第百十四話 白兎の荒事屋
第百十四話 白兎の荒事屋
路地の奥で、白い兎耳が揺れていた。
薄汚れた外套。
長い白髪。
引き締まった身体。
腰元に見える小型の刃物。
そして、こちらを見下ろすような、擦れた笑み。
港の獣人とは違う。
海に生きる者の荒さではない。
波や潮や群れの中で育った強さでもない。
もっと狭い場所。
もっと暗い場所。
人目を避け、声を殺し、刃物と金と脅しが交じる場所。
その空気を、あの男はまとっていた。
「名前ってのは、使える時に使うもんだ」
白兎の男が笑う。
木箱の陰。
屋根の上。
細い通路の先。
複数の影が、じわりと動いた。
囲まれている。
俺は双剣の柄へ手を伸ばした。
狭い。
まず、そう感じた。
左右の壁が近い。
頭上には古い網が吊られ、木箱が積まれ、足元には濡れた縄と水溜まりがある。
ここで大きく剣を振れば、壁に引っかかる。
踏み込みすぎれば滑る。
視線を一つに固定すれば、横か上から来る。
広い訓練場ではない。
砂浜でもない。
ここは、あの男の場所だ。
「名を言え」
ホルジスが低く言った。
声だけで、路地の空気が震えた。
白兎の男は、石壁の上で片膝を立てたまま、肩をすくめる。
「俺様に名乗らせるたぁ、海の若旦那は偉くなったもんだな」
「誰の名を使ったか分かってんのか」
「分かってるから使ったんだろ」
男はにやりと笑った。
「俺様はルドー。覚えなくてもいいぜ。覚えた頃には、地面と仲良くしてるだろうからな」
ルドー。
白兎の獣人。
その名を聞いた瞬間、ニカの耳がわずかに動いた。
けれど、ニカは何も言わなかった。
今は言葉より、目の前の危険が先だ。
「便利なんだよ、あんたの名前」
ルドーはホルジスを見下ろしたまま続ける。
「若いのは勝手に膨らむ。下は勝手に怯える。上は勝手に苛立つ。名前一つで流れが濁る。安い仕込みだろ?」
ホルジスの口元から、鋭い歯が覗いた。
「俺の名を、道具にしたのか」
「道具になったんだろ。使いやすかったぜ」
その瞬間、ホルジスが踏み込んだ。
速い。
巨体からは想像しにくいほどの踏み込みだった。
濡れた石畳が鈍く鳴り、重い刃が横薙ぎに走る。
まともに受ければ、人間の胴くらい簡単に割れる。
けれど、そこにルドーはいなかった。
細い金属音。
ルドーの袖から伸びた細い線が、屋根の梁に引っかかる。
次の瞬間、白兎の身体が上へ跳ねた。
ホルジスの刃が石壁を削り、木箱を砕く。
魚臭い水が跳ね、破片が散った。
「おっかねえなあ」
ルドーの声は上から降ってきた。
屋根の縁に片足をかけ、ワイヤーを巻き取りながら笑っている。
「当たれば死ぬな、それ」
ホルジスが振り向く。
「当たれば、だけどよ」
ルドーが壁を蹴った。
白い影が横へ飛ぶ。
ワイヤーが鳴り、身体が路地の上を斜めに流れる。
次の瞬間、ルドーの脚がホルジスの側頭へ向かった。
ホルジスは腕を上げる。
鈍い音が響いた。
蹴り、というより槌だった。
ホルジスの巨体がわずかに横へずれる。
受けた。
受けたはずなのに、石畳に足跡が深く残っている。
「白兎ってのはな、脚が命でね」
ルドーは着地しない。
ワイヤーを別の木組みに引っかけ、身体を回すようにして反対側の壁へ移る。
「腕で殴るより、脚で蹴った方がよく壊れる」
「逃げ回るだけか」
ホルジスが吠える。
「逃げてるように見えるなら、目が悪いな」
ルドーの指が動く。
細い針が三本、空気を裂いた。
ホルジスは刃で弾く。
金属音が散る。
その隙に、ルドーの身体はまた上へ跳ねていた。
ワイヤー。
壁。
屋根。
木箱。
梁。
古い網の支柱。
あらゆるものが、ルドーの足場になっている。
路地全体を使っている。
正面に立たない。
距離を固定しない。
視線を合わせた次の瞬間には、もう違う場所にいる。
速い。
ただ足が速いだけではない。
路地の形を知っている速さだ。
「アイリス、来る!」
ニカが叫ぶ。
木箱の陰から、別の獣人が飛び出してきた。
短い棍棒を持っている。
俺は一歩だけ横へずれ、右の剣で棍棒の軌道を外した。左の柄頭で相手の腹を打つ。
沈む。
けれど、すぐに次が来る。
屋根の上から石。
横の通路から小刃。
足元に転がされる濡れた縄。
強くはない。
でも、邪魔だ。
一つ一つは大したことがなくても、視線と足を乱される。
ホルジスもそれは同じだった。
彼は強い。
飛び出してきた獣人を一撃で吹き飛ばし、木箱ごと叩き潰す。狭い路地でも、真正面の相手なら問題にならない。
けれど、ルドーは真正面にいない。
「こっちだ、海の若旦那」
上。
ホルジスが顔を上げる。
その瞬間、足元にワイヤーが張った。
ホルジスの踏み込みがわずかに乱れる。
普通なら、それでも崩れない。
でも、ルドーはその一瞬だけを狙っていた。
壁を蹴る。
ワイヤーを引く。
身体を畳む。
白兎の脚が、弧を描いてホルジスの顎へ向かう。
「ちっ」
ホルジスは腕で受けた。
重い音。
今度は、ホルジスの膝がわずかに沈んだ。
ルドーは蹴った反動をそのまま使い、背後の壁へ跳ねる。
着地と同時に笑った。
「あんた、分かりやすいぜ」
「何だと」
「怒る場所も、踏み込む場所もな」
ホルジスの空気が荒れる。
怒れば怒るほど、踏み込みは重くなる。
踏み込みが重くなれば、狭い路地では向きが変えづらくなる。
力がある。
だからこそ、動きが読まれる。
ホルジスの強さが、ルドーに利用されていた。
「正面から殴り合うのは、育ちのいい奴の遊びだ」
ルドーが言う。
「路地裏じゃな、立ってる場所を選ばせた時点で勝ちなんだよ」
ホルジスが踏み込む。
重い刃が振られる。
石壁が割れ、木箱が砕け、古い網が落ちる。
その破片と網が視界を塞いだ。
ルドーの姿が消える。
まずい。
そう思った時には、上から針が降っていた。
ホルジスは弾く。
その動きで、ほんの一瞬だけ首の後ろが開いた。
ルドーはそこにいた。
いつの間にか背後の梁へ移り、ワイヤーで身体を固定していた。
白い脚が折り畳まれる。
次の瞬間、渾身の蹴りが放たれる。
後頭部。
いや、首の付け根。
あれはまずい。
ホルジスも気づいた。
けれど、間に合わない。
俺は考えるより先に動いていた。
濡れた石畳へ足を置く。
滑る。
魔力圧を足裏へ沈める。
膝、腰、腹へ通す。
身体を固めるのではなく、ずれないように支える。
大きく振らない。
ここでは振れない。
右の剣を蹴りの軌道へ差し込む。
止めるな。
止められない。
左の剣で角度を押す。
蹴りの流れを、ほんの少しだけ外へ逃がす。
衝撃が腕に来た。
「っ……!」
重い。
剣越しなのに、骨まで響く。
白兎の脚力。
ワイヤーで作った速度。
壁と屋根を使った角度。
その全部が乗った蹴りだった。
完全には止められない。
けれど、ずらせた。
ルドーの踵はホルジスの首を外れ、肩をかすめて石壁へ叩き込まれる。
壁が砕けた。
破片が飛び、潮で湿った粉塵が舞う。
ホルジスが低く唸る。
俺は腕の痺れをこらえながら、双剣を構え直した。
ルドーは砕けた壁を蹴り、軽く距離を取る。
白い耳が楽しげに揺れた。
「へえ」
その目が、初めて俺だけを見た。
「蹴りを止めずにずらしたか。細い嬢ちゃん、見た目より目がいいな」
「見た目の話ばっかりですね」
「路地裏じゃ、見た目も値段も武器になるんだよ」
嫌な言い方だった。
俺の背中に、冷たいものが走る。
この男は、そういう場所で生きてきた。
人の見た目も、名前も、恐怖も、怒りも、全部使えるものとして見る。
ホルジスの名を使ったのと同じだ。
「邪魔したな、陸の女」
ホルジスが低く言った。
「助けたんです」
「俺は頼んでねえ」
「頼まれる前に死なれたら困ります」
ホルジスの歯が、ぎり、と鳴った。
怒っている。
けれど、反論はしなかった。
自分が今、致命の一撃をもらいかけたことを分かっているのだ。
ルドーは、その様子を見てまた笑う。
「いいねえ。海の若旦那より、そっちの嬢ちゃんの方が面倒そうだ」
木箱の陰で、まだ何人かが動いている。
屋根の上にも気配が残っている。
ニカはそちらを警戒しながら、俺の横に少し下がった。
「アイリス、大丈夫?」
「腕が痺れてる」
「あれ、蹴りだよね?」
「うん」
「蹴りって、あんな音する?」
「普通はしないと思う」
ルドーが楽しそうに肩を揺らす。
「白兎を舐めんなよ、ラーテルの嬢ちゃん。俺様たちはな、逃げ足と蹴り足だけは立派なんだ」
「自分で逃げ足って言うんだ」
「逃げられねえ奴から死ぬんだよ」
軽い声。
でも、そこに嘘はなかった。
逃げる。
隠れる。
利用する。
蹴り込む。
それがルドーの生き方なのだろう。
ホルジスが再び前へ出ようとする。
「どけ、アイリス」
「嫌です」
「あ?」
「今のまま突っ込んでも、またずらされます」
「俺に指図する気か」
「違います。見たままを言っています」
ホルジスの空気がさらに荒れる。
けれど、ルドーは笑っていた。
「そうそう。嬢ちゃんの方が分かってる」
ワイヤーが、ルドーの手元で小さく鳴る。
その先がどこに引っかかっているのか、見えない。
「力だけなら、あんたの方が上だぜ、海の若旦那」
ルドーはホルジスを見る。
「でも、ここじゃ俺様の方が上だ」
ホルジスの顔が歪む。
その言葉は、たぶんヴェスカの「まだ強いだけ」よりも直接刺さった。
同じ強さの否定でも、ヴェスカは見極めるために言った。
ルドーは傷つけるために言っている。
性質がまるで違う。
「じゃあ、次は嬢ちゃんが遊んでくれんのか?」
ルドーの視線が俺へ戻る。
白い耳が、楽しげに揺れた。
狭い路地。
濡れた石畳。
壁、屋根、木箱、網。
すべてが、あの男の足場だった。
ここは、俺の得意な場所じゃない。
双剣は広く振れない。
踏み込みは滑る。
視界は切れる。
敵は上にも横にもいる。
でも、下がるわけにはいかなかった。
俺は腕の痺れを握りつぶすように、双剣を構え直した。
「私が相手になります」
ルドーは路地裏の汚れた光の中で笑った。
「いいねえ。綺麗な花が、どこまで泥に耐えられるか見せてもらおうか」
濡れた石畳の上で、白兎が跳ねた。




