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転生したら美少女だったオレ  作者: ウルティ
第三章 自由と支配

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第百十話 白黒の海獣紋

第百十話 白黒の海獣紋

 セイレニア王国へ向かう道は、思っていたよりも海の匂いが強かった。

 王都を離れ、リズベルを抜け、獣車を乗り継いで南東へ進む。

 最初は土と草の匂いがした。

 それが少しずつ、湿った風に変わっていく。

 空気に塩が混じる。

 肌にまとわりつくような湿り気があり、風が吹くたび、どこか遠くで大きな水の塊が動いているような気配がした。


「海が近いね」


 ニカが窓の外を見ながら呟いた。

 耳がいつもよりよく動いている。


「分かるの?」


「匂いが違う。あと、音も。まだ見えてないけど、ずっと向こうで波が動いてる」


「波の音まで分かるんだ」


「はっきりじゃないよ。でも、空気が違う」


 ニカはそう言って、少しだけ鼻を鳴らした。

 獣人の感覚は、やっぱり俺とは違う。

 俺に分かるのは、せいぜい潮の匂いが濃くなってきたことくらいだ。

 同行しているレインは、向かいの席で書類を確認していた。

 今回の訪問に必要な取引書、紹介状、封書の写し、仕入れ記録。

 それらを一つずつ確かめる手つきは、いつも通り無駄がない。


「レインさん、緊張してます?」


「しています」


「即答ですね」


「相手が相手ですから」


 レインは顔を上げた。


「ただ、必要以上に恐れるつもりはありません。こちらに落ち度はありませんし、取引上の説明に来ているだけです」


「でも、軽い挨拶だけで済むかは分からない」


「はい」


 正直だ。

 その正直さが、逆に安心できる。

 曖昧に大丈夫だと言われるより、ずっといい。

 獣車が丘を越えた時、視界が一気に開けた。

 海だった。

 俺が作った海水浴場の穏やかな入り江とは違う。

 もっと大きい。

 もっと広い。

 水平線の向こうまで、水が続いている。

 陽光を受けてきらめく青。

 その上を、帆を張った船がいくつも行き来している。

 港には、大小さまざまな船が並んでいた。

 荷を下ろす者。

 網を畳む者。

 魚を仕分ける者。

 水を撒く者。

 声を張る者。

 人の声。

 獣人の声。

 木箱を置く音。

 車輪が軋む音。

 魚の匂い。

 潮の匂い。

 油の匂い。

 すべてが混ざって、街全体が生き物みたいに動いていた。


「……すごい」


 思わず声が漏れる。


「大陸の海産物の多くがここを通るという話も、誇張ではなさそうですね」


 レインが窓の外を見ながら言った。

 セイレニア王国。

 八英雄の一人、セイラス・レニアードが建てた海の国。

 中立を掲げ、海運と漁業で栄える国。

 書類の上で見た情報は、目の前の景色になった瞬間、まったく別の重さを持った。

 港へ近づくほど、獣人の姿が増える。

 魚の鱗を思わせる肌の者。

 水鳥のような翼を持つ者。

 鋭い歯を覗かせる者。

 厚い腕で樽を抱える者。

 海側の獣人。

 ニカの耳と尻尾が、少し硬くなっている。


「ニカ、大丈夫?」


「大丈夫。でも、見られてる」


「私たちが?」


「うん。レインさんは商人。アイリスは……目立つ。あたしは陸の獣人」


「陸の獣人って、分かるの?」


「たぶん。匂いとか、立ち方とか。あたしも向こうが海側だって、なんとなく分かるし」


 ニカは声を低くした。


「変に怖がる必要はないけど、舐められたら面倒だと思う」


「それはまた難しいね」


「でしょ」


 獣車が港近くの商会施設へ入る。

 ハルヴェイ商会が取引に使っている倉庫兼詰所らしい。

 入口では、レインが書類を見せ、現地の商人と短く挨拶を交わした。

 荷の積まれた倉庫の中を通る。

 そこで、俺は見つけた。

 木箱に焼きつけられた、白と黒の海獣紋。

 波を抱く輪郭。

 鋭い背びれのような線。

 ハルヴェイ商会の裏口で見たものと同じ印だ。

 けれど、ここで見ると印象が違った。

 この港では、その紋がただの荷印ではないことが分かる。

 周囲の作業員たちは、白黒の海獣紋が刻まれた木箱には無駄に近づかない。

 運ぶ時も乱暴に扱わない。

 冗談を言いながら働いていた若い獣人が、その箱の前では自然に声を落とした。

 誰かに命令されたわけではない。

 体に染みついた反応だった。


「……ほんとに、違うんだね」


 俺が呟くと、ニカは小さく頷いた。


「誰の名前がついてるか。それだけで、空気が変わるんだよ」


「アイリスさん」


 レインがこちらを呼ぶ。


「まずは取引先へ挨拶します。その後、ヴェスカ様の使いの方が迎えに来る予定です」


「分かりました」


 現地の取引先は、丸顔の海鳥系獣人の男だった。

 彼はレインと慣れた様子で話したが、俺を見ると少しだけ目を細めた。


「この方が?」


「はい。アイリスさんです」


「なるほど。海の品の使い道を変えたお嬢さんか」


「お嬢さん……」


 少し引っかかったが、否定する場面でもない。

 男は悪意なく笑った。


「いや、悪く言ったんじゃない。こっちじゃ話題になってる。海獣油の注文が増えたと思えば、今度は防水布だ、乾物だ、貝殻細工だ。何が起きてるのかと思っていたら、陸の方で海遊びの流れができたと聞いた」


「まだ、そこまで大きなものではないと思っていたんですけど」


「流れを作った本人は、そう言うものさ」


 男は肩をすくめた。


「海の者は流れを見る。小さいうちに見落とすと、気づいた時には船が持っていかれる」


 その言葉が、妙に耳に残った。

 流れを見る。

 商人も、海の者も、たぶん同じことをしている。

 ただ、見るものが少し違うだけだ。

 取引先との挨拶を終えてしばらく待つと、倉庫の入口に二人の獣人が現れた。

 黒と白を基調にした軽装。腰に短い刃。

 胸元には、白黒の海獣紋。

 二人とも女性だった。

 表情は静かだが、油断のない目をしている。


「ハルヴェイ商会のレイン殿。アイリス殿。ニカ殿」


 一人が名を呼んだ。


「ヴェスカ・オルティがお待ちです」


 その名が出た瞬間、近くにいた作業員の声がわずかに小さくなった。

 やっぱり、この街では名前の重さが違う。

 レインが丁寧に頭を下げる。


「ご案内をお願いします」


 俺たちは二人の後について歩き出した。

 港から奥へ進む。

 石畳の道は濡れていて、靴裏が少し滑る。

 道の脇には魚を捌く店、網を修繕する工房、塩漬けの樽を並べた倉庫、貝殻細工を売る小さな露店が並んでいた。

 街は活気に満ちている。

 けれど、王都の賑やかさとは違う。

 ここには、海が近いせいか、どこか荒々しい空気がある。

 笑い声も大きい。

 怒鳴り声も大きい。

 肩がぶつかれば睨み合いになる。

 けれど、一定の線を越えない。

 その線が何なのか、俺にはまだ分からない。

 ニカは、ずっと周囲を見ていた。


「ニカ?」


「……うん。やっぱり、ちょっと違う」


「怖い?」


「怖いっていうより、密度が濃い。匂いも、視線も。陸の街より、誰がどこに立ってるかを気にしてる感じがする」


 群れ。

 縄張り。

 名前。

 以前聞いた言葉が、現実の空気になって俺たちを包んでいた。

 案内されたのは、港を見下ろす高台にある建物だった。

 屋敷というほど華美ではない。

 けれど、ただの商館でもない。

 黒い石と白い壁。

 海風に削られたような柱。

 入口には白黒の海獣紋が刻まれている。

 建物の前には、武装した獣人が何人も立っていた。

 その誰もが、こちらを見た。

 声は出さない。

 けれど、視線だけで距離を測られる。

 通される時、ニカの尻尾が少しだけ膨らんだ。

 中は静かだった。

 外の喧騒が嘘のように遠い。

 床は磨かれた黒い石で、壁には海図や古い銛、船の模型、白黒の海獣紋が飾られている。

 奥へ進むほど、空気が重くなる。

 魔力圧ではない。

 でも、それに似た圧がある。

 人が積み上げた名前の重さ。

 その場所で逆らってはいけないものがあると、身体に理解させる空気。

 扉の前で、案内役が止まった。


「ヴェスカ様。お連れしました」


「入れ」


 低い声が返ってきた。

 扉が開く。

 その部屋は広かった。

 大きな窓の向こうに、港と海が見える。

 壁際には数人の従者。

 部屋の奥には、重厚な長柄武器が立てかけられていた。

 大型の銛槍。

 槍とも斧ともつかない、重く、長く、敵を逃がさないための武器。

 そして、その傍らに女がいた。

 青みがかった白銀の長髪が、肩から胸元へ流れている。

 冷たい銀青の瞳。

 白と黒のシャチらしい模様が、肩から脇腹、腰、太腿へと続いている。

 黒と白、そこに深い青を差した衣装は、華美ではない。

 けれど、目を奪う。

 隠すためのものというより、その身体の強さを見せるためのものに思えた。

 豊かな胸。

 締まった腹。

 長く伸びた脚。

 柔らかさより先に、鍛えられた重さがある。

 可愛い、ではない。

 甘さでもない。

 海の深い場所にいる巨大な生き物が、女の形を取ってこちらを見ているようだった。

 怖い。

 強い。

 近づいてはいけない。

 そう思うより先に、俺の口が勝手に動いていた。


「……綺麗な人だ」


 沈黙が落ちた。

 言ってから、気づいた。

 声に出ていた。

 レインの指が、持っていた書類の端で止まる。

 ニカの耳が、信じられないほど真っ直ぐ立った。

 部屋の左右に控えていた従者たちの気配が、刃物のように尖る。

 一人の手が、腰の武器へわずかに近づいた。

 しまった。

 そう思った瞬間。


「動くな」


 低い声が落ちた。

 大きくはない。

 怒鳴ってもいない。

 それなのに、部屋の空気が一瞬で押さえ込まれた。

 従者たちが止まる。

 ニカの尻尾まで、ぴたりと止まった。

 女は、椅子から立ち上がった。

 それだけで、部屋の重さが変わる。

 一歩。

 黒い石の床に、静かな足音が落ちた。

 一歩。

 近づいてくるほど、白銀の髪の青みが分かる。

 冷たい銀青の瞳が、俺だけを見ている。

 逃げたいわけじゃない。

 でも、動けなかった。

 ヴェスカ・オルティは、俺の目の前で足を止めた。

 そして、右手を伸ばす。

 その指先が、俺の顎に触れた。

 驚くほど、優しい触れ方だった。

 乱暴に掴まれたわけじゃない。

 押さえつけられたわけでもない。

 ただ、ほんの少し持ち上げられただけ。

 それなのに、視線を逸らせなかった。

 顔が近い。

 眼の前の呼吸を肌で感じるほどに。

 白と黒の模様。

 濡れた海みたいな瞳。

 整った鼻筋。

 引き結ばれた唇。

 近づくほど、綺麗だと思ってしまった。

 怖いのに。

 間違いなく危険な人なのに。

 女として、あまりにも綺麗だった。

 頬が、少し熱くなる。

 しまった。

 そう思っても、もう遅かった。

 ヴェスカの銀青の瞳が、俺の顔を覗き込む。


「……その顔で言われると、余計に困るな」


 低い声だった。

 けれど、ほんのわずかに視線が揺れていた。


「あ、すみません」


 俺は慌てて頭を下げようとした。

 けれど、顎に添えられた指先が、それを止める。

 強い力ではない。

 それでも、不思議と逆らう気になれなかった。


「失礼なことを言うつもりはなくて、その……思ったことが、そのまま出ました」


「それを失礼と言うかどうかは、相手が決める」


「はい」


「だが」


 ヴェスカは少しだけ目を細めた。


「悪意ではないことは分かる」


 顎から指が離れる。

 その瞬間、ようやく息が戻った気がした。

 空気が、ほんの少しだけ緩む。

 従者たちの気配も、完全ではないが刃物のような鋭さを収めた。

 レインが小さく息を吐いたのが分かった。

 ニカはまだ耳を立てたまま、俺を見ている。

 その目は、たぶんこう言っていた。

 初対面で何言ってるの。

 俺もそう思う。

 でも、出てしまったものは戻らない。

 ヴェスカは踵を返し、椅子へ戻る。

 そして深く腰を下ろし、片肘を肘掛けに置いた。

 それだけで、この部屋の中心がどこにあるのか分かる。

 誰も主導権を取りに行けない。

 取ろうとする気さえ、起こさせない。


「お前が、アイリスか」


「はい。アイリス・シエーレです」


「そして、そちらがハルヴェイ商会のレイン。陸の獣人の娘がニカ」


「ニカです」


 ニカが少しだけ硬い声で答えた。


「うむ」


 ヴェスカは短く返す。

 その視線が、俺に戻る。


「私はヴェスカ・オルティ」


 白黒の海獣紋。

 名前だけで荷を守る女。

 その本人が、目の前にいる。


「海の流れに手を入れた陸の子。お前の話を聞かせてもらおう」


 その言葉は、招きのようで、命令のようでもあった。

 窓の向こうで、海が光っている。

 俺の作った夏は、海の向こうまで届いてしまった。

 そして今、その流れの先にいる女が、俺を見ていた。


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