。
けれど、責める声でもなかった。
「だが、お前が悪いという話ではない。流れを作れば、必ず利用しようとする者が出る。問題は、そこから目を逸らすか、見て止めるかだ」
見て、止める。
その言葉に、左肩の奥がほんの少し冷えた気がした。
壊すだけでは、見えなくなるものがある。
止める場所を、見なければならない。
俺は、世界を救いたいわけじゃない。
知らない誰かのために、どこまでも走れるほど出来た人間でもない。
知らない誰かが売られる。
その言葉は、気分が悪い。
胸の奥が冷える。
嫌悪もある。
でも、それだけなら、俺はここまで踏み込まなかったかもしれない。
これはもう、知らない誰かだけの話ではなかった。
俺が作った海辺の流れ。
レインの荷。
ヴェスカが守る港。
ニカが嫌だと言った人売りの気配。
俺の手が届く場所に、もう入ってしまっている。
「最終的にずらされた荷は、北西の屋敷へ流れています」
レインが地図を広げた。
「ヘルドッグの屋敷です。表向きは荒事屋たちの溜まり場、倉庫、獣肉加工場を兼ねた建物。地下には、裏格闘技場があると見て間違いありません」
「屋敷の地下に?」
「はい。魔獣の檻、観客席、賭け場、参加者の拘束場所がある可能性が高い」
ニカの顔が露骨に歪んだ。
「ほんと最低」
ホルジスが鼻を鳴らす。
「あの犬ならやる」
ヴェスカが視線だけを向ける。
「ヘルドッグは女を並べる。飾りではない。所有の証としてだ」
「……最低ですね」
「ああ」
言葉が冷たく落ちる。
ニカが少し身を乗り出した。
「ヴェスカも狙われてるの?」
「何度かな」
「何度か!?」
「手下を寄越した。全員、返した」
返した。
その一言が怖い。
ヴェスカの表情は変わっていない。
冗談でも誇張でもないのだろう。
「直接来ないんですか?」
俺が聞くと、ホルジスが吐き捨てるように言った。
「来ねえよ。勝てねえと分かってるからな」
「分かってるのに、諦めないんですか」
ヴェスカは静かに言う。
「所有欲とは、理性よりしつこい」
その言葉に、背筋が少し冷えた。
誰かを所有する。
名前も、意思も、選択も無視して、ただ自分のものとして並べる。
それは俺が一番嫌うものに近い。
「では、どう動くんですか」
俺が聞くと、ヴェスカは地図へ視線を落とした。
「私は外側を押さえる」
「外側?」
「ヘルドッグの屋敷に繋がる荷の流れ、人の流れ、逃げ道だ。私が直接踏み込めば、向こうは散る。地下にいる人も、魔獣も、取引先への道もな」
「潰せば終わり、ではないんですね」
「潰せば終わるなら簡単だ」
ヴェスカは淡々と言った。
「だが、潰した瞬間、流れが散る。散った流れは、拾い直すのに時間がかかる」
昨日、俺が路地裏で考えたことと同じだった。
壊すだけでは足りない。
どこを止めるのか。
何を残して吐かせるのか。
「潜るのは、ホルジス、お前だ」
「ああ」
ホルジスは当然のように頷いた。
「それと、アイリス、ニカ」
「私たちも?」
「流れを作った当事者として、目で見ておけ。だが、無理はするな。戦うためではなく、確認のためだ」
ニカが俺を見る。
「アイリスが行くなら、あたしも行く」
「来るなって言っても来るでしょ」
「うん」
「だよね」
俺は小さく息を吐いた。
ヴェスカは続ける。
「ヘルドッグは嗅覚が鋭い。真正面から近づけば気づかれる可能性がある。だが、屋敷の外周には荷の搬入口がある。昨夜、レインが使える札を用意した」
「搬入札ですか」
グレイヴ商会の第四加工倉を思い出す。
偽荷。
外套。
工具袋。
裏の場所へ入るための、表の顔。
「今回は、確認が目的だ。中で見つけたものを持ち出そうとするな。人を助けようともするな」
ヴェスカの言葉は厳しかった。
ニカが反応する。
「でも」
「今その場で動けば、奥が逃げる」
ヴェスカはニカを見る。
「助けるために、待つこともある。噛みつく場所を間違えれば、助けられるものも助けられなくなる」
ニカは悔しそうに口を閉じた。
その顔を見て、俺も黙る。
正義感だけで動けるなら、楽なのかもしれない。
でも、俺はリリィじゃない。
目の前で泣いている誰かすべてに、手を伸ばせるほど真っ直ぐではない。
それに、今ここで必要なのは、手を伸ばすことではなく、逃げ道ごと押さえることだった。
昼前、俺たちは屋敷を出た。
服装は目立たないものに変えている。
俺は髪を布でまとめ、上から外套を被った。
ネルは小さな布袋の中で、俺の荷物に紛れている。
「ネル、今日は静かにしててね」
ぷるん。
「返事はいいけど、本当に分かってる?」
ぷるぷる。
分かっているのか、いないのか。
ニカは動きやすい服に着替えていた。
ホルジスは逆に、普段より少し汚れた外套を羽織っている。
港の荒事屋に混ざるためらしいが、身体の大きさと圧がまったく隠れていない。
「ホルジス、目立ちません?」
「目立つ奴が目立たねえふりをしてる方が怪しい」
「それはそうかもしれないですけど」
「俺は俺で通る」
「説得力が強いようで、説明になってない」
ニカが小さく笑った。
ヘルドッグの屋敷は、港の北西にあった。
中心部の活気から少し外れた場所。
古い倉庫や獣肉加工場が並び、石畳には黒ずんだ染みが残っている。
油の匂い。
乾いた血の匂い。
湿った木箱。
鎖の音。
表向きは荷捌き場だ。
しかし、歩いている者たちの目つきは商人や人足のそれではない。
荒事に慣れた男たち。
賭け札らしき札束を握る客。
笑い声。
低い唸り声。
嫌な場所だった。
「行くぞ」
ホルジスが先に歩く。
俺とニカは少し遅れて続いた。
屋敷の門へ近づく。
搬入札を見せる前に、違和感が走った。
人が多い。
多すぎる。
荷を運んでいるふりをしていた男たちが、動きを止める。
壁にもたれていた男が、道を塞ぐ。
屋根の上に影が立つ。
ホルジスの目が細くなった。
「……バレてんな」
「え」
次の瞬間、門の内側から低い笑い声が響いた。
「ようこそ、白黒の客人ども」
男たちが一斉に動いた。
煙玉が床へ叩きつけられる。
灰色の煙が広がった。
「口を塞げ!」
ホルジスの声。
俺は反射的に布で口元を覆う。
だが、遅い。
甘く重い刺激が喉を刺した。
息が詰まる。
魔力圧を足へ沈めようとする。
けれど、身体の反応が鈍い。
視界の端で、ニカが男を蹴り飛ばした。
「アイリス、下がって!」
その声も、すぐに煙の中へ飲まれる。
金属音。
獣の唸り。
誰かの怒号。
ホルジスが壁を砕く音。
俺は双剣へ手を伸ばそうとした。
その瞬間、足に何かが絡みつく。
「っ!」
細い鎖。
いや、鎖に見せた縄だ。
引かれる。
体勢が崩れた。
膝をつく前に、背後から腕を取られる。
抵抗しようとしたが、力が入らない。
薬か。
煙だけじゃない。
口の中に、苦い味が広がっていた。
誰かに顎を掴まれる。
小さな瓶の口が唇に押しつけられた。
「飲ませろ」
嫌だ。
そう思ったのに、身体が動かない。
喉が勝手に鳴る。
苦い液体が流れ込んだ。
視界が揺れる。
「アイリス!」
ニカの声が聞こえた。
遠い。
ホルジスの怒鳴り声も聞こえる。
壁が砕ける音。
誰かが吹き飛ぶ音。
それでも、煙の中から次々と手が伸びる。
準備されていた。
最初から。
俺たちが来ることを知っていた。
俺は地面に倒れかけながら、屋敷の門を見た。
犬の牙のように、黒く歪んだ門。
その奥で、誰かが笑っている気がした。
最後に聞こえたのは、低く濁った声だった。
「その綺麗な顔したお嬢さんは丁寧に扱え。傷物にすんなよ」
ふざけるな。
そう言いたかった。
でも、声は出なかった。
意識が沈む。
手足の感覚が遠ざかる。
ニカの声も、ホルジスの怒号も、全部水の底へ落ちていく。
犬の巣は、最初から俺たちを待っていた。




