第百十話 白黒の海獣紋
第百十話 白黒の海獣紋
セイレニア王国へ向かう道は、思っていたよりも海の匂いが強かった。
王都を離れ、リズベルを抜け、獣車を乗り継いで南東へ進む。
最初は土と草の匂いがした。
それが少しずつ、湿った風に変わっていく。
空気に塩が混じる。
肌にまとわりつくような湿り気があり、風が吹くたび、どこか遠くで大きな水の塊が動いているような気配がした。
「海が近いね」
ニカが窓の外を見ながら呟いた。
耳がいつもよりよく動いている。
「分かるの?」
「匂いが違う。あと、音も。まだ見えてないけど、ずっと向こうで波が動いてる」
「波の音まで分かるんだ」
「はっきりじゃないよ。でも、空気が違う」
ニカはそう言って、少しだけ鼻を鳴らした。
獣人の感覚は、やっぱり俺とは違う。
俺に分かるのは、せいぜい潮の匂いが濃くなってきたことくらいだ。
同行しているレインは、向かいの席で書類を確認していた。
今回の訪問に必要な取引書、紹介状、封書の写し、仕入れ記録。
それらを一つずつ確かめる手つきは、いつも通り無駄がない。
「レインさん、緊張してます?」
「しています」
「即答ですね」
「相手が相手ですから」
レインは顔を上げた。
「ただ、必要以上に恐れるつもりはありません。こちらに落ち度はありませんし、取引上の説明に来ているだけです」
「でも、軽い挨拶だけで済むかは分からない」
「はい」
正直だ。
その正直さが、逆に安心できる。
曖昧に大丈夫だと言われるより、ずっといい。
獣車が丘を越えた時、視界が一気に開けた。
海だった。
俺が作った海水浴場の穏やかな入り江とは違う。
もっと大きい。
もっと広い。
水平線の向こうまで、水が続いている。
陽光を受けてきらめく青。
その上を、帆を張った船がいくつも行き来している。
港には、大小さまざまな船が並んでいた。
荷を下ろす者。
網を畳む者。
魚を仕分ける者。
水を撒く者。
声を張る者。
人の声。
獣人の声。
木箱を置く音。
車輪が軋む音。
魚の匂い。
潮の匂い。
油の匂い。
すべてが混ざって、街全体が生き物みたいに動いていた。
「……すごい」
思わず声が漏れる。
「大陸の海産物の多くがここを通るという話も、誇張ではなさそうですね」
レインが窓の外を見ながら言った。
セイレニア王国。
八英雄の一人、セイラス・レニアードが建てた海の国。
中立を掲げ、海運と漁業で栄える国。
書類の上で見た情報は、目の前の景色になった瞬間、まったく別の重さを持った。
港へ近づくほど、獣人の姿が増える。
魚の鱗を思わせる肌の者。
水鳥のような翼を持つ者。
鋭い歯を覗かせる者。
厚い腕で樽を抱える者。
海側の獣人。
ニカの耳と尻尾が、少し硬くなっている。
「ニカ、大丈夫?」
「大丈夫。でも、見られてる」
「私たちが?」
「うん。レインさんは商人。アイリスは……目立つ。あたしは陸の獣人」
「陸の獣人って、分かるの?」
「たぶん。匂いとか、立ち方とか。あたしも向こうが海側だって、なんとなく分かるし」
ニカは声を低くした。
「変に怖がる必要はないけど、舐められたら面倒だと思う」
「それはまた難しいね」
「でしょ」
獣車が港近くの商会施設へ入る。
ハルヴェイ商会が取引に使っている倉庫兼詰所らしい。
入口では、レインが書類を見せ、現地の商人と短く挨拶を交わした。
荷の積まれた倉庫の中を通る。
そこで、俺は見つけた。
木箱に焼きつけられた、白と黒の海獣紋。
波を抱く輪郭。
鋭い背びれのような線。
ハルヴェイ商会の裏口で見たものと同じ印だ。
けれど、ここで見ると印象が違った。
この港では、その紋がただの荷印ではないことが分かる。
周囲の作業員たちは、白黒の海獣紋が刻まれた木箱には無駄に近づかない。
運ぶ時も乱暴に扱わない。
冗談を言いながら働いていた若い獣人が、その箱の前では自然に声を落とした。
誰かに命令されたわけではない。
体に染みついた反応だった。
「……ほんとに、違うんだね」
俺が呟くと、ニカは小さく頷いた。
「誰の名前がついてるか。それだけで、空気が変わるんだよ」
「アイリスさん」
レインがこちらを呼ぶ。
「まずは取引先へ挨拶します。その後、ヴェスカ様の使いの方が迎えに来る予定です」
「分かりました」
現地の取引先は、丸顔の海鳥系獣人の男だった。
彼はレインと慣れた様子で話したが、俺を見ると少しだけ目を細めた。
「この方が?」
「はい。アイリスさんです」
「なるほど。海の品の使い道を変えたお嬢さんか」
「お嬢さん……」
少し引っかかったが、否定する場面でもない。
男は悪意なく笑った。
「いや、悪く言ったんじゃない。こっちじゃ話題になってる。海獣油の注文が増えたと思えば、今度は防水布だ、乾物だ、貝殻細工だ。何が起きてるのかと思っていたら、陸の方で海遊びの流れができたと聞いた」
「まだ、そこまで大きなものではないと思っていたんですけど」
「流れを作った本人は、そう言うものさ」
男は肩をすくめた。
「海の者は流れを見る。小さいうちに見落とすと、気づいた時には船が持っていかれる」
その言葉が、妙に耳に残った。
流れを見る。
商人も、海の者も、たぶん同じことをしている。
ただ、見るものが少し違うだけだ。
取引先との挨拶を終えてしばらく待つと、倉庫の入口に二人の獣人が現れた。
黒と白を基調にした軽装。腰に短い刃。
胸元には、白黒の海獣紋。
二人とも女性だった。
表情は静かだが、油断のない目をしている。
「ハルヴェイ商会のレイン殿。アイリス殿。ニカ殿」
一人が名を呼んだ。
「ヴェスカ・オルティがお待ちです」
その名が出た瞬間、近くにいた作業員の声がわずかに小さくなった。
やっぱり、この街では名前の重さが違う。
レインが丁寧に頭を下げる。
「ご案内をお願いします」
俺たちは二人の後について歩き出した。
港から奥へ進む。
石畳の道は濡れていて、靴裏が少し滑る。
道の脇には魚を捌く店、網を修繕する工房、塩漬けの樽を並べた倉庫、貝殻細工を売る小さな露店が並んでいた。
街は活気に満ちている。
けれど、王都の賑やかさとは違う。
ここには、海が近いせいか、どこか荒々しい空気がある。
笑い声も大きい。
怒鳴り声も大きい。
肩がぶつかれば睨み合いになる。
けれど、一定の線を越えない。
その線が何なのか、俺にはまだ分からない。
ニカは、ずっと周囲を見ていた。
「ニカ?」
「……うん。やっぱり、ちょっと違う」
「怖い?」
「怖いっていうより、密度が濃い。匂いも、視線も。陸の街より、誰がどこに立ってるかを気にしてる感じがする」
群れ。
縄張り。
名前。
以前聞いた言葉が、現実の空気になって俺たちを包んでいた。
案内されたのは、港を見下ろす高台にある建物だった。
屋敷というほど華美ではない。
けれど、ただの商館でもない。
黒い石と白い壁。
海風に削られたような柱。
入口には白黒の海獣紋が刻まれている。
建物の前には、武装した獣人が何人も立っていた。
その誰もが、こちらを見た。
声は出さない。
けれど、視線だけで距離を測られる。
通される時、ニカの尻尾が少しだけ膨らんだ。
中は静かだった。
外の喧騒が嘘のように遠い。
床は磨かれた黒い石で、壁には海図や古い銛、船の模型、白黒の海獣紋が飾られている。
奥へ進むほど、空気が重くなる。
魔力圧ではない。
でも、それに似た圧がある。
人が積み上げた名前の重さ。
その場所で逆らってはいけないものがあると、身体に理解させる空気。
扉の前で、案内役が止まった。
「ヴェスカ様。お連れしました」
「入れ」
低い声が返ってきた。
扉が開く。
その部屋は広かった。
大きな窓の向こうに、港と海が見える。
壁際には数人の従者。
部屋の奥には、重厚な長柄武器が立てかけられていた。
大型の銛槍。
槍とも斧ともつかない、重く、長く、敵を逃がさないための武器。
そして、その傍らに女がいた。
青みがかった白銀の長髪が、肩から胸元へ流れている。
冷たい銀青の瞳。
白と黒のシャチらしい模様が、肩から脇腹、腰、太腿へと続いている。
黒と白、そこに深い青を差した衣装は、華美ではない。
けれど、目を奪う。
隠すためのものというより、その身体の強さを見せるためのものに思えた。
豊かな胸。
締まった腹。
長く伸びた脚。
柔らかさより先に、鍛えられた重さがある。
可愛い、ではない。
甘さでもない。
海の深い場所にいる巨大な生き物が、女の形を取ってこちらを見ているようだった。
怖い。
強い。
近づいてはいけない。
そう思うより先に、俺の口が勝手に動いていた。
「……綺麗な人だ」
沈黙が落ちた。
言ってから、気づいた。
声に出ていた。
レインの指が、持っていた書類の端で止まる。
ニカの耳が、信じられないほど真っ直ぐ立った。
部屋の左右に控えていた従者たちの気配が、刃物のように尖る。
一人の手が、腰の武器へわずかに近づいた。
しまった。
そう思った瞬間。
「動くな」
低い声が落ちた。
大きくはない。
怒鳴ってもいない。
それなのに、部屋の空気が一瞬で押さえ込まれた。
従者たちが止まる。
ニカの尻尾まで、ぴたりと止まった。
女は、椅子から立ち上がった。
それだけで、部屋の重さが変わる。
一歩。
黒い石の床に、静かな足音が落ちた。
一歩。
近づいてくるほど、白銀の髪の青みが分かる。
冷たい銀青の瞳が、俺だけを見ている。
逃げたいわけじゃない。
でも、動けなかった。
ヴェスカ・オルティは、俺の目の前で足を止めた。
そして、右手を伸ばす。
その指先が、俺の顎に触れた。
驚くほど、優しい触れ方だった。
乱暴に掴まれたわけじゃない。
押さえつけられたわけでもない。
ただ、ほんの少し持ち上げられただけ。
それなのに、視線を逸らせなかった。
顔が近い。
眼の前の呼吸を肌で感じるほどに。
白と黒の模様。
濡れた海みたいな瞳。
整った鼻筋。
引き結ばれた唇。
近づくほど、綺麗だと思ってしまった。
怖いのに。
間違いなく危険な人なのに。
女として、あまりにも綺麗だった。
頬が、少し熱くなる。
しまった。
そう思っても、もう遅かった。
ヴェスカの銀青の瞳が、俺の顔を覗き込む。
「……その顔で言われると、余計に困るな」
低い声だった。
けれど、ほんのわずかに視線が揺れていた。
「あ、すみません」
俺は慌てて頭を下げようとした。
けれど、顎に添えられた指先が、それを止める。
強い力ではない。
それでも、不思議と逆らう気になれなかった。
「失礼なことを言うつもりはなくて、その……思ったことが、そのまま出ました」
「それを失礼と言うかどうかは、相手が決める」
「はい」
「だが」
ヴェスカは少しだけ目を細めた。
「悪意ではないことは分かる」
顎から指が離れる。
その瞬間、ようやく息が戻った気がした。
空気が、ほんの少しだけ緩む。
従者たちの気配も、完全ではないが刃物のような鋭さを収めた。
レインが小さく息を吐いたのが分かった。
ニカはまだ耳を立てたまま、俺を見ている。
その目は、たぶんこう言っていた。
初対面で何言ってるの。
俺もそう思う。
でも、出てしまったものは戻らない。
ヴェスカは踵を返し、椅子へ戻る。
そして深く腰を下ろし、片肘を肘掛けに置いた。
それだけで、この部屋の中心がどこにあるのか分かる。
誰も主導権を取りに行けない。
取ろうとする気さえ、起こさせない。
「お前が、アイリスか」
「はい。アイリス・シエーレです」
「そして、そちらがハルヴェイ商会のレイン。陸の獣人の娘がニカ」
「ニカです」
ニカが少しだけ硬い声で答えた。
「うむ」
ヴェスカは短く返す。
その視線が、俺に戻る。
「私はヴェスカ・オルティ」
白黒の海獣紋。
名前だけで荷を守る女。
その本人が、目の前にいる。
「海の流れに手を入れた陸の子。お前の話を聞かせてもらおう」
その言葉は、招きのようで、命令のようでもあった。
窓の向こうで、海が光っている。
俺の作った夏は、海の向こうまで届いてしまった。
そして今、その流れの先にいる女が、俺を見ていた。




