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転生したら美少女だったオレ  作者: ウルティ
第三章 自由と支配

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第百九話 海の向こう

第百九話 海の向こう

 夏の熱が、少しずつ遠のいていく。

 海辺の休憩所に並んでいた人の列は、最盛期ほどではなくなった。

 けれど、完全に消えたわけではない。

 水着を買う者、浜履きを履いて砂浜へ向かう者、陽除け香膏を塗る者、清香布で汗を拭う者。

 去年は、物珍しさが人を呼んだ。

 今年は違う。

 海へ行く。

 水着を着る。

 浜辺で過ごす。

 帰りに休憩所で飲み物を買う。

 その流れが、少しずつ人々の中に馴染み始めていた。

 俺が作ったものが、俺の手を離れて、習慣になろうとしている。

 そう思うと、嬉しさと同じくらい、変な怖さもあった。

 ハルヴェイ商会の応接室。

 机の上には、分厚い帳簿が何冊も積まれていた。

 売上記録、仕入れ一覧、運搬費、人件費、休憩所の維持費、増設費、来年へ向けた投資計画。

 数字の圧がすごい。

 魔力圧とは別方向に、人を殴ってくる。

 向かいに座るレインは、いつものように背筋を伸ばし、淡々と書類を整えていた。

 隣のニカは、椅子の上で落ち着かなさそうに尻尾を揺らしている。


「今年の夏事業ですが、最終集計が出ました」


 レインが帳簿を開いた。


「……聞く前から怖いですね」


「悪い報告ではありません」


「レインさんがそう言う時って、大体、桁が怖いんですよね」


「慣れてください。アイリスさんは、これを扱う側になったのですから」


 さらりと言われた。

 慣れる気は、まだまったくしない。


「総売上は、前年比およそ八百パーセントです」


「……八百?」


「はい。およそ八倍です」


 ニカの耳がぴんと立った。


「八倍って、去年の八つ分?」


「そういうことになります」


「海って怖いね」


「怖いのは海じゃなくて数字だと思う」


 俺が思わず呟くと、レインは小さく笑った。


「もちろん、売上がそのまま利益になるわけではありません。仕入れ、運搬、人件費、施設維持、増設、警備、来年度拡張の準備。差し引くものは多いです」


「ですよね」


「その上で、ハルヴェイ商会の取り分、契約に基づくアイリスさんの取り分、協力者への報酬、次年度投資分を分配しています」


 金が動く。

 それは、俺一人が儲けるという話ではない。

 売る人間がいる。

 運ぶ人間がいる。

 作る人間がいる。

 場所を整える人間がいる。

 客を案内する人間がいる。

 そこに関わった者たちへ、金が流れていく。

 そうして、次の商いの形が作られていく。


「まず、ニカさん」


「え、あたし?」


 レインは別の書類を取り出し、ニカの前に置いた。


「通常の給与とは別に、夏季特別手当をお支払いします」


「と、特別……?」


「はい。売店前での呼び込み、列整理、客の誘導、混雑時の対応。それらが売上と客の回転率に明確に影響しています」


「明確に……」


「数字に出ています」


 レインは淡々としている。

 けれど、それは冷たい言い方ではなかった。感情で褒めるのではなく、働きの価値をきちんと数字で示している。


「金額は、六十万ビルです」


 ニカが固まった。


「ろく……じゅう……?」


「六十万ビルです」


「え、あたし、何か壊した?」


「壊してません。むしろ稼いだ側です」


 俺が言うと、ニカは目をぱちぱちさせた。


「でも、声かけたり、並んでもらったりしただけだよ?」


「だけではありません」


 レインは静かに首を振る。


「客が迷わず、怒らず、買いたい物を買えるようにした。それは商売において重要な働きです。ニカさんは、その役割を十分に果たしました」


 ニカは革袋を受け取る前から、もう困ったような顔をしていた。


「……あたしが、稼いだお金」


「はい」


「殴られたり、怒鳴られたり、無理やり何かさせられたりしたんじゃなくて?」


「はい」


 ニカの耳が少し下がる。

 それは悲しそうというより、何かを噛みしめている顔だった。


「そっか」


 小さな声だった。


「……ありがとうございます」


「こちらこそ、ありがとうございます。ニカさん」


 レインは穏やかに頷いた。

 そのやり取りを見ながら、俺は少し胸が温かくなった。

 ニカが自分の働きで金を得る。

 それは、ただの報酬以上の意味がある。

 誰かに傷つけられることと引き換えではない。

 誰かに買われるわけでもない。

 役に立ち、働き、その分を受け取る。

 それはきっと、ニカの中に一つ残る。

 そう思ったところで、レインは今度は俺の前に書類を置いた。


「そして、アイリスさんの取り分です」


「……はい」


 来た。

 正直、聞きたいような聞きたくないような気持ちだった。


「契約に基づく創案権分、歩合分、関連商品の分配を合わせ、今年の夏事業におけるアイリスさんの取り分は、一億三千二百万ビルになります」


「……」


 俺は書類を見た。

 一、三、二、〇、〇、〇、〇、〇、〇。

 うん。

 桁が多い。


「アイリス?」


 ニカが覗き込んでくる。


「大丈夫?」


「数字に殴られてます」


「大丈夫じゃなかった」


「アイリスさん」


 レインは真面目な顔でこちらを見る。


「これは幸運で得た金ではありません。アイリスさんが作り、広げ、契約に基づいて受け取る金です」


「……はい」


「前年度の夏、冬と積み重ねてきたものが、今年の夏に大きく広がりました。もう、発想が面白いだけの段階ではありません。市場を動かした結果です」


 市場を動かした。

 その言葉は、重かった。

 俺はまだ学院生だ。

 けれど、だからどうした、という話でもある。

 俺が作ったものは、実際に人を動かした。物を動かした。金を動かした。

 なら、その結果も責任も、俺のところへ戻ってくる。


「一部は来年度拡張への再投資に回すことをおすすめします。施設、人員教育、仕入れ枠の確保、警備、他地域への展開準備。規模が大きくなれば、必要な守りも増えます」


「守り……」


「はい。商いは、広がれば広がるほど、周囲の流れにも影響します」


 金は自由のための力だ。

 金があれば、選べる道は増える。

 誰かに頭を下げずに済む場面も増える。

 逃げる道も、助ける道も、作る場所も増える。

 けれど、力には責任がついてくる。

 大きくなった流れは、自分だけのものでは済まなくなる。

 その証拠のように、レインは一通の封書を机の上へ置いた。

 封蝋には、白と黒の海獣紋。

 波を抱くような輪郭。

 鋭い背びれを思わせる線。

 見覚えがあった。


「白黒の海獣紋……」


 俺が呟くと、ニカの耳が鋭く動いた。


「ヴェスカ・オルティ」


 あの日、ハルヴェイ商会の裏口で見た荷印。

 商人にとっては品質の保証。

 獣人にとっては、手を出すなという警告。

 名前だけで荷を守る女。

 その名前が、今度は封書になって俺たちの前に置かれている。


「ヴェスカ・オルティ様からの問い合わせです」


「問い合わせ、ですか?」


「はい。ハルヴェイ商会の仕入れ量が、この夏で大きく増えました。特に海獣油、防水布、塩漬け魚、乾物、貝殻細工。その流れが目に見えて変わっています」


 レインは封書に指を置く。


「向こうからすれば、理由を知らずに流通量だけが増えるのは不自然なのでしょう」


「それで、理由を聞きたいと」


「はい。できれば、直接話を聞きたいという内容です」


「直接……」


 俺は封書を見る。

 白黒の海獣紋は、ただそこにあるだけなのに妙な圧があった。


「レインさんは、ヴェスカさんのことをどれくらい知っているんですか?」


「確実に知っていることは多くありません」


 レインは素直にそう言った。


「商人の間では、白黒の海獣紋は信用の印です。品質が安定している。荷が荒らされにくい。取引相手として無視できない。それくらいです」


「商人の間では、ですか」


「はい。ですが、以前ニカさんから聞いた話で、こちらの認識だけでは足りないと分かりました」


 ニカは少しだけ顔を上げる。


「あれは、商人の印ってだけじゃないよ」


「うん」


「獣人側だと、名前そのもの。特に海側の獣人にとっては、たぶんもっと重い。あたしも直接知ってるわけじゃないけど、白黒の海獣紋に手を出すなって話は聞いたことある」


「そんなに有名なの?」


「少なくとも、知らない方が危ない名前」


 ニカの声は、いつもの軽さより少し低かった。


「海側の獣人は、群れとか縄張りとか、陸より濃いって聞く。誰の荷か。誰の縄張りか。誰の名前がついてるか。それで態度が変わることもある」


「ヒュームの家名みたいなもの?」


「似てるけど、たぶんもっと身体に近い。勝てるかどうか。逆らっていいかどうか。近づいたら噛まれるかどうか。そういう感じ」


 分かるような、分からないような。

 けれど、ニカの耳と尻尾がいつもより硬いのを見れば、軽く扱っていいものではないことだけは分かる。


「ヴェスカさんは、セイレニア王国にいるんですよね」


「はい」


 レインは別の資料を開いた。


「セイレニア王国は、八英雄の一人、セイラス・レニアードが建てた国です。漁業と海運で栄え、大陸に流れる海産物の多くがセイレニアを通っています。獣人の比率も高く、海側の文化が強い国とされています」


「行ったことは?」


「私はありません。商会として取引はありますが、現地の事情については取引先を通じた情報が中心です」


「じゃあ、行ってみないと分からないことも多そうですね」


「はい。だからこそ、直接話す価値があります」


 レインはそこで、一度言葉を切った。


「今回の仕入れ増加は、単にハルヴェイ商会が多く買ったという話ではありません。アイリスさんが作った夏事業によって、海側の品の使い道が変わったことが大きい」


「海獣油は陽除け香膏や手入れ用。防水布は浜辺や移動用。塩漬け魚や乾物は休憩所と保存食。貝殻細工は土産物……」


「はい。それらの需要がまとまって増えています。私だけで説明すれば、商会の買い付け拡大として受け取られるでしょう。ですが、実際にはアイリスさんの発案した流れが原因です」


 レインは、俺をまっすぐ見た。


「この話には、アイリスさんが必要です」


 必要。

 その言葉に、少しだけ背筋が伸びた。

 俺はもう、ただ案を出すだけの立場ではなくなっている。

 作った流れの先に、知らない誰かがいる。

 その誰かが、こちらを見ている。

 なら、俺も見に行かなければならない。


「危険はありますか?」


「分かりません」


 レインはごまかさなかった。


「取引上の招きであることは確かです。ですが、相手の立場や現地の空気を考えれば、軽い挨拶だけで済むとは限りません」


「正直ですね」


「曖昧な安心を言う方が危険ですから」


 それはそうだ。

 白黒の海獣紋。

 名前だけで荷を守る女。

 海側の獣人社会。

 俺の作った夏に反応した、まだ見ぬ国。

 情報は少ない。

 むしろ、少ないからこそ不気味だった。

 でも、分からないまま避けることはできない。

 俺が作ったものが、どこまで届いて、何を動かしているのか。

 それを知る必要がある。


「アイリスさん」


 レインが言う。


「セイレニア王国へ同行していただけませんか」


 俺は封書を見る。

 あの日は、木箱に焼きつけられた荷印だった。

 今日は、封書に刻まれた招きだった。

 ヴェスカ・オルティ。

 名前だけで荷を守る女。

 俺はまだ、その人を知らない。

 でも、向こうはもう、こちらを見ている。


「分かりました。行きます」


 そう答えると、ニカがすぐに言った。


「あたしも行く」


「ニカ?」


「海側の獣人の話なら、あたしもいた方がいいでしょ。それに、白黒の海獣紋は気になる」


 レインは少し考え、それから頷いた。


「分かりました。同行者として手配します」


 夏の成果は、金だけでは終わらなかった。

 それは、海の向こうへ続く道を開いてしまった。

 白黒の海獣紋。

 木箱に焼きつけられていた時には、ただの荷印に見えた。

 けれど今、それは封書の上で、こちらを見ているようだった。

 海の向こうに、まだ俺の知らない流れがある。

 その流れが、俺の作った夏に反応していた。


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