第百八話 夏の売店戦線
第百八話 夏の売店戦線
夏が本格的に始まって数日。
俺はハルヴェイ商会の応接室で、レインさんと向かい合っていた。
机の上には、売上記録、仕入れ表、人員配置表、そして海辺施設の簡単な見取り図が並んでいる。
そのどれもに、細かい字で書き込みがされていた。
「アイリスさん。人手が足りません」
開口一番、レインはそう言った。
「……レインさんがそんな顔をするの、珍しいですね」
「珍しがっている場合ではありません」
即答だった。
いつものレインは冷静だ。
何が起きても、淡々と帳簿をめくり、数字で現実を殴ってくるような人だ。
そのレインさんの目元に、はっきり疲れが出ていた。
「去年は、海辺に人を呼ぶための夏でした。今年は違います。人が来すぎています」
レインが見取り図の一点を指差す。
「売店前の列が伸びすぎています。休憩所の席案内も追いついていません。足洗い場、更衣場所、浜履き売り場、陽除け香膏の販売、清香布の補充。すべてが去年の比ではありません」
「それは……嬉しい悲鳴ですね」
「悲鳴は悲鳴です」
「ですよね」
海水浴という遊びは、どうやらこの国に根付き始めていた。
去年はまだ、珍しいものを見るために人が集まっていた。
今年は違う。
水着を買い、浜履きを履き、香膏を塗り、清香布を持ち、海に入り、休憩所で冷たい飲み物を飲む。
そういう一連の流れが、少しずつ人々の中に定着している。
それは嬉しい。
嬉しいのだが、人が増えれば、当然仕事も増える。
「ニカさんには、売店前の呼び込みと列整理をお願いしたいです」
「ニカなら、たぶん喜んで手伝うと思います」
「それと、男手も必要です。荷運び、席の入れ替え、客同士の揉め事の抑止。信頼できる方を数名、紹介していただけませんか」
「信頼できる男手……」
俺は少し考えた。
大前提に学院生への援助は禁止されている。
つまり、学院生は自分で稼ぐしかない。
そういう意味ではみんな働き口は欲しいはず。
レオスは確定だ。
無愛想だけど真面目だし、力もある。
リリィは男手ではないが、間違いなく戦力になる。
人前に立つのがうまく、声も通る。
問題は、もう一人。
親しいわけではない。
むしろ、少し前までなら頼もうとも思わなかった相手。
金髪赤眼。
目つきも口元も悪く、制服を着崩した男子生徒。
ダリウス・グレイヴ。
ガラは悪い。
態度も悪い。
口も悪い。
けれど、体格はいい。
力もある。
人に舐められにくい。
こういう場の揉め事を抑えるには、案外向いているかもしれない。
「声をかけてみます」
「お願いします」
そうして、俺は助っ人集めに動いた。
まずはニカだ。
「レインさんが、ニカに売店前を手伝ってほしいって」
「レインさんが?」
ニカの耳がぴんと立つ。
「うん。呼び込みと列整理。ニカは明るいし、声も通るから」
「おっけー!手伝うよ!」
即答だった。
次にレオス。
学院の訓練場近くで声をかけると、レオスは少し眉を寄せた。
「商会の仕事などしたことはない」
「大丈夫。力仕事と列整理が中心だから」
「接客は向いていない」
「そこは期待してない」
「……それなら、できる」
本人は納得したようだったが、それを横で聞いていたニカが少し笑った。
「レオス、私と一緒に店前だって」
「そうか」
「……うん」
ニカの声が、急に小さくなる。
この前、海で足を切ったニカをレオスがお姫様抱っこで運んだ。
それから、ニカはどうもレオスの前で様子が変だ。
本人はまだ、それが何なのか分かっていない顔をしている。
次にリリィへ声をかけると、こちらは説明の途中で大きく笑った。
「はっはっは! 商会の仕事は初めてだわ! 困っているなら手を貸すわよ!」
「ありがとう。たぶんかなり忙しいよ」
「忙しいのはいいことだわ!」
最後にダリウス。
廊下の端でだるそうに壁へ寄りかかっていた彼は、俺の話を聞いて露骨に顔をしかめた。
「俺に商会の手伝いをしろってのか?」
「人手がいるから。無理ならいいけど」
「……金は出るんだろうな」
「出るよ」
「なら、やってやる」
理由は現実的だった。
でも断らないだけ、ありがたい。
数日後。
俺たちは海辺売店にいた。
白い砂浜。
青い海。
照りつける太陽。
去年より広くなった休憩所。
足洗い場に並ぶ家族連れ。
香膏を選ぶ女性たち。
浜履きを手に走る子どもたち。
そして、売店前には列。
長い。
「……これは、戦場ですね」
俺が呟くと、レインさんがすぐに頷いた。
「はい。夏の売店戦線です」
冗談ではなく、本気の声だった。
配置はすぐに決まった。
ニカとレオスは店前。
呼び込み、列整理、客の誘導。
俺、リリィ、ダリウスはホール側。
注文確認、配膳、片付け、席の入れ替え。
「冷たい飲み物ありますよー! 清香布はこっち! 並ぶ人は一列でお願いしまーす!」
ニカの声はよく通る。
笑顔もいい。
尻尾もよく動く。
ただし、隣にレオスが立つと少し様子が変わった。
「ニカ、そっちの列が詰まっている」
「えっ、あ、うん。分かった」
声が小さい。
顔が赤い。
尻尾がぴんと立っている。
「ニカ、大丈夫?」
「大丈夫。なんか、レオスが近いと胸のあたりが変なだけ」
「……なるほど」
「何?」
「何でもない」
今は仕事中だ。
突っ込むのはやめておこう。
一方、レオスは何も気づいていない。
「足は痛まないか」
「へっ?」
「この前の傷だ」
「だ、大丈夫」
「ならいい」
それだけ言って、レオスは木箱を持ち上げた。
ニカはその背中を見て、また少し赤くなる。
鈍い。
そして、その鈍さが一番危ない。
売店は昼に近づくほど忙しくなった。
「三番卓、飲み物二つ!」
「こっちは清香布追加!」
「日陰の席が空いたわ! 次の家族を通して!」
リリィの声が響く。
「はっはっは! 慌てなくても飲み物は逃げないわ! 順に案内するから待っていて!」
なぜか客も笑う。
リリィは本当に、人の前に立つのがうまい。
ダリウスはというと、最初はずっと仏頂面だった。
「おい、空いた皿はこっちだ。通路で止まるな。後ろが詰まる」
言い方は悪い。
けれど動きは早い。
重い桶もまとめて運ぶし、椅子の位置も迷わず直す。
少し柄の悪い客が割り込みかけた時も、ダリウスが前に出るだけで相手が引いた。
顔が怖いのも、使いようらしい。
ピークになると、レオスもホール側へ呼ばれた。
「レオス、そっちの席に飲み物を運んで」
「分かった」
海用の軽い服装で盆を持って歩くレオスに、女性客の視線が集まる。
無理もない。
顔は整っている。
身体も鍛えられている。
無愛想なのに、頼まれたことは真面目にやる。
そういうのが好きな人は、たぶんいる。
「ねえ、あなた学生さん?」
若い女性客が笑顔で声をかけた。
「はい」
「手伝い? 偉いのね」
「……仕事なので」
「あとで少し話せない?」
「え、あ……俺は、その……」
レオスが詰まった。
顔が赤い。
剣を向けられた時より動揺している。
俺とリリィとダリウスは、少し離れたところからその様子を見ていた。
「レオスは人気者なのね!」
リリィが感心したように言う。
「女に話しかけられただけであんな固まるのかよ。あれで剣振ってる時は偉そうなのが腹立つな」
ダリウスが吐き捨てる。
「分かる」
思わず同意した。
その少し後ろで、ニカの耳が伏せていた。
尻尾も、さっきより膨らんでいる。
「ニカ?」
「別に」
「別にの顔じゃないよ」
「……なんか、嫌」
「何が?」
「分かんない。でも、嫌」
ニカは女性客に囲まれているレオスを見たまま、小さく唇を尖らせた。
やがてレオスが女性客たちから解放され、戻ってきた。
「客の対応は難しいな」
「……ふーん」
ニカの返事は冷たい。
「どうした」
「別に」
「そうか」
そうか、じゃない。
俺は心の中で突っ込んだ。
忙しさは昼を越えても続いた。
注文。
配膳。
片付け。
客の案内。
売り切れかけた品の補充。
身体の痛みがまだ残っている俺には、正直かなりきつい。
けれど、客の流れを見るのは面白かった。
俺が作ったものが、俺の手を離れて、人の習慣になり始めている。
そう思うと、不思議と悪い気はしなかった。
ようやく客足が少し落ち着いた頃、レインさんが短く言った。
「アイリスさん、リリィさん、ダリウスさん。休憩に入ってください」
「ありがとうございます」
ニカとレオスはまだ店前で列整理。
たぶん、あの二人を並べておいた方が客捌きに便利だと判断されたのだろう。
休憩所の裏手で、俺たちは冷たい飲み物を受け取った。
「はあ……生き返る」
「はっはっは! 働くというのは面白いわね!」
「お前は何でも面白がるんだな」
ダリウスが呆れたように言う。
「ええ! 知らないことは大体面白いわ!」
「疲れねえのかよ」
「疲れるわ!」
「なら笑うな」
「疲れていても笑えるわ!」
ダリウスは理解できないという顔をした。
少し沈黙が落ちる。
その後、ダリウスがぽつりと言った。
「……この前の決闘、見てた」
俺は顔を上げる。
「見てたんだ」
「見える場所にいただけだ」
素直じゃない。
リリィは嬉しそうに身を乗り出した。
「なら、どうだったかしら!」
「うるせえ。近い」
ダリウスは顔をしかめ、飲み物を一口飲んだ。
それから、視線を逸らしたまま言う。
「レグナード。お前の顕現と魔法、正直むかつくくらい強かった」
「はっはっは! 褒めているのね!」
「調子に乗るな」
リリィは楽しそうに笑っている。
ダリウスは次に、俺を見た。
「アイリス。お前もだ」
「私?」
「悪魔も魔法も使わずに、あそこまで食らいついた。あの剣群に突っ込んだ時は、頭おかしいと思ったけどな」
「それは否定しづらい」
「でも、届かせた」
赤い目が、真っ直ぐこちらを睨む。
いつもの威嚇のような視線。
でも、そこにあるものは少し違った。
「腹が立つくらい、すげえと思った」
予想外の言葉だった。
ダリウスは、粗暴で、口が悪くて、人を見下すところがある。
初期印象だけなら、関わりたい相手ではない。
でも今の言葉には、嘘がなかった。
「俺は、負けっぱなしで終わる気はねえ」
ダリウスは自分の拳を見た。
「王冠十五座に行く。そう決めてる。だから、あんなもん見せられて、すげえなで終わる気はねえんだよ」
リリィの表情が少しだけ真面目になる。
「あなたも、王冠を目指すのね」
「お前の言う王とは違う。俺が目指してるのは王冠十五座だ」
「それでも、届きたい場所があるのは同じだわ」
「一緒にするな」
言葉は乱暴だった。
けれど、否定しきれていないようにも見えた。
俺はダリウスを見る。
ただ、ガラが悪いだけじゃない。
ただ、人に噛みつきたいだけでもない。
こいつの中にも、届きたい場所がある。
負けたくないものがある。
言い方が乱暴なだけで、その奥にはちゃんと熱があった。
「じゃあ、今度一緒に訓練する?」
「あ?」
「強くなりたいんでしょ」
「……気が向いたらな」
「向いてる顔してるよ」
「うるせえ」
ダリウスはそっぽを向いた。
リリィが笑う。
「仲間が増えるのはいいことね!」
「仲間じゃねえ」
「では、競い合う相手ね!」
「フンッ、なんでもいいけどよ」
その言い方に、俺は少しだけ笑った。
休憩を終えて戻ると、店前ではニカとレオスが並んで客を誘導していた。
「危ないから下がっていろ」
レオスが、子どもを避けながら木箱を持ち上げる。
ニカはその横顔を見て、耳を伏せた。
「……かっこいいのが悪い」
「何か言ったか」
「何でもない!」
レオスは首を傾げるだけだった。
しばらくして、また女性客がレオスに声をかけた。
「ねえ、さっきのお兄さん。これ、どこに返せばいいの?」
「あちらです」
「案内してくれる?」
「……はい」
レオスは真面目に案内する。
女性客は楽しそうに距離を詰める。
ニカの尻尾が、ぶわっと膨らんだ。
「ニカ、清香布の補充お願い」
俺が声をかけると、ニカはむっとした顔でこちらを見た。
「……アイリス」
「何?」
「あの人、近くない?」
「近いね」
「近いよね?」
「近い」
「なんか嫌」
「うん」
「これ、何?」
真剣な顔で聞かれて、俺は少し困った。
嫉妬だよ、と言うのは簡単だ。
でも今のニカには、たぶん早い。
自分で気づく方がいい。
「大事なものを取られそうな感じ、かな」
「取られる?」
「たぶん」
ニカはレオスを見た。
レオスは女性客に礼をして、真面目に戻ってくるところだった。
「……取られたくないかも」
小さな声だった。
俺は聞こえないふりをした。
仕事が終わる頃には、全員くたくただった。
夕方の海辺で、レインが集計を見ながら静かに言う。
「本日の売上は、昨年同日の倍以上です」
「嬉しいですけど、疲労も倍以上ですね」
「繁盛とはそういうものです」
レインはさらりと言った。
リリィは満足そうに腕を上げる。
「はっはっは! よく働いたわ!」
「本当にね」
ニカは飲み物を両手で持ちながら、レオスの近くに座っていた。
レオスがふと尋ねる。
「足は痛まないか」
「……平気」
「ならいい」
それだけ。
それだけなのに、ニカの耳が少し赤くなる。
これは、たぶんしばらく面倒なことになる。
ダリウスが立ち上がった。
「帰る」
「手伝ってくれてありがとう」
「金もらってるからな」
それだけ言って歩きかけたダリウスは、途中で足を止めた。
「アイリス」
「何?」
「次、訓練する時は声かけろ」
「気が向いたらじゃなかったの?」
「気が向いたんだよ」
それだけ言って、ダリウスは背を向けた。
金髪が夕陽に照らされ、風に揺れる。
目つきも口も悪い。
態度も悪い。
でも、ただの嫌な奴ではない。
夏の海は、去年よりずっと忙しくなっていた。
人も。
仕事も。
関係も。
気づけば俺の周りには、また一人、面倒そうで、でも悪くない奴が増えていた。




