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転生したら美少女だったオレ  作者: ウルティ
第三章 自由と支配

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第百十一話 流れを守る者

第百十一話 流れを守る者


「海の流れに手を入れた陸の子。お前の話を聞かせてもらおう」


 ヴェスカの言葉は、静かだった。

 怒鳴っているわけではない。

 脅しているわけでもない。

 けれど、その声には逆らいがたい重さがあった。

 命令に近い。

 いや、命令そのものではないのかもしれない。

 ただ、その場にいる誰もが、彼女の言葉を中心に動く。

 それが当たり前だと身体で理解させられる。

 俺はまだ、さっき顎に触れられた感覚を引きずっていた。

 優しい触れ方だった。

 押さえつけられたわけではない。

 乱暴に掴まれたわけでもない。

 なのに、逆らう気になれなかった。

 あれが、ヴェスカという女の間合いなのだろう。

 強いだけじゃない。

 怖いだけでもない。

 踏み込まれた瞬間、主導権を奪われる。


「アイリス」


 隣から小さな声がした。

 ニカだった。

 耳がまだ少し立っている。


「顔、まだ赤いよ」


「……気のせい」


「気のせいじゃないと思う」


「今それ言わないで」


 俺が小さく返すと、ヴェスカの銀青の瞳がこちらを見た。

 聞こえていたらしい。

 口元が、ほんのわずかに動いた。


「安心しろ。初対面で女を褒めた程度で噛み殺すほど、私は狭量ではない」


「噛み殺すって言葉が出る時点で、安心しにくいんですが」


「では、今は噛まないでおく」


「余計に怖いです」


 ヴェスカの従者たちは笑わない。

 レインも表情を崩さない。

 ニカだけが、横で小さく肩を震わせた。

 この空気で笑えるのは、たぶん少しすごい。

 ヴェスカは肘掛けに片肘を置いたまま、指先で軽く机を叩いた。


「本題に入る」


 その一言で、部屋の空気が切り替わった。

 さっきまでのわずかな揺らぎが消える。

 目の前にいるのは、やはり白黒の海獣紋の主だった。


「この夏、海獣油の流れが変わった。防水布も、塩漬け魚も、乾物も、貝殻細工もだ。港で動く量が増えた。買い手の名を辿れば、ハルヴェイ商会がいる」


 ヴェスカの視線がレインに向く。

 レインは姿勢を正した。


「はい。仕入れ量の増加は事実です」


「理由は分かっている。そこの陸の子だ」


 視線が俺に戻る。


「海を知らぬ者が、海の品を動かした。まずはそこを聞く」


「はい」


 俺は一度息を整えた。

 余計な緊張を飲み込む。

 ここに来たのは、俺が作った夏の説明をするためだ。


「始まりは、海で遊ぶための形を作ろうとしたことでした」


「海で遊ぶ」


「はい。海へ行って、泳いだり、砂浜で過ごしたり、休憩したりする。それを一つの娯楽として整えました」


 ヴェスカは黙っている。

 興味がないわけではない。

 むしろ、言葉の奥を見ているような目だった。


「そのために、水着を作りました。普段着のまま海に入るのは不便なので、海に入るための服を用意しました。砂浜を歩くための浜履きも。日差しから肌を守る陽除け香膏も。汗や海水を拭う清香布も」


 レインが静かに補足する。


「陽除け香膏の原料の一部に海獣油を使っています。防水布は休憩所の天幕や荷物置き、浜辺で使う敷布、移動用にも需要が増えました。乾物や塩漬け魚は休憩所で提供する軽食や保存食として動いています。貝殻細工は土産物としての販売が伸びています」


 ヴェスカはレインの言葉を聞き、すぐには答えなかった。

 ただ、机の上の資料ではなく、俺を見ていた。


「物を売ったのではないな」


 低い声が落ちる。


「場所の使い方を変えた」


 俺は少しだけ息を止めた。


「人が海へ向かう理由を作った。海に着いた後の動きも作った。帰る時に手に取る物まで置いた。だから品が動いた」


「……そう、ですね」


 説明されたことで、逆に自分のしたことがはっきりする。

 水着を売っただけじゃない。

 浜履きを売っただけじゃない。

 陽除け香膏や清香布を売っただけでもない。

 海へ行く理由と、海で過ごすための流れを作った。

 ヴェスカはそれを、すぐに見抜いた。


「面白い」


 短い言葉だった。

 けれど、軽い褒め言葉ではなかった。


「海を知らぬ陸の子が、海へ人を呼ぶ流れを作った。商人が見るのは利益だ。職人が見るのは品だ。だが、お前が見たのは人の動きか」


「そこまで大げさなものでは……」


「大げさかどうかは、流れた後に決まる」


 ヴェスカは窓の外へ視線を向けた。

 港が見える。

 船が動き、荷が運ばれ、人が歩く。

 遠目に見ればただの活気だ。

 けれど、今は少し違って見えた。

 あの中に、流れがある。

 誰かが作り、誰かが守り、誰かが奪おうとする流れが。


「流れが変われば、食える者が増える」


 ヴェスカは言った。


「はい」


「同時に、食えなくなる者も出る」


 俺は言葉に詰まった。

 分かっていなかったわけではない。

 商売が変われば、儲かる人間も変わる。

 新しい需要が生まれれば、今までのやり方で食っていた者が困ることもある。

 それでも、ヴェスカに言われると重さが違った。


「余った金に手を伸ばす者も出る。荷が増えれば、荷を狙う者も増える。人が集まれば、揉め事も増える。道ができれば、その道を塞ぐ者も現れる」


「……私が作ったものが、そういうものも生むということですか」


「生む、とは少し違う」


 ヴェスカは俺を見る。


「そこにいたものを、表に出す」


 冷たい声だった。

 でも、突き放すだけではない。


「海は最初から荒い。港も最初から汚い。流れを変えれば、底に沈んでいたものが浮く。それだけだ」


 その言葉に、グレイヴ商会の地下が頭をよぎった。

 灰色の檻。

 鎖。

 毒に倒れたニカ。

 名前を奪われたリィナ。

 ベルゼアの影。

 見ようとしなければ、見えなかったもの。

 でも、見えなかっただけで、なかったわけではない。


「ヴェスカさんは、それをどうしているんですか?」


 俺が訊くと、レインがわずかに視線を動かした。

 少し踏み込みすぎたかもしれない。

 けれど、ヴェスカは表情を変えなかった。


「噛む」


 短い答えだった。


「噛む、ですか」


「そうだ」


 ヴェスカは肘掛けから手を離し、ゆっくりと指を組んだ。


「あの紋を、お前たちは信用の印だと思っただろう」


「商人の間では、そうだと聞きました」


「間違いではない。品質を守る。納期を守る。荷を守る。だから信用になる」


 銀青の瞳が細くなる。


「だが、信用だけでは荷は守れない」


 空気が少し冷えた気がした。


「あれは約束だ」


「約束……」


「私の荷に手を出せば、私が噛むという約束だ」


 背筋に、薄い寒気が走った。

 怒鳴られたわけではない。

 武器を向けられたわけでもない。

 ただ、そう言われただけだ。

 なのに、その言葉が本当に行われると分かる。

 白黒の海獣紋。

 名前だけで荷を守る女。

 その意味が、少しだけ分かった気がした。


「守るとは、優しく囲うことではない」


 ヴェスカは言う。


「踏み込んだ者に、代償を払わせることだ」


 反論しようとして、言葉が出なかった。

 怖い。

 それは間違いない。

 でも、違うとも言い切れない。

 俺はこれまで、何度も見てきた。

 話せば分かる相手ばかりではない。

 お願いで止まる悪意ばかりではない。

 助けたいと思った時には、もう誰かが傷つけられていることもある。


「それは、怖がらせて従わせるってことですか」


 やっと出た言葉は、自分でも少し硬かった。

 ヴェスカは迷わなかった。


「そうだ」


 否定しない。

 正当化もしない。

 まっすぐに、そう言った。


「怖がる者がいるから、安心して眠れる者もいる。誰もが優しい理屈で止まるなら、私の名などいらん」


 胸の奥に、重いものが落ちる。

 自由に選べる場所を作りたい。

 誰かに人生を決められない場所を作りたい。

 そう思っている。

 でも、その場所を荒らす者がいるなら、誰かが止めなければならない。

 止める力は、優しい顔をしていない。

 時にそれは、支配と呼ばれる。

 俺が考え込んでいると、横でニカが口を開いた。


「強い名前があると、弱いやつが助かることもあるよ」


 その声は小さかった。

 でも、はっきりしていた。


「でも、その名前が怖すぎると、息もしづらくなる」


 ヴェスカの視線がニカへ向く。

 ニカの耳が少し揺れた。

 それでも、視線は逸らさない。


「分かっているな、陸のラーテル」


「ちょっとだけ」


「ちょっとでいい。全部分かった顔をする者ほど、すぐに潰れる」


 ヴェスカの声は冷たい。

 けれど、ニカを見下しているようには聞こえなかった。

 むしろ、認めている。

 ニカは少しだけ唇を結び、それから小さく頷いた。


「支配は、嫌われる」


 ヴェスカは静かに続けた。


「当然だ。誰かの手を止めるのだからな。誰かの道を塞ぐのだからな。だが、すべての道を開け放てば、先に踏み荒らす者が出る」


「だから、あなたが塞ぐんですか」


「必要なら」


「それで、誰かの自由を奪うことになっても?」


「奪う」


 また、否定しなかった。


「私は、奪う。港を焼く自由も、荷を奪う自由も、弱い者を食い物にする自由も、私の群れを乱す自由も」


 銀青の瞳が、俺を射抜く。


「その自由を認めるほど、私は優しくない」


 息を呑んだ。

 自由という言葉が、まるで刃物みたいに返ってきた。

 俺が欲しい自由。

 誰にも決められず、自分で選ぶ自由。

 でも、誰かを傷つける自由まで認めるのか。

 弱い者から奪う自由を、自由だからと放っておくのか。

 違う。

 それは違う。

 けれど、止めるということは、相手の自由を奪うことでもある。

 左肩の奥が、ほんの少し冷えた気がした。

 ラグナの熱ではない。

 赤黒い衝動でもない。

 氷の粒が、皮膚の奥に一つ落ちたような静かな冷たさ。

 すぐに消えた。

 気のせいかもしれない。

 でも、気のせいだと思うには、その冷たさはあまりに静かだった。


「顔が変わったな」


 ヴェスカが言った。


「何か思うところがあるか」


「……分からないことが増えました」


「いい答えだ」


「いいんですか?」


「分かったふりをされるよりはいい」


 ヴェスカは窓の外へ視線を向けた。


「この港で生きる者は、多くが海から食わせてもらっている。魚、塩、油、船、網、荷、職人、商人、運び手。誰か一人が動かしているわけではない」


 港の音が、窓越しにかすかに届く。


「だからこそ、乱れれば広がる。小さな奪い合いが、次の奪い合いを呼ぶ。昨日一箱なら、明日は十箱だ。今日一人殴られれば、明日は群れが動く」


「それを止めるために、白黒の海獣紋がある」


「そうだ」


 ヴェスカは俺を見る。


「お前の夏は、人を海へ呼んだ。人が来れば、金が動く。金が動けば、欲も動く。欲が動けば、争いの芽が出る」


「……はい」


「だから見ろ」


「見ろ?」


「自分の作った流れが、どこへ届くのか。誰を食わせ、誰を動かし、誰の欲を起こすのか」


 その声は、命令のようだった。

 けれど、不思議と腹は立たなかった。

 たぶん、それは必要なことだからだ。

 俺は、自分の作ったものが人を幸せにする場面ばかり見ていた。

 海で笑う人たち。

 働いて金を得るニカ。

 忙しくも誇らしげなレイン。

 売れていく商品。

 広がっていく習慣。

 でも、その裏で動くものまでは、まだ見えていなかった。

 自由に遊べる場所を作ったつもりだった。

 けれど、その場所を守る仕組みまで作らなければ、誰かが踏み荒らす。


「私は、全部を分かっているわけじゃありません」


「だろうな」


「でも、見ます。私が作った流れなら、見ないままにはしません」


 ヴェスカは少しだけ目を細めた。


「ならば、話した意味はある」


 その時、壁際に控えていた従者の一人が、静かに進み出た。

 何かを告げるのかと思ったが、ヴェスカは軽く手を上げて止めた。


「今はいい」


 従者はすぐに下がる。

 たったそれだけのやり取りでも、主従の線が見える。

 迷いがない。

 ヴェスカの一つの仕草で、場が決まる。


「明日、会わせる者がいる」


 ヴェスカが言った。


「誰ですか?」


「ホルジス」


 初めて聞く名だった。


「ホルジスさん?」


「ホオジロザメの獣人だ。強い男だ」


 ヴェスカはそう言って、少しだけ目を細めた。


「だが、まだ強いだけだ」


 その言い方には、突き放す冷たさだけではないものがあった。

 期待。

 苛立ち。

 見極めようとする視線。

 たぶん、その全部が混じっている。


「その人と、私が会うんですか?」


「ああ」


「なぜ?」


「お前が流れを作る者だからだ」


 ヴェスカの銀青の瞳が、もう一度俺を見る。


「流れを作る者。流れを守る者。流れを奪おうとする者。ここでは、それらが近い距離にいる」


 港の方から、遠く船の鐘が鳴った。


「お前には、それを見てもらう」


 左肩の奥が、またほんの少しだけ冷えた。

 今度は、気のせいだと流せなかった。

 自由を守るために、奪う自由を奪う。

 その言葉が、胸の奥で静かに沈んでいく。

 窓の向こうで、海が光っていた。

 綺麗で、広くて、恐ろしくて。

 その流れの底に、俺の知らないものが沈んでいる。

 明日、俺はそれを見ることになる。


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