第百十三話 止められた荷
第百十三話 止められた荷
ホルジスの後を追うだけで、港の空気が変わっていくのが分かった。
歩き方からして違う。
道を選んで進むのではない。
自分が進む場所を、周囲に空けさせる歩き方だった。
厚い背中。
荒い足音。
肩に乗せた重い刃。
ホルジスが港の通りを進むたび、海側の獣人たちは自然に道を空ける。
けれど、それは全員が敬意を抱いているからではなかった。
怖さ。
期待。
計算。
面倒に巻き込まれたくないという顔。
いろんなものが混ざっている。
ヴェスカの名が出た時とは違う。
ヴェスカの名前は、場を静かに押さえる。
ホルジスの存在は、場を荒く割る。
どちらも強い。
でも、周囲に生まれる空気がまるで違った。
「速いね、あの人」
ニカが小声で言う。
俺たちはホルジスの数歩後ろを歩いていた。
ホルジスの部下らしい若い獣人が二人、さらにその後ろについてくる。
「歩くのが?」
「それもあるけど、周りが勝手に避ける。慣れてる感じ」
「怖がられてる?」
「うん。でも、それだけじゃない」
ニカの耳が揺れる。
「この人の近くにいれば強く見える、って思ってる人もいる」
「なるほど」
ホルジスの名を使った連中。
自分の実力ではなく、強い名の近くにいることで大きく見せようとする者たち。
それが今回の事件に関わっているのだとしたら、たしかにホルジスが怒るのも分かる。
正義感ではない。
自分の名を勝手に使われた怒り。
自分の影で好き勝手をされた怒り。
そして、それをヴェスカに見られた怒り。
港の表通りを抜けると、魚市場の喧騒が少しずつ遠ざかっていった。
代わりに、湿った石の匂いが強くなる。
腐りかけた魚。
古い油。
濡れた縄。
潮に濡れた木箱。
人があまり長く立ち止まらない場所の空気。
海の国なのに、その裏手に入ると、どこか王都の路地裏を思い出した。
人目の多い場所から、少しだけ外れた場所。
表の活気の音だけが遠くに聞こえ、目の前には湿った壁と狭い道が続いている。
港の北側にある小倉庫群。
そこが、白黒紋の荷が止められた現場だった。
小さな倉庫の前には、数人の作業員が集まっていた。
その中の一人が、頬を腫らしている。服も少し破れていた。
ホルジスが近づくと、作業員たちは一斉に身を硬くした。
「誰がやった」
ホルジスは挨拶もなく言った。
頬を腫らした男が、怯えたように視線を下げる。
「そ、それは……」
「聞こえなかったか」
「ホルジス」
俺が口を挟むより先に、ニカが小さく息を呑んだ。
ホルジスの後ろについていた若い獣人たちも、わずかに顔色を変える。
けれど、ホルジスは俺を見ただけだった。
「あ?」
「怯えさせたら、聞けるものも聞けなくなると思います」
「俺の名前を使った奴を聞いてるだけだ」
「だからこそ、です」
ホルジスの目が細くなる。
噛みつかれるかと思った。
でも、彼は舌打ちをして一歩だけ下がった。
「なら、お前が聞け」
投げ捨てるような言い方だった。
俺は頬を腫らした作業員に向き直る。
「大丈夫です。分かることだけでいいので、教えてください」
作業員は一度ホルジスを見て、それから俺を見た。
まだ怯えている。
でも、少しだけ口を開いた。
「朝の積み替え前でした。白黒紋の木箱を、別の運び場へ回せと言われました」
「誰に?」
「若い獣人が三人。見たことはあります。港で何度か。ホルジス様の下にいると……自分たちで言っていました」
ホルジスの奥歯が鳴る。
俺はそちらを見ないようにした。
「その人たちは、ホルジスの名前を出したんですね」
「あ、はい。これからは、ホルジス様の流れに乗る。ヴェスカ様の荷でも、話は通ってるって……」
ホルジスの周囲の空気が荒れた。
でも、今度は動かない。
ヴェスカに言われた「まだ」という言葉が、彼の足を止めているのかもしれない。
「それで、あなたが止めた?」
「白黒紋ですから。勝手に動かせる荷じゃない。だから、確認すると言ったら……」
作業員は腫れた頬に触れた。
殴られたのだろう。
「荷はどれくらい?」
「全部ではありません。海獣油の小樽が二つ、防水布が三束、乾物の箱が一つ。貝殻細工の箱も一つ」
「全部じゃない……」
俺は倉庫の中へ目を向けた。
白黒紋の木箱がいくつも並んでいる。
その中で、一部だけが抜かれている。
手当たり次第ではない。
選んでいる。
「アイリス」
ニカが横から小さく言った。
「匂いは?」
「ぐちゃぐちゃ」
ニカは眉を寄せた。
「海獣油と魚と血と汗と、濡れた木の匂いが混ざってる。ここで誰か一人を追うのは無理」
「そっか」
「でも」
ニカは作業員たちの方を見る。
「この人たち、ホルジスを怖がってるだけじゃないと思う」
「どういうこと?」
「別のものを怖がってる。言ったら後で何かされる、みたいな感じ」
匂いで何でも分かるわけじゃない。
でも、ニカは身体の反応を読むのがうまい。
耳の動き。
目線。
呼吸。
肩のこわばり。
路地裏で生きてきたニカだからこそ拾えるものがある。
俺は作業員にもう一度向き直った。
「他に、誰かいましたか?」
作業員の肩が揺れた。
「……」
「言いたくないなら、無理には聞きません。でも、隠したままだと、同じことがまた起こるかもしれません」
作業員は唇を噛んだ。
それから、小さく言った。
「白い耳の男がいました」
ホルジスの目が変わる。
「白い耳?」
「はい。若い連中の後ろに。直接はほとんど話してません。でも、皆そいつの顔色を見ていた」
「港の奴か」
「分かりません。ただ、あまり見ない顔でした。笑ってました。ずっと」
「笑ってた?」
「はい。ホルジス様の名を出したのは若い連中です。でも、言わせていたのは……たぶん、その男です」
白い耳の男。
港の者ではないかもしれない。
若い獣人たちに名を使わせ、後ろで笑っていた男。
俺は倉庫の入口へ近づいた。
壊された錠が転がっている。
ただ力任せに砕いたのではない。細い刃物か、何か薄い道具を差し込んで、留め具をずらしたような跡がある。
搬入口の木枠には、擦れた線。
重い荷を引きずった跡に混じって、細い線が斜めに走っている。
ワイヤーか、細い縄か。
力任せに運んだだけではない。
少なくとも、ただの若い荒くれが勢いでやったようには見えなかった。
グレイヴ商会の倉庫を思い出す。
隠されるものには、雑な跡と、考えられた跡がある。
これは後者だ。
「ホルジス」
「呼び捨てか」
「さんはいらないって言いそうだったので」
「……言う前に直すな」
「これ、ただの荷抜きじゃないと思います」
ホルジスが俺の横に来る。
大きな影が落ちた。
「見りゃ分かる。三下が調子に乗っただけなら、錠ごと叩き壊す。こんな面倒な開け方はしねえ」
「分かるんですね」
「俺を何だと思ってる」
「強いだけの人かと」
言ってから、少し後悔した。
ホルジスの目が危険な色になる。
ニカが息を止める。
でも、ホルジスは怒鳴らなかった。
ただ、低く笑った。
「ヴェスカの言葉を借りたな、陸の女」
「すみません」
「謝るな。腹が立つ」
「それは、謝っても謝らなくても怒るやつですね」
「そうだ」
会話として成立しているのか分からない。
でも、ホルジスは俺を殴らなかった。
彼は壊れた錠を拾い、目を細める。
「これは港の喧嘩じゃねえ。外の手が混じってる」
「外?」
「北の裏路地に、最近入り込んでる連中がいる。港の若い奴らを使って、小銭と顔を稼ごうとしてる奴らだ」
「知っていたんですか」
「噂程度だ。俺の名を使うほど馬鹿だとは思ってなかった」
「それが、ヴェスカさんの言っていた『見えていない』ということじゃないですか」
ホルジスの手が止まる。
空気がまた少し荒れた。
でも今度も、彼は噛みついてこなかった。
「お前、思ったより口が回るな」
「今のはちょっと余計でした」
「ああ。かなり余計だ」
ホルジスは壊れた錠を放り捨てた。
「だが、間違っちゃいねえ」
その一言に、彼の後ろの若い獣人が驚いた顔をした。
ホルジスは自分が見えていなかったことを、完全には認めたくない。
でも、現場を見れば分かる程度の頭はある。
だから厄介なのだと思った。
ただ暴れるだけの男ではない。
けれど、まだ自分の力で押し切る癖が強い。
「荷はどこへ?」
俺が聞くと、作業員の一人が港外れの方を指差した。
「たぶん、旧網倉の方です。昔使われていた倉庫がいくつかあります。今はほとんど空ですが、裏道が多くて……」
「逃げやすい」
ニカが言った。
「それに、追う側は動きにくそう」
「そういう場所だ」
ホルジスはすぐに歩き出した。
「行くぞ」
「待ってください。人数は?」
「多いほど邪魔だ」
「でも相手の人数が分かりません」
「なら、なおさら遅れる理由はねえ」
ホルジスは若い獣人二人を顎で示した。
「お前らは周りを押さえろ。余計な奴を近づけるな」
「は、はい!」
その命令に迷いはない。
荒い。
でも、現場の動きは早い。
ホルジスは港の裏側を知っている。
それは確かだった。
俺とニカは、その後に続いた。
北側の小倉庫からさらに奥へ進むと、道は急に狭くなった。
石壁と木箱の間を抜ける。
頭上には干された網。
足元には濡れた縄。
ところどころ、水が溜まっている。
ここは戦いにくい。
すぐに分かった。
双剣を振るには壁が近い。
足場は濡れて滑る。
木箱の影が多く、上にも横にも逃げ道がある。
広い訓練場とは違う。
砂浜とも違う。
敵が正面から来るとは限らない。
むしろ、正面以外から来ることを前提にしなければならない場所だ。
「嫌な場所だね」
ニカが呟く。
「ニカはこういう場所、得意じゃないの?」
「動くのはできる。でも、港の路地は匂いも足場も違う。屋根も濡れてるし、木箱も滑りそう」
「万能じゃないんだ」
「万能なわけないでしょ」
ニカが少しむっとした顔をする。
その反応に、俺は少しだけ安心した。
頼りになる。
でも、万能ではない。
だからこそ、俺も見なければならない。
進むほど、表の港の音が遠くなる。
代わりに、低い笑い声が聞こえた。
ホルジスが足を止める。
俺も止まった。
路地の奥。
崩れかけた石壁の上に、誰かが座っていた。
薄汚れた外套。
長い白髪。
そして、白い兎耳。
男だった。
背は高く、身体は引き締まっている。
荒れた外套の下には、路地裏の荒事に向いた実用服。腰元には小型の刃物らしい影が見える。
男は、こちらを見下ろして笑っていた。
「遅かったな、海の若旦那」
その声は軽い。
けれど、軽さの下に刃があった。
ホルジスの目が細くなる。
「誰だ、てめえ」
「名乗るほどのもんじゃねえよ。少なくとも、あんたの若い衆じゃねえ」
男の兎耳が、わずかに揺れた。
ニカの表情が硬くなる。
「アイリス」
「うん」
「あの人、港の人じゃない」
それは匂いで言い切ったというより、立ち方を見ての言葉に聞こえた。
港の獣人とは違う。
海に生きる者の荒さではない。
もっと狭い場所で、もっと汚い仕事をしてきた者の空気。
王都の裏路地で見たものに近い。
男は俺の視線に気づいたのか、にやりと笑った。
「綺麗な嬢ちゃんまで連れてきてんのか。いいねえ、港の揉め事にしちゃ華がある」
ぞわりとした。
褒められたからではない。
視線が、値踏みするようにまとわりついたからだ。
ホルジスが一歩前へ出る。
「降りてこい。俺の名を使った理由を聞いてやる」
「理由?」
白兎の男は笑う。
「そんなもん、決まってるだろ」
路地の奥で、いくつかの影が動いた。
木箱の陰。
屋根の上。
細い通路の先。
囲まれている。
「名前ってのは、使える時に使うもんだ」
男が笑う。
海の底から浮かび上がったものは、思っていたよりずっと汚れた顔をしていた。




